最終回










  
  
  

 昼前の空は澄み渡り、早くも夏色の青に染まっている。
 その空を見上げてゆっくりと道を歩きながら、徴矢は視界の端でゆっくりと羽撃く翼を見やった。
 烏羽玉の美しい色に染まった翼は、仄温かい風が心地良いとでも言うようにゆたりと風を孕んで空を舞っている。その先にいる相手を見て、徴矢は目を細めた。
 日に当たりますます輝く、橙色に近い金色の髪。
 黒衣を纏った暑苦しい姿に、うっとりと風に目を細める、悔しいくらい整った顔。
 陽光に輝く宝石のような緑の瞳は空を見上げて、ただ気持ち良さそうに潤んでいた。
「良い風だね、徴矢。……もうすぐ、夏が来るんだねえ」
「本格的な暑さは、まだ先だけどな」
 他愛の無い会話も風に流れて、誰に聞かれるでもなく消える。
 いつもならセオに姿を隠せ喋るなと煩く注意していたが、今日はそんな気は起こらなかった。
 ここが大学内で、殆どの学生が授業に出ていて誰もいないからだろうか。
 それとも、朝の内から裏庭に来るものなどいない事を知っているからか。
(ま、どうでもいいか)
 思いながら視線を落とすと、そこにはむせ返る程の芳香を放つ様々な花が咲いていた。
 新緑の季節に咲き誇る花はどれも色鮮やかで、人工物には出せない鮮烈な香りで周囲を埋め尽くす。風が吹くたびに花は揺れて、命を終えた花の花弁が吹き上がった。
 夢のような光景だ。
 徴矢は一度深呼吸して肺の空気を入れ替えると、ふうと溜息を吐いた。
 セオはいつのまにか徴矢の顔を見ていたが、また視線を前へと向けて口を笑ませる。
「ねえ徴矢、あそこ……円形の小さな広場。あそこに行こっか」
「ん? ああ」
 一人分の足音と、ばさりと空気を打つ翼音。
 いつもより酷くゆっくりと立てられるその音を互いにしっかり胸に刻みながら、二人は花に囲まれたその広場に辿り付いた。セオは地面に降り立ち、徴矢に向き直る。
 徴矢も同じようにセオを見やって、無表情でただ相手の言葉を待った。
「…………帰らなくちゃ」
 セオの何気ないような言葉を聞いて、徴矢は苦笑に近い微笑を浮かべる。
「ああ。解ってた」
 どこへ、などと徴矢は聞かない。
 全ては出会った時から解っていたことだった。
「ラルヴァを倒した今、僕は人間の世界にいる必要が無い。君といる理由も、無くなった。……だから、僕は僕の世界に帰らなきゃいけないんだ」
 セオとて徴矢が理解していると解っているはずなのに、もう一度はっきりと言う。
 そんな事を一々詳しく言うな、と徴矢の心は喚いたが、しかし怒る気にはならず徴矢はただ頷いた。
「間違って呼ばれた僕には、もう選択権は無い。数分もしない内に、強制送還されるだろう」
 空を仰いで、セオはまた徴矢を見た。
 エメラルドのような瞳は揺らぐことは無く、しっかりと目の内に徴矢を映している。
 徴矢もまた、セオをしっかりと鳶色の瞳に映しこんで、セオの言葉を黙って聴いていた。
「……ねえ徴矢、僕が昨日言ったこと、覚えてる?」
「どれだよ」
 曖昧に言われてもどの言葉を思い出せばいいのか解らない。
 少々眉を顰めた徴矢に苦笑して、セオは緩く頭を傾げた。
「一世一代の告白、聞いてねって、言ったじゃない」
「ああ……。いや、でもアレはあの時にお前が言ってたことじゃ……」
 言いながら昨日のことを思い出して、顔が勝手に赤くなる。
 自分でもさぞかし気持ち悪いだろうと思うが、しかしセオに抱かれた事を思い出すと恥しくてどうにもならなくて、頭に熱が昇るのを止められなかった。
 相手も自分が何を思い出しているのか察したようで、苦笑すると徴矢の頬に手を添えた。
「あれも告白だし、本当のことだけど……あれじゃないよ」
「え、じゃあ……」
「うん。今から言う。……だから、聞いてくれるかな」
 手はいつの間にか頬を固定して逃がすまいとしている。
 こんな時まで自分勝手かとは思ったが、相手の真剣な表情に負けて徴矢はうなづいた。
 いや、最初から抗う気などなかったのだ。
 セオが影から自分を守ってくれた時の約束を違える気など無い。
 何より、徴矢にはもうセオのする事を嫌う理由が無かった。
 口だけを笑ませて挑戦的な顔をする徴矢に、セオは顔を緩めると小さく口を開く。
「……僕は悪魔で、人を騙しもするし、殺しもする。多分、徴矢の思う倫理と僕達の考える倫理はずれてるんだろうと思う。だから、僕は徴矢を怒らせてしまうだろうし、きっと泣かせてしまうと思う。術で縛って、時には今までのことよりもっと酷い事をしてしまうかもしれない」
 走馬灯のように徴矢の脳裏に浮かんでくる思い出は、確かにセオの言う通りだった。
 徴矢はセオに怒り、泣き、落胆し苦悩した。術に縛られて体の自由を奪われたし、悪魔の意味の解らない思考のせいで何度も何度も苦労した。
「きっと僕は、徴矢に悪いことばかりしてしまうだろう。……でもね、これだけは本当だ。
 僕は、君を……愛宕徴矢を、愛している。
 弱点を教えてしまうほど、悪魔のすることじゃないことばっかりしてしまうほど、君の幸せだけを願ってしまうほど……僕は、君を愛しているんだ」
 いつもなら安っぽく聞こえる「愛している」という言葉が、今のセオに言われるだけで真実の言葉のようで、嘘だとしても信じてしまいたくなる。
 心に染み入って、胸を震わせて、涙腺を緩ませて。
 ただ「愛している」と言われるだけで、真偽も解らないその言葉に魅入られている自分がいる。
 テキストや漫画で何千回も見たはずの言葉が、これほど胸を打つなんて。
 声優の声に乗せられていたという認識だけの言葉が、これほど強い感動を生むなんて。
 こんなに泣きたくなるほど嬉しくなるなんて、その一言だけで泣けるなんて、知らなかった。
 こんな簡単な言葉で泣いてしまうなんて、思わなかった。
 目尻にじわりと滲む涙を見つめながら、セオは寂しげな苦笑を深く顔に刻んだ。
「徴矢が望むなら、僕は手足を切り落とされてもいい。顔を焼かれても、徴矢が愛してくれるならそれでいい。誰かに使役されても君と一緒に生きて行けるのなら、僕は進んでそれを選びたい。
 徴矢が僕の傍にいてくれるなら……僕は、この世界中のものに憎まれたっていいんだ。
 例えそれが仲間の悪魔でも、神でさえも……徴矢と一緒にいられるなら、殺してみせる」
「セオ……」
 自分を強く射抜く瞳が、嘘では無いと訴える。
 恋とはこれほど生物を盲目にさせるのかと驚きが湧いたが、同時に自嘲と熱い思いが湧く。
 それは自分とて同じ事。
 今流している涙や、総毛立っている肌。戦慄く唇は、全て言い表せない感動の賜物だ。
 これを恋と呼ぶのなら、間違いなく徴矢もその盲目の病に犯されていた。
 じゃないと、きっと、こんなに心揺れていることの説明ができないだろう。
「徴矢……だからね……僕は、一世一代の告白をしようと思う」
「え……」
 今のがその“一世一代の告白”ではなかったのだろうか。
 思わず目を丸くした徴矢に、セオは少し紅潮した頬を吊り上げて微笑んだ。
  
「徴矢……お願いします。
  
 僕の、“マスター”になってください。」
  
 マスター。そう聞いて一瞬何のことかと頭が混乱したが、状況をすぐに理解して徴矢はポカンと開いた口から鸚鵡返しで言葉を吐いた。
「マスターって……」
「うん。……僕を使役するってこと」
 少し不安げに眉根を寄せる悪魔に、徴矢は無意識に首を傾げた。
「それって……」
 今一良く解らなくて不安げな顔を向けると、セオは説明してくれた。
「つまりね、今までは僕は『規定』により徴矢とパートナーとして一時的な主従契約を結んでいたんだ。だから、規定を満たした今、僕は魔界へ強制送還される。正式な契約じゃないからね。使役者との誓いを満たしたわけでもなんでもないし、命令されて戻るわけでもない。今までの僕達は言ってみればイレギュラーな関係だったわけなんだ」
「お、おう」
 かいつまんで要点だけ浚うと、違法契約だから終われば連れ戻されてしまうということか。
 必死にセオの言葉を理解しようとしている徴矢に、セオはだからと付け足して言葉を続けた。
「だからね、今度は徴矢に、今ここで正式な契約……それも、【永久契結】をして貰いたいんだ」
「永久…ケイ、ケツ?」
 聞いた事のない言葉だと噛み砕きながら言えば、セオはゆっくりと頷く。
「永久契結は言わば永久の契り。悪魔は一生その人間に尽くすことになり、人間は一生その悪魔を使役し養って行くことになる。勿論、不幸は降りかかる。その上、徴矢はこの先一生僕を快楽で養っていかなきゃいけない。僕も完全に徴矢だけの快楽しか受け付けなくなる。
 ……僕達は一生、離れられない。
 永久契結はそういう、恐ろしくて深い契約なんだ」
「……一生…………」
 途方も無い長さの未来を想像させられて、徴矢の頭は思考停止する。
 二倍の不幸を背負いながら、悪魔を養い一生取り憑かれて暮らす。言葉にすれば簡単だが、今まで悪魔と共に暮らしてきた徴矢にはそれがどれほど大変な生活か解っていた。
 もし自分が離れたいと願っても、他の人間の快楽では決して満たされないセオを突き放す事も出来ず、またそれで自分が幸せになるわけでもない。言ってみれば試練だらけの契約だった。
 だが目の前の悪魔は、それを、自分に望んでいる。
 セオ自身も今まで異常に危うくなる契約を、徴矢に迫っているのだ。
 もし自分が拒んでしまえばセオは死んでしまうのに。
 嫌な想像をしてしまい目を見開いたまま不安げな顔で見上げると、セオは悲しそうに微笑んだ。
「僕は、徴矢のためなら死んでもいい。でも……もし、徴矢が……僕を一生愛することに不安があるなら、僕は諦めて帰るよ。二度と会わない。いや、多分、死んでると思う」
「そんなバカなっ……」
 事を言うな、という前にセオは言葉をさえぎる。
「死ぬよ。だって、今だってこんなに心臓が痛いんだ。徴矢とはなれちゃったら、きっと僕は痛みから逃れる為に自分で自分を殺すよ。そうしないと、僕は狂うだろうから」
 セオは至極本気だとでも言いたげに、表情を変えずに己の胸に手を当てた。
「……お前……」
 言葉が出ず、口が空気を食む。
 相手の言葉に余計に混乱してきた頭を必死に整理しようとするが、思考は堂々巡りを繰り返すだけで答えを出そうとはしなかった。受け入れれば、互いが辛い道になる。だが、断ればセオは確実に自分自身を殺して全てをなかったことにする。苦難か死か。
 今まで迫られたことの無かった選択に、徴矢の心は大いに動揺していた。
 だが。
「…………ほら、徴矢……感じてみて」
 不意に手を引かれて、徴矢の右手がセオの胸に当てられる。
 驚いて、刹那伝わってきた鼓動に徴矢は目を丸くした。
「あっ……」
 人間と悪魔の体の構造は、そう変わらない。
 理解はしていても、まだ心のどこかに相手は異質なものだという固定観念が残っていて、徴矢はセオの言った言葉を完全に理解していなかった。
 しかし、この鼓動は。
 こちらの掌すら震える、この力強く、そして緊張に波打つ鼓動は……。
「初恋って、こんなに痛いんだね。……今まで感じたことの無い痛みなんだ。今までのどんな痛みよりも弱いはずなのに、今が一番痛いよ。徴矢が触れてくれたら少しは治まるかなって思ったのに、余計に痛くなっちゃった。不思議だよ、本当」
 悲しげな笑みを少しばかり自嘲に変えて、セオは己の不可解さに戸惑うように体を揺らす。
 徴矢は己の手首を握るセオの手が、じわりと汗をかいているのに気づいた。
 触れる胸も、掌も、自分より熱くて血がどうどうと巡って脈打って、焦るかのように身の内を鳴らしている。まるで、緊張して今にも倒れそうな人間のように。
 そこまで考えて、徴矢はハッとした。
(セオ……お前、もしかして……緊張してたのか?)
 顔には全く出ていないくせに、心臓は破れそうなほど動いて、掌にダラダラと汗をかいて。
 もし一生会う事がなくなったらどうしようと悲しげな笑みさえ解り易く浮かべて。
 悪魔のクセに、そこまで解り易く。
(…………悪魔だって……同じ、なんだな……)
 緊張に心臓が引き攣って、掌に情けなく汗なんてかいて、相手の一挙一動に戸惑っている。
 告白は失敗したのでは無いかと不安になって、泣きそうな顔で必死に笑って、取り繕おうとして出来ずにただ訳の解らない事を言うしかなくて。
 人間と何ら変わらない。
 例え翼が生えていても、角が生えていても、食べる物が違っても、住む世界が違っていたとしても。
 
 
 悪魔も、セオも――――――――人間と、徴矢と、同じなのだ。
 
 
「……そうか」
「?」
 そう考えると、この先の不安な何もかもが、消えていく気がした。
 悩んでいたって何も始まらない。今日までの事件で何度も突きつけられて来た事だ。悩んでいるよりも、自分の心の正直に突っ走った方が何倍も良い。
 相手と自分が同じ気持ちなら、その心を正直に伝えてやればいい。
 互いが信じているのなら、どんなに離れていたって声は届くし、願いも届く。
 永遠の時なんて解らないが、だが、それほど強く想い合っているのなら、何もかもが上手く行くような気がしていた。
 恋に浮かされた妄想だと、人は笑うかもしれない。
 だが互いを信じ、同じ事を今望んでいるのなら、少なくともこの先は現実になるだろう。
 なにせ、セオも徴矢も嫌なところも良い所も、不本意ながら見せ合ってきた。
 きっと、いや、多分、少なくともこれから一年くらいは大丈夫だろう。
 己でも笑ってしまうくらい不安と盲目さが混じった考えに無意識に顔が苦笑に歪んだが、隠す気も起きず徴矢はしっかりとセオの顔を見上げた。
 相手の顔はまだ、不安を浮かべている。
 その表情を取り去ってやりたくて、徴矢は拘束されていない左手でセオの頬を包んだ。
 もう、迷いなど無かった。
「セオ」
「徴矢……」
 声まで情けない相手に、笑う。
 そのまま柔らかく心地良い頬に指を滑らせて、徴矢は告げた。
「俺は、二次元の美少女が好きだ。それは一生変わらないだろうし、お前を置き去りにしてゲームやらアニメやらに傾倒して、しょっちゅうお前を蔑ろにするだろう。もしかしたら明日すぐに『お前となんか契約するんじゃなかった』なんて言うかもしれない」
「う……」
 泣きそうになる相手が可笑しくて、徴矢は笑みを深くした。
「でも、絶対……
 俺は、お前から離れたりしない」
「すみ……」
「義務や優しさからなんかじゃない。俺は、お前と同じ気持ちだから。その……まあ、所謂、愛してる……とか、まあそういう気持ちだろうから。……だから、例えそういう事になったとしても、俺はお前から離れたりしない。未来どう思うかなんて難しい事を考えるのはやめた。もう、何でも良い。俺は決めたんだ。信じた俺を助けに来てくれたお前を見たときから、決めてた」
 セオの目と口が驚きに丸く開いていく。
 まるで子供のような表情になった相手の頬は、期待に紅潮し始めていた。
 相手の興奮の度合いに一瞬言うのを止めてやろうかという悪戯心が疼いたが、だが自分の口ももう止められず、徴矢はセオと同じように興奮しながら、怒鳴るように気持ちを吐き出した。
 自分だって顔を真っ赤にしているのに気づかずに。
「だから……!」
「……!!」
 
 

「俺は、お前と永遠に一緒にいる!!」
 
 
 言葉の重みなど知るか。
 いたいと思ったから言ったのだ。
 それ以上の言葉なんて思い浮かばずセオを睨みつけた徴矢に、セオはあんぐりと開けた口を震わせて、嬉しそうな笑みを作った。今にも自分の名前を呼びそうだ。
 だがそれにどう思おうかという暇も無く、徴矢は止められない口で言葉を続けた。
「二倍の不幸とか、養うとか、もうそんなの後で悩めば良い! 俺はっ……俺は、お前と一緒にいたい…………例えこれから先どうにかなっちまったとしても……俺は……っ
 セオと、ずっと暮らして生きたい……!」
「徴、矢……っ、ああ、嘘じゃ…………ないんだ……嘘じゃないんだよね……?!」
 己に触れる両手を掴んで、セオは徴矢に何度も問いかける。
 信じられない、と外人のノリで頭を振る相手に、徴矢はただ口を一文字に閉めて睨みつける視線を向けることしか出来なかった。はっきり言いたかったはずの気持ちが、上手く伝えられない。
 今言った以上の気持ちを素直に言ってやろうと思ったのに、数百の漫画を読んできた語彙の豊富な自分の頭脳は完全にオーバーヒートしていて、検索は愚か文章を組み立てることすら困難な状態になっていた。もっと、もっとセオに伝わるように、どこかのゲームの主人公のように、格好いい言葉で受け入れてやりたかったのに。男らしく、言ってやりたかったのに。
 子供のような告白しか、出来ない。
「俺はっ……俺は、セオ……」
「うん、うん……! 解ってる、解ってるよ、徴矢、嬉しい……嬉しいよ……!」
 相手も気持ちに言葉が追いついていないのか、潤んで弧に歪んだ目で何度も頷く。
 感極まった相手に抱き締められて、ようやく徴矢は気付いた。
 セオも嬉しすぎて、いつものような寒気のする口説き文句を言う余裕が無いのだと。
(同じ、なんだ…………)
 何百年生きていても初恋は初恋で、愛する気持ちも人間と変わらなくて。
 不安に思う気持ちも、相手を信じたいと思う気持ちも、独占したいと思う気持ちも。
 違う種族でも、人を思う気持ちは変わらないのだ。
(……こういうのって……本当だったんだな……)
 漫画のような恋だ。ゲームのような超展開で、アニメのラブシーンのように恥しい恋だ。
 だが、これは紛れも無く自分の三次元。
 今成就した、可哀相なくらい頭のおかしい悪魔とのおかしすぎる恋なのだ。
「『幸せすぎて死んでしまいそう』って……こういう時に使う言葉なんだね……」
 涙声が耳元で聞こえて、徴矢は頷く。
 自分を抱き締める体は震えていて、感動を抑え切れていないようだった。
 まあ、そういう徴矢も、少し泣きそうになっていたが、ともかく。
 余計な事は考えないでおこうと決めて、セオの肩に顔を埋めて徴矢もその幸せとやらの余韻に浸った。
 正直な所、よくわからない。
 心臓が破裂しそうだった気持ちが緩んで、リラックスしている。
 まるで眠ってしまいそうな安堵が体を包んでいるが、これが幸せというものなのか。
 徴矢にはそれがちっとも幸せという認識が湧かず、案外ちゃちなものなのだなと思ったが、いやと思いなおして抱き締められる熱と感触を感じて目を細めた。
 曖昧な定義の上に成り立っているのが幸せなら、今、抱き締められていることの方を自分は幸せと呼びたい。これが幸せだと言うのなら、徴矢も同じように死んでしまいたいと思える気がした。
 抱き締められる事が、こんなに、泣きそうなほど嬉しくなるなんて、思わなかった。
 
 
 
 暫しの時がそのまますぎて、徴矢とセオはようやく感動を治めて再び互いに向かい合った。
「じゃあ……やるよ?」
「ああ」
「…………後悔しても遅いからね?」
「お前も相当臆病だな。そんなに言うならやめるぞ」
 先程の感動的な抱擁は何だと思っていたのかと半眼で相手を見やると、セオはソレは困ると慌てて手を振って謝ってきた。不安になるのは解るが、そう何度も訊かれると決心が鈍るので止めて欲しい。
 徴矢の覚悟をようやく思い知ったのか、セオはそれ以上は何も訊かずに強く頷いた。
 風が吹いて、また色とりどりの花弁が宙を舞い視界を閉ざす。
「僕はこれから、本当の名前を明かす。それと契約の言葉を徴矢に言って欲しいんだ」
「それが永久契結になるってのか」
「うん。僕が先に言うから、復唱するだけで良い。最中ちょっと魔法陣とか出ちゃうかもしれないけど、驚かないでしっかりと続いて欲しい」
「おいえらく粗雑な説明だな」
 それにしても出ちゃうってなんだ。出ちゃうって。
 魔法陣が真夏の羽虫のような扱いになっているのに少し納得が行かなかったが、ここで突っ込んでも話が進まないだろうと思い徴矢は言わないでおくことにした。
「じゃあ、始めるよ」
「……おう」
 少し間隔を持って互いに向き合う。
 セオは徴矢を見て準備の有無を問い、徴矢は無言で頷いた。
 言い知れぬ緊張が周囲を覆ったが、それに構わず二人は互いを見つめる。
 相手の手がそれを合図に二人の中心に伸ばされ、セオはゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「我ら共に滅びを選ぶもの、契約の言葉に従い、魂を共有する二つの種族也」
 復唱する言葉はいかにも、と言った様子の言葉。
 セオの台詞の歩調に合わせて徴矢が同じ言葉を言った瞬間、足元に円形の広場一杯に広がる複雑な魔法陣が展開された。思わず飛び退きそうになるが、足が動かない。
 出てきちゃうのレベルでは済まされない、とても複雑な魔法陣が己とセオを照らす様を見ながら、徴矢はセオに縋るような目を向けた。
 だが相手は大丈夫だと微笑んで、ただ言葉を続けるようにと頷く。
「我ら、誓いの言葉を満たす番いなりて、再び契約を固く永久に施さん。誓いの言葉は【汝は巨大にして永遠なり、主よ。汝は終りにして始まりなり、主よ。汝は未来にして過去なり、主よ。我は今門の戸を叩きて願う、素晴しき欲を、素晴しき力を、素晴しきともを。さすらば我汝の永遠のともとなろう。もし私を奪うことが出来るなら】……我主となりて、私(し)を奪うことを成就し、願う欲を成就せり。我私の肉を奪い、魂を奪い、その奪いしものを共有したり」
 魔子ちゃんの悪魔召喚の台詞だ。
 目を丸くしたが、再び言葉を聞いて徴矢はその意味を理解した。
 もし私を奪うことが出来るなら……もし、自分の心を奪うことが出来たなら、永遠の誓い……つまり永久契結を叶えることを許そうと宣言していたのだ。
 主はセオのこと。主を湛えるような言葉は、きっとセオの本質を表しているのだろう。何故そのような口上が要るのかは徴矢には解らなかったが、悪魔とのこの契約がある事を考えると、どうしてその宣言が必要なのかは解る気がした。
「さすらば我ら、真名を神に、魔王に示し、永遠の誓いを捧げ告げよう。共に命尽き果てるまで、心離れるまで、肉が剥がれ落ちるまで、共に生きる誓いを……」
 徴矢が復唱した言葉に、魔法陣が一気に光を放ち周囲を青く美しい光に染める。
 真下から吹き上げる説明のしようの無い風が二人を包み、次の言葉を待っていた。
「……さあ、徴矢。君の名と僕の本当の名を言おう。」
「お、おう……」
 セオの手がくるりと返り、こちらの手をねだる。
 その手にゆっくりと手を重ねてやり、指を絡ませてしっかりと握り合った。
「使う主は、愛宕徴矢。悪魔の糧となり、苦難を知って尚魔道の力を欲すもの。そして、従うもの。今ここに悪魔の真名を示す」
 光の渦の中で、セオは徴矢を見つめる。
 真剣な眼差しの翠の瞳を見つめ返して、徴矢は頷いた。
「悪魔の名は“セオ”。
 “誇り高き序列57番目の大総裁の息子・春の支配者にして幻惑の使徒・神をも恐れぬ神秘と秘密を瞳に刻み人間を道に迷わせる者・堕落の園の王にして幻星の一族を率いる豹の王・三つの真実の瞳を持つ者也”
 ――――一言一句の違いも無く、真名をここに示す」
 まるで説明のような言葉の羅列。
 これが悪魔の本当の名前だと言うのか。
 しかしセオの言っていた事は本当のことだった。確かに長く、難しい。人間の、もっと言うと日本人の徴矢からしてみれば本当に不思議な名前だった。
 だが、これがセオの真実の名前なのだ。
 今まで訊く気すら起きなかったはずの名前を復唱して、何故か、知ることが出来てとても嬉しいという気持ちが生まれる。きっと覚えられないだろうに。きっと忘れてしまうだろうに、ただ今は徴矢の心は舞い躍っていた。
(ああ、俺……本当に戻れない所まできちまったんだなあ……)
 どうかしてる。
 この状況も、この気持ちも、この台詞も。
 三次元なんて、ホモなんて、ごめんだと思っていたのに。リアルの恋愛なんてクソ以下だと、強がって一生してやるもんかと思っていたのに。
 なのに今、自分は、三次元の男に恋をして、名前を聞いただけで心を躍らせて。
 本当に、どうかしている。
 けれどもう、悔やむ気持ちは何処にも残っていなかった。
「これを主従の証とし、誓いの事実を持って我ら永遠の番と宣言する!」
 二人の声が同時に合わさり、吹き上げる風が一層周囲の花を巻き上げる。
 地面に展開した魔法陣は合図を受け取ったとでも言うように光の強さを増し、ぐるぐると回りだした。まるで地面に透写されたような実態の無い光の法陣は、内部の文字や図形を動かしながら回転の速度を上げていく。
 刹那、唐突に魔法陣は一気にはじけ散った。
「っ……!?」
 周囲に吹き飛んだ光が宙を舞い、二人に降り注ぐ。まるでダイアモンドダストのようにちらちらと光りながら落ちてきた欠片に目を奪われていると、急に痛みが襲ってきて徴矢は痛む箇所を見やった。
 互いに繋いだ手の甲に、じわりと光がしみこんでいく。
 じゅうと焼き鏝を押されたような恐ろしい音が耳に届いたが、しかし耐えられないほどの痛みが起こることは無く、セオと徴矢の手の甲にはゆっくりと痣が浮かび始めた。
 まるで紋章のように刻まれたその模様は、出来上がると同時に肌に染みこむ様に消え去る。同時に空を舞っていた光の欠片も急に全て溶けて消えてしまった。
「終わった……のか……?」
 意外にあっけない、ともう一度手の甲を見ようとして、徴矢はセオの手に引っ張られてまた抱き締められた。
「これで……僕達は一生離れられないよ、徴矢」
「解ってるって……」
 まだ実感が湧かないが、きっと今の模様を刻まれる事を持って自分達は契約をしたことになったのだろう。結婚式よりも婚姻届の提出よりもあっけなく現実味の無い契りだ。
 これで本当にずっと一緒にいられるようになったのだろうか。
 急に不安になってきて抱きついたセオの首筋を見やると、相手は気付いたのか体を離して徴矢に向き合った。
「大丈夫。もう僕は消えたりしないから。あの紋章は悪魔と悪魔が見えるものだけに感知することの出来る紋章だから、見えなくていいんだ。ほら、徴矢にも見えるはずだよ」
 言いながら手の甲を差し出してくるセオ。その手の甲には何も無いが、冗談を言っているつもりなのか。睨む徴矢に、セオは微笑んだままで言葉を続ける。
「見ようと思って、見てみて。集中して、紋章が見えるように」
「うーむ……」
 言われた通りに眉をいっぱいに顰めながら相手の手の甲を見やる。
 すると、あぶり出しのようにじんわりと確かに紋章が浮き上がってきた。
 何だこれは、科学の実験か。
「これは、僕と徴矢だけの契約の紋章。誰にも真似のできない二人だけの絆だよ」
「セオ…………」
(冷静になったから思うが、やっぱりキモイ)
 台詞回しが一昔前のドラマのように恥ずかしい。
 けれど慣れて来てしまったのか、徴矢はそれ以上貶す言葉が思い浮かばなくなっていた。
 再び抱き締められて、相手の熱を感じる。まるでその熱に言葉を封じられてしまったようで、普通の台詞すら考え付かなくなってしまう。しかしそれに焦る心も起きず、徴矢はただセオの腕の中で酩酊の心地を甘受した。
 ただ、今はこの表現できない暖かな気持ちを感じていたい。
 セオの腕の中で初めての恋を味わっていたかった。
「徴矢……これからは、僕が徴矢を守るから。徴矢がどんな事にだってぶつかっていけるように、僕がずっと一緒にいて、徴矢を守っていくから……だから、安心して」
「……ああ」
 そう言われるだけで、何故かこれからの不安が消え去っていく。
 たかだか数週間の付き合いなのに、とても不思議だった。だが、それを嘲笑する気は無い。
 今まで助けられてきて、セオの想いの強さは充分に理解しているつもりだった。
(そうか……俺、だから、こんなに安心できてんだな…………)
 嫌な部分も、良い部分も知られてしまったからこそ、こうも自分を曝け出せるのだろう。
 きっと、こんな気持ちになれる相手は、セオ以外に見つからない。
(……癪だけどな)
 しかし、怒る気は起きなかった。
 これからはセオと笑って暮らしていけるだろう。
 明るい未来妄想図を思い浮かべて柄にも無く幸せに浸っていると、セオがぼそりと耳元で呟いた。
「ところで徴矢……契約した後だから言うんだけどね」
「うん?」
 楽しそうな声にどこか含みを感じるのは気のせいだろうか。
 片眉を上げて相手の頭を見やるが、セオは徴矢の肩口に顔を埋めたまま続けた。
「実はさ、もう、本当の契約はもっと前に済んでたんだよね」
「…………………………はい?」
 思わず語尾を上げ問い返すが、相手は顔を見せようとしない。それ所か逃がすまいとでも言うように抱きしめる力を強めて、徴矢の体をがっちりと拘束した。
 何だか嫌な予感がする。
 口端を引きつらせた徴矢にようやく顔を合わせたセオは、嫌味なくらいのイケメンアメリカンスマイルで笑っていた。
 ああ、これは、絶対にとんでもない事を言われる。
 数々の思い出が脳内プレイバックして汗をダラダラと垂らす徴矢に、セオはいつものお気楽な調子で可愛く首を傾げた。
「徴矢が僕とセックスした時点で、実はもう契約したことになってたんだ! えへへ、今まで黙っててごめんね!」
 ああ、また語尾にハートマークがついてそうな口調で。
 と一瞬現実逃避しそうになったが、徴矢はセオの爆弾発言にぎょっとして目を見開いた。
「は……はぁ!?」
 思わず空気中に!?と文字を浮かべてヤンキーのような顔になってしまうが、セオはそんなメンチ切りも何処吹く風で幸せそうにぽわぽわと不気味な空気を漂わせながら笑った。
「だからね、あの契約の言葉は『私の体を完全に奪えたら、永遠の伴侶に成ろう』って意味で〜……だから本当はあそこでもう、僕が強制送還されちゃうことはなくなってたんだよね! 今やったのは結婚式みたいな物で、羞恥、いや周知してもらうためっていうか……まあそういう儀式的な物ってだけなんだ。ほら、紋章も結婚指輪みたいでしょ?!」
 勝手に召喚の呪文を解釈していた自分が悪い。
 悪いのだが、騙されたと思う感情が湧いてくるのは何故だろうか。
 引き攣った頬が驚きに痙攣する感覚を感じながら、徴矢は何だか泣きなくなっていた。
「お、まえ……それって…………」
 口からやっとのことでこぼれ落ちた言葉に、セオはきょとんと顔を変えたが、やがて……
 また、邪気が無さ過ぎて逆に邪気を感じる笑みで、白い歯を見せた。
 
「これからも、ずーっと、ずーっと、一緒にいて……
 僕に美味しい快楽を食べさせてねっ」
 
 また語尾に撒き散らされる薄気味悪いハートマーク。
 胡散臭いまでの白い歯が光るアメリカンスマイル。
 も一つオマケに嘘か真かわざとらしい赤い頬。
 一番最初に出会ったときのセオを再び脳裏に思い出しながら、徴矢は固い笑みに身を震わせた。
「あ、あはは……」
 もしかしたらこれは、策略だったのかもしれない。
 そう、セオが徴矢に初恋だと叫んだ時から、いやもっと前から、セオはこうして虎視眈々と自分を確実な栄養源……いや、そこまで落としたくは無い。恋人。そう、恋人にしようと画策していたのかもしれない。だから子供のように振舞って、悪魔らしくない事をして、徴矢を励まして。
 欲しい物を打算も無しに得ようなんて、絶対に悪魔の思考には無いだろう。
 作為的にせよ無意識にせよ、絶対にそんな意図がなかったなんて事は無い。
 特にセオには、徴矢がそう思うような節が幾度も見受けられた。
 まさか、本当にここまでがセオの計画だったのか。
 「計画通り」とにやりと笑う漫画調のセオが思い浮かんで、徴矢は青ざめて肩を揺らした。
「ははははは……」
 もう笑うしか無い。
 それをどうおめでたい思考で受け取ったのか、セオは満面に笑みを湛えて首を傾げた。
「愛してるよっ、徴矢!」
 言いながら再び徴矢に抱きつくセオは、相変わらず悪魔らしくない、どちらかというと脳味噌がお子様ままの嬉しそうな声で喜ぶ。抱く手は変わらず徴矢を強く抱きしめるし、犬のように擦り寄って徴矢の頬を髪で擽っていた。まるで邪気が無い。
 本当に、悪魔らしくない。
(…………ま、いっか……)
 半ば諦めた声でそう思いながら、徴矢は肩を落として情けなく笑った。
 
 
 
 結局、嘘でも何でも、そんなセオを自分は好きになったのだ。
 そしてセオはそうまでして、自分を射止めようとしていた。
 
 
 策略でこうなったにしても、事の流れでこうなったにしても、結局自分はセオの事を思っていて、セオも自分の事を気持ち悪いくらいに思っているのだ。
 どうせ嵌められたなら、乗って相手をこき使う方がマシである。
 何せ自分はご主人様。後から幾らでも修正は効くだろう。
 漫画のような職業になり、漫画のような相手と漫画のような関係を持ち、漫画より下らないリアルの恋をした。どうせ堕ちるなら、楽しんだ方がマシだ。
 魔子ちゃんもゲームで触手に犯されながら言っていた。
 苦難すらも楽しめば最強! と。 
 少なくとも、この腹黒な悪魔となら……楽しめそうな気がした。
「おい、セオ」
「なんだい?」
 犬のように嬉しそうな相手を引き剥がし、顔を向かい合わせながら徴矢は睨む。
「守るなんていった以上は、俺にチート以上の楽しい思いさせろよ」
「解ってる。どんな不幸が来たって、僕が絶対に徴矢を守って見せるよ」
 またそんな寒い台詞を言う。
「期待しないで期待しとくよ」
 感情の篭ってない声で言うが、セオは相変わらずにこにこと笑ったままで頷いた。
 なんだか盛り上がってきた気分が一気に盛り下がってしまった。
 こんな台詞を毎日言われて、自分は耐えられるのだろうか。勢いで一緒になってしまったが、もしかしたらもう明日には本当に嫌になっているかもしれない。
 嫌な予感を感じ始めた徴矢に、悪魔は空気の読めていない浮かれた言葉を吐き出した。
 勿論、それが起爆剤になったのは言うまでも無く。
「うんっ! だからね、徴矢。守るためにもこれからはいっぱいセックスを……」
「死ね!! やっぱり死ねええええええええ!!!!」
 
 
 
 幸せを表したような快晴の下、「やっぱり三次元はクソだ」と叫ぶ声が清々しい空に谺したのだった。
 
 
 
 


 




    

   






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後書的なもの
 なんだかかんだかオチているんだかいないんだか
 そんな感じでアビス完結です!
 しまりの無い上に中二病でこっ恥ずかしい最終回でしたが
 兎に角書き終えることが出来てほっとしてます(*´∀`*)
 本当は もうちょっとだけ続くんじゃ なんですけど
 徴矢とセオのBL(微妙なラブ)はここで一旦終わりです。
 全編好き勝手ふざけまくった話でしたが
 読んで下さった方に少しでも楽しんで貰えたら幸せです!
 ここまで付き合ってくださって、本当にありがとう御座いました!
 ではでは、またの機会に(´∀`*)ノシ

 九十九島在住

 





2010/05/14...       

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