風は西南、空は快晴。航路は乱れず波も穏やか。
「だってぇのに……何を俺は皿洗いなんかやってんだ……?」
 目の前の壁には丸い窓が付いていて、時折波間にデカイ影が浮かぶ。
 最初はそれが何だと気になって仕事が手につかなかったが、今では魚が飛んでも興味も湧かなくなった。三日も皿洗いばっかりしてりゃ、そんな気力も無くなって来るからだ。
 右には視界を塞ぐほどの皿の山。
 左にも視界を塞ぐほどの皿の山。
 因みに左が洗い終わった後の皿だ。
 どうしてこうなった、と叫び出しそうになるのを抑えながら、俺は深い溜息を吐いた。
「おう新入りさん、まだ終わんねーのかよ。早くしねーともう次の皿来ちまうぜ?」
 後ろを通りがかった厨房係の船員にせっつかれて、無理に笑顔を作ってうんうんと頷いてみせる。
「わ、わかってます」
 しかし俺の苛立ちは表情に出るほどだったのか、相手は少々体を引くと困ったように笑った。
「まあ……イライラする気持ちも解るけどよお、ここでふんばらねーと負けだぜ?」
「……船員がそんなこと言ってもいいんスか?」
 自分に好意的な事を言ってくれる相手に訝しげに訊くが、相手は大事無いといった様子で頭を掻く。厨房でそんなことしてもいいんだろうか。
 更に訝しげに眉を顰めてしまった俺に気付かず、船員は困った顔のままで口を開いた。
「ウチは軽いからねえ。水夫長にみつかんなけりゃみーんな悪口言い放題さ。やることしっかりやってりゃ、口が悪くたって何もいいやしねえよ」
「ただし、それも仕事が出来る奴だけの特権だけどな?」
 どっから湧いて出たのか、ひょいと俺と船員の間に割り込んでくる枯れ草っぽい頭。
 ああまた嫌味野郎のお出ましだ。
「せせせ船長!! ど、どうしてこのような所にっ」
 さっきまではタメ口OKなどとのたまっていたのに、船員はしっかりと敬礼して皇帝に頭を下げる。
 バカ皇帝はそれを当然と言うように満足げに頷くと、ニヤニヤとした顔でこちらを流し見た。
 あーくそムカツク……。
「何、新入りの客人が迷惑をかけてないかと見に来ただけだ」
「うっわーヒマ人……。人をいびるヒマがあるんなら仕事してろよ」
「ん? ん? 何かな下っ端の皿洗い君」
 気色悪い顔でこっち覗き込んでくんじゃねーよこのド三一皇帝!!
 ……と言ってやりたいが、今の俺ではそんな反論をする事も出来ず、泡だらけの手をワナワナと握り締めて顔を背けるぐらいしかできなかった。
 ここでやり合っても仕方が無い。どうせ負け戦なんだ、下手打つよりも無視した方がいいだろう。
 握った拳をゆっくり解き、無視を決め込んだ俺は再び流し台に踵を返して汚れた皿を取った。
 しかしクソ皇帝は攻撃の手を緩めない。わざわざ肩越しに覗き込んできて大仰なリアクションをしながら、嫌みったらしく大声で耳に煩く言葉を突っ込んでくる。
「一丁前に俺を無視するとはいい度胸だな、賓客殿」
 賓客と呼ぶならもっとマシな扱いをしやがれ。
「ほーほー、こっちがまだの皿で、こっちが洗った皿か。ちっとも減っていないような気がするが、本当に洗っているのかな?」
 お前らがバカ食いしまくって毎度毎度皿が運ばれてくるから減らねえんだよ。
「知ってるかぁ〜? 皿洗いってのはな、船の仕事の中でもいっちばん簡単な仕事なんだ。船に乗った下っ端中の下っ端でも、今頃の時間じゃ半分くらい終わってても当然な仕事なんだぜ〜」
 ああイライラする。チンピラみてえな言葉遣いしやがって。
 こっちは一般人なりに頑張ってやってんだ、そんなに言うならお前がやれってんだ。
 段々腸がぐつぐつと煮えてくる。だが我慢だ我慢。こんなタチの悪いのの相手をしても一銭の得にもならないんだ。負け戦、するなやるなら、逃げ戦。
 けれど俺の大人ならではの度量を皇帝は勝手に勘違いし、殊更声高に自分の勝利を耳元でがなり立てやがった。
「こんなことでは何も任せられんなあ。ま、当然か! まだお前はガキもガキ、俺に口答えするしか能が無いヤツだからな!」
 はーっはっはっはと高笑いを上げて、なんか反り返って俺を見下すバカがここに一人。
 あー、うるせ。
 っていうか何なんだこいつは?仕事ねーのか?暇つぶしなのか?それとも仕事ももらえねーのか?
 っつーか、船長がこんな所でガキ一人を突っつき回すって……どうなの?
 そこまで考えて、俺は急に今の状況全てがバカらしくなってしまった。
(…………あほらし)
 付き合ってたら多分仕事が終わらない。
 皿を洗う手を動かしたまま、俺はバカの存在を脳内から削除して隣で畏まっていた船員に問いかけた。
「なあ、あんた。皿洗い以外にやることってねーの?」
「えっ? あ、えーと……船室の掃除とかかねえ」
「それって当番決まってる?」
 少し考えて、船員は首を振る。
「いや。みんなこういうの嫌いだからやんねーよ。汚くったって死にゃしねえもん。水夫長はやれってうっせーけどな」
「そうか……。なあ、じゃあ掃除用具ってどういうのだ?」
「あっ、それならここにも予備のがあるぜ」
 言いながら、船員は部屋の隅にある掃除用具入れに歩いていくと、少し埃を被った扉を開けた。
 げっ、何年掃除してないんだよっ!
 っつーかここ厨房だろうが! なんで掃除されてねーんだよ!!
「いつもは港に帰ったら専門の奴が掃除してくれるもんだから、ついつい自分で掃除すんの忘れっちまうんだよなあー。ほれ」
(……うわ、埃だらけできもい……)
 俺の世界でも見た事のある学校のロッカーみたいな用具入れには、クモの巣の張ったホウキらしきものや、なんか元はブルーっぽいけど埃のせいで白っぽくなってるちりとりっぽいもの、ブリキっぽい所々錆びたバケツが置いてある。それだけでも勘弁して欲しいのに、極めつけと言わんばかりに毛の部分が二倍ぐらい膨張してグレーになっているモップがひょっこり顔を出して、俺は一気に青ざめた。
(ああああああれ絶対埃だあああああああああああ)
 叫びたい、こんなもんが近くに有る厨房で作られた飯を今まで食ってたのかと思うと、こんなもんが近くに有る厨房で皿を洗ってたのかと思うと、怖気が止まらない。
 日本じゃ絶対こんな不衛生なもん置いとかねーよ、っつーか世界でもねーよ! もしかしたらあるかもしれんがねーよ、少なくともここまでは絶対ねーよ!!
 なんで港の掃除係はこれをスルーしてたんだよ! いや触りたくない気持ちは解るけども!!
 心の中で叫び通しの俺を後目に、そんな船に毎回乗船しているクソ皇帝と船員は今頃自分達の過ちに気付いたのか、ババアの世間話のように用具入れを囲んで唸っていた。
 遅せーよ! 過ちに気付くの何年ぶりなんだよ!!
 ゴミ屋敷の主ですら身の回りのもんくらいきちんと把握しとるわ!!
「これは……ないなあ……」
「ないっすねえ…………これじゃもう掃除する気も起きねえっすよ」
「はっはっは、じゃあ掃除は当分お預けだな。俺が水夫長に言っておこう。こんなもんで掃除できるわけが無いからな。なに、用具が足りないといえば大丈夫だろう」
「ヤリィッ! さっすがは陛下ァ、やっぱり肝っ玉がでっかいっすね!!」
 何が肝っ玉がでっかいだ。態度がでかいの間違いじゃないか。
 寧ろ言及すべきは脳味噌の小ささなんじゃないのか。ステゴザウルスですらもっと利口な考え方をするんじゃなかろうか。っていうかそもそもこの場面で肝っ玉がでっかいって間違ってるんじゃなかろうか。
 色々考えたくなったが、デカイ男二人の合間にちらちら見える埃という重装備をした掃除用具達に気が遠くなって思考が停止する。
 そんな中で考えられたのは、たった一つのことだった。
(コイツら……コイツら絶対、この先も掃除する気ねぇ……!)
 今の状態でレッドアラートの掃除用具。この先航海が何日続くのか解らないが、積み込まれた食糧から考えて絶対に一週間内では無いだろう。こいつらの大食いを考慮に入れたとしても、下手したら半月分くらいはあった。ということは、掃除しない状態で、最悪半月軟禁生活。
「甲板とか機関部とかは当番や専門がやるからいいんすけどねー」
「自分の部屋とか掃除する気にもならんよなー」
 暢気にあはあはと笑っているコイツらに俺の世界の昔の船乗りがどんなに清潔だったか教えてやりたい。大航海時代の海賊だって少なくともこいつらよりかはずっと清潔だった。
 掃除用具を異様な化物に変えたりなんて絶対しなかっただろうよ!
 あーもう嫌だ、こんな部屋で皿洗いなんかやってられっか!
「おいっ、他の掃除用具はねーのかバカ皇帝とあんた!!」
「貴様また俺をバカと……っ」
「えっ、えっ!? 怖ッ! え、えと洗剤とか本格的なのは水夫長が持ってますけども!?」
 牙をむき出さんばかりに怒りに萌える俺を見て、船員が青ざめてバカが固まる。が、どうでもいい。
 そのまま顔が怒りに引き攣ったまま船員から水夫長の居場所を聞き出して、俺はふといい案を思いついた。
 そうだ、何もバカ正直にこのバカのいう事に付き合ってやることは無いんだ。
 こいつはすぐに激昂する。そして性格の悪さは俺と良い勝負だ。口出しされれば必ず返してくるし、挑発には絶対に乗ってくる。超が付くほど負けず嫌いなのだ。
 ならば、俺にもまだまだ勝機はある。
 にやつきたくなる顔を抑えてあくまで怒っているように見せて俺はバカ皇帝にビシッと指を差し向けた。
「おいバカ帝、俺を皿洗いから外せ、今すぐに外せ。お前に知能と言う崇高なものが有るんなら今すぐ俺を皿洗いから解放しろ」
 辛抱堪らん、とでも大げさに詰め寄って、相手の胸倉を掴んで鼻先ギリギリに顔を近づける。
 珍しく動揺したのか皇帝は目を丸くして口の端をヒクリと動かしていたが、俺の言葉に反論してきた。
「変な呼び名をつけるな!! ふ……フッ、何をバカなことを。皿洗いは賓客のお前に、この! この船の船長である俺が! 言いつけたんだぞ? そんなわがままは……」
 あーオーバーアクションうざってえ。
 でも呆れを顔に出す訳にも行かず、俺はあくまで激昂している風な顔で言葉を返した。
「適材適所って知ってるかバカ帝。お前がそうやってぐうたら俺に因縁つけるのがお似合いなように、俺にも俺の能力がきちんと発揮できる場所があるんだよバカ帝、解るか? バカ帝」
「語尾に一々その蔑称を付けるなと言っている! 憎たらしい口をきく以外能力のないガキにどんな適所があると言うのだ! 勘違いもいい加減にしろ!」
「あんたにも適所があるなんて思えないけどな! こんな所にまでのこのこやって来やがって悪口言い放題の挙句の果てに埃装備の掃除用具の前で井戸端会議かよお偉いなあ!」
 捲くし立ててわざと掃除用具に目が行くように、引っ掴んだ服をぐいっと引っ張る。
「うおっ、貴様なにをっ…………」
 言いかけて、皇帝の口が開いたままでとまる。
(おっ……?)
 そして、なにやら思いついたのかにやりと笑った。
 来た来た。解り易い「これはいいことを思いついたぞ」というありがちな悪役スマイル。
 皇帝はすぐさま胸倉を拘束している俺の手を手で弾き飛ばすと、襟を大げさに整えて俺を見下しに掛かった。さて、どういう台詞でくるのやら。
 にやつきそうになる顔を必死にムッとした表情で抑えて、俺はムカツク高身長を見上げた。
「そんなに皿洗いが不満か」
 不敵に笑っているつもりのバカがお返しと言わんばかりに俺に指を指す。
 ここまでお約束な行動だと何だかちょっと面白いが、まだ解らない。思い通りに動かせると思える奴ほど、唐突に思いも寄らない行動を起こすことがある。
 一応こいつも大人で皇帝だし、気を緩めれば墓穴を掘る。
 次にどんな言葉がきても言い様に身構えた俺に、皇帝は俺のデコに当たりそうなくらい近付くと、自信満々で吐き捨てるように言い放った。
「そんなに不満なら、お前を掃除係に格上げしてやろう! そうだな……さしずめ俺達の部屋や船内を掃除して回ってもらおうか! はーっはっはっは! どうだ、悔しいだろう!!」
 あ、やっぱバカだった。
「せっ、せっ、船長!! それは流石に酷なんでは……」
「黙れ、こいつの根性を叩き直すにはとことん辛い事をやらせるしか無いのだ!」
 お前らの掃除嫌いの方が余程根性が曲がってる証拠になると思うのだがどうだろうか。
 俺としては、エンドレス皿洗いよりかは終わりが見える掃除の方が良い当番に思えるんだが。
 まあ、一応言ってくれちゃったから、もう演技はいいか。
 芝居くさくオーバーアクションで否応を議論する二人に、俺は怒りの表情を解いて質問した。
「で、まともな掃除用具は水夫長が貸してくれんだな?」
「えっ? あ、そうだけど……ってえ?」
 二度見してくる船員を横に流して、俺は今度こそにっこりと嫌味なくらいの笑顔で皇帝に笑った。
「おいバカ帝、勝負しようぜ」
「なっ!?」
「五日の内に俺が掃除出来うる場所全部を俺が綺麗にできたら、お前俺の前で裸踊りした挙句土下座しろな?」
「きっ、貴様何を言って……」
 突然の賭けに慄いた相手に、俺は畳み掛ける。
「何、嫌? あーそっか、お前俺が勝つと思ってるんだ、怖いんだなー。はいはいわかりまちたよー、ブルジョアぼくちゃんはさっさと船長室に帰りまちょーねー」
 言いながら、わざと優しい微笑みを浮かべ、近付いたことで低い位置にきていた皇帝の頭を良し良しと撫でてやる。そう、あくまでも余裕ありげに。
 ガキと見下している相手に余裕顔で手玉に取られて、その上この行為。
 とくれば後は解り易い相手のこと、大人のクセに顔を真っ赤にして俺の手から逃れて距離を取ると、何度も何度も俺に指を指して肩を怒らせた。
「きっ、貴様一度ならまだしも二度も三度も俺を侮辱して……!!」
「されといて、賭けには乗れない? あんたの自尊心ってそんなもん?」
 皇帝のクセに。と、トドメの一言。
 刹那、どこかからプチッという音が聞こえて、皇帝が一瞬白目を向いた。
 うおっ、怖ぇえ。赤面に白目って予想以上にヤバイ顔だな。
 だがすぐに元に戻ると、皇帝はもう一度俺に指を指して歯茎が剥き出しにならんばかりに怒鳴りつけた。
「貴様ぁああ!! では俺が勝った暁には貴様こそ裸踊りでど、ドゲザァして貰うぞ!!」
「よーし言ったなバカ帝、吠え面かいて泣くんじゃねえぞ」
「その言葉、そっくりそのまま貴様に返す!!」
 何か俺達の間に火花が散っているような気がしたが、俺は別に燃えて無いので間違いだろう。
 寧ろこの前の舌戦とは違って、相手が土下座の意味を知らないだろう事に気付く余裕すらある。ドゲザァってトゥギャザーと似てる。いや、こんな奴と一緒にいるのは嫌だけども。
 なんて事を考えながら幻視を手で追い払うと、俺は再度このバカににっこりと笑ったのだった。
 
 
 勿論、この前の戦いでこのバカがやったような、勝者の笑みで。
 
 
 
 
 
 
「…………こ……怖ぇえ……」
 
 あ、船員がいること忘れてた。
 
 
 
 
 
 





  
   





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後書的なもの
  
  さて、何回バカと言ったでしょう。
  本当にコメディはわりと力関係考えなくて良くてええでぇ…
  つーかこいつらラブのラの字の欠片も無いですね今の所
  すんませんもう五話くらい待ってください……
  ラブ部分すらスロースターター。




2011/01/02...       

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