二十回目
何の感覚もなく、ただ耳の奥を血液が流れるような音が通り過ぎる。
音の去った後に、目蓋で隔たれた世界が真っ暗になるのを感じた。確実に世界が変わったのだと確信して目を開ければ、目の前にはセオが立っている。周囲は思ったとおり黒一色で、しかし黒衣を身に纏っているにも関わらずセオの輪郭はしっかりと世界と決別していた。
どういうことだと眉を顰めると、セオは微笑んで手を空へと向ける。
「ここがクロカミ君の記憶の入り口だよ。僕らは彼の『記憶』じゃないから、区別されているのさ。まあそれも時限性だけどね……あまりゆっくりしてると僕らの意識は彼の記憶に同調して取り込まれてしまう。早めに行こう」
「わ、解った」
やはりこういう事は何度も経験しているのか、セオは冷静だ。
迷いもなく歩き出すセオに慌てて付いていくと、案外すぐに出口の光が見えた。
「ここからは、彼の記憶……というか、今奔出している負の感情の部分……と言った方がいいかな。酷い記憶だと思うから、気をつけて。僕は傍観者として記憶の外で見守ってるよ。……ここからは徴矢の力次第だ…………くれぐれも、無理はしないで。僕はいつでも傍にいるから」
不意にこちらを向いて、真剣な顔で言うセオ。
その瞳は未だに猫の目のように不気味な瞳に変わっていて、正直な所シリアスでも何でもなかったが、しかし相手が自分を心配してくれる気持ちには変わりが無い。
ただ少し締まりが無いがな、と心の中で苦笑して、徴矢はうなづいた。
「今度は大丈夫だ。鬱ったりしない。…………俺にだって黒髪が救えるようになったんだ。意地でも、あいつを助けてみせるさ」
「……うん」
ふわりと嬉しそうに笑うその笑顔に、心が休まる。
笑みを返して、徴矢は先に一歩を踏み出した。
「――――――っ……!」
強烈な光が目を焼こうと降り注ぎ、思わず目を瞑って腕で顔を覆い隠す。しかし歩みは止めず歩いていくと、光は次第に弱まり周囲から微かな音が聞こえ始めた。
何事かとゆっくり目を開いて周りを見て、徴矢は驚く。
今まで白か黒一色だった景色が、夕暮れの寂れた公園に変わっていたのだ。
ぎいぎいと音を立てて揺れるブランコに、少し錆びが目立つ滑り台。コンクリートに粗雑に色を塗られた円形の登り山に、子供が造って崩した山がある砂場。
遠くからは雑音の混じる「ゆうやけこやけ」が響いてきて、少し前の時代なのだと徴矢は感じた。
しかし肝心の黒髪はどこにいるのだろうか、と見渡して、徴矢は小さな影の集まりを見つける。
近寄っていくと、次第に影……子供達の話が聞こえてきた。
「みっちゃんのおかあさんはねー、あそこにいるよ! おむかえなのー」
「おれだって、ほらー! かっけーだろ、車できてくれるんだぜ! 今からしょくじにいくんだ」
「ぼくもおかーさんとかいものにいくんだあ」
「けんちゃんは? あたしのおかーさんもそこにいるよ」
影がゆらゆらと揺れて、楽しそうに自分より大きな影を指さす。そこには確かに車の影も、大人らしき影もあって、揺れてこちらへ来いと言っているようだった。
だがその影達の中で唯一人の姿をしている小さな少年は、自分の服の裾をグッと掴んで俯いていた。子供達は無邪気に問いかけるが、少年は答えない。やがて一人減り二人減り、もうすぐ日が沈もうかという公園には少年と徴矢しかいなくなっていた。
「……帰らないのか?」
無意識に呟いて、少年を見る。
記憶なのだから応えるはずもないと思っていたのに、少年はこちらを向いた。
「あっ……」
驚き見る少年の顔は、誰かに似ている。
「……ぼくのおかあさんは、きょうはかいぎだから。おとうさんは、しゅっちょうだから。うちには、だれもいないよ。だから、かえってもひとりだもん。ここにいても、ひとりだから……おなじだから、かえっても、さびしいだけだもん」
「……黒髪……」
悲しみを一生懸命に我慢しているくしゃくしゃに歪んだ顔が、縋るようにこちらを見る。
思わず手を伸ばして撫でてやろうとした瞬間、世界が揺れた。
「!?」
子供が消えて、世界がまた白に変わる。だがそれだけでは終わらず、歪みは色を生み出し、景色は昼の公園へと姿を変えていた。黒髪はどこだと探すと、また影が集まっている場所が目に付く。
走り寄った徴矢は、その影の集まりが何かを知って足を止めた。
「おまえさー、じまんしてウゼーんだけど」
「おまえみたいなざこが、こんなもんもってんじゃねーよ」
影が取り上げているのは、多分自分達が子供だった頃に流行った携帯ゲーム機だ。
「かえしてっ、かえしてよお! それは、ぼくがおかあさんにかってもらった……」
少年は影に飛びついて必死でゲームを取り返そうとするが、影が足払いをかけて転ばせる。だが泣きながら、泥だらけで傷だらけになりながらも黒髪はゲームを取り返そうとしていた。
しかし結局ゲームは返してもらえず、挙句子供達からは仲間はずれにされて、黒髪は公園の片隅で泣いていた。何か声をかけてやろうと近付きたかったが、何故か邪魔されて黒髪に近づけない。
やがてまた夜になり、やっと黒髪は家に帰ってきた。
だが、家には誰もいない。
「……ただいま」
暗い玄関にそう言葉を投げた黒髪の目が、振り向いてこちらを見る。
するとまた景色が変わった。
今度は黒髪の家の中のようで、内装はかなり高級そうなつくりだった。だが置いてあるものは一般家庭とそう変わらないもので、黒髪の家庭は見栄に縛られているような印象を受けた。
黒髪はどこかと探して、ばしんと音のした方向へ顔を向ける。
火がついたような泣き声と共に、もう一度聞こえた叩かれるような音が被さった。
「なっ…………」
徴矢が振り向いた場所では、派手な化粧をしたスーツ姿の女性と上着を脱いでいる男、そして女性に胸倉を掴まれて頬を叩かれている幼い黒髪がそれぞれ見るに耐えない光景を見せていた。
黒髪は号泣しながら、何度もごめんなさいと謝っている。
だが女性は鬼の形相で顔を真っ赤にし、あんな高いものを失くして、と怒鳴り散らしていた。
こんな女性が黒髪の母親なのかと徴矢はあまりの悲しい光景に顔を歪めたが、それよりも一番衝撃的だったのは、父親の姿だった。
父親も会社員か何かなのか、シャツとネクタイを寛げて、母子二人に背を向けている。
だがその顔は怒り狂う母親のような顔でもなく、その母親に苦々しい顔をするでもなく、ただ無表情だった。まるで家庭や子供には興味が無いとでも言いたげに、だまってテレビを見ている。
何度も感情的に叩かれて泣き叫ぶ黒髪が助けを求めても、父親は黙ってテレビだけに目を向けていた。
「なん、で……」
無意識に問いかけた徴矢には誰も気付かず、胸が痛む光景は続く。
「もうゲームなんて買ってやらないんだからね!! あんたのどんくささにはもううんざりだよ!」
「ごめんなさい! ごめんなさいごめんあさいごめんな、さ……!」
これほどまでに謝っているのに、母親は叩くのをやめない。父親はとめようともしない。
これが、黒髪を育てた両親だと言うのか。
(酷すぎる……!)
手が勝手に動いて、足が勢いを付けて踏み出される。いつの間にか強く握っていた拳は、どちらに行くかも知れず震えていた。振りあがる拳に、黒髪がまたこちらをみる。
最初に徴矢を見つめた時と変わらない、縋るような悲しい瞳。
拳は父親に振り下ろされる前に、空を掠った。
「また……!」
景色がまた白一色へと変化し、ぐねぐねと曲がる。
この景色達が黒髪の負の感情の記憶だと言うのなら、まだこの感情の根源はあるというのだろうか。これだけならまだいい。だが、肝心の大学の記憶がまだ出てきていない。
もしかしたら、黒髪は大学とこの幼い記憶以外にも酷い仕打ちを受けていたのだろうか。
(頼む……頼むから、もう大学の記憶になってくれ……)
虐げられた人生なんて、見たくない。それが友達なら尚更だった。
だが負の感情は無常に次の景色を映し出した。少しくすんだ白い壁と無機質な窓。壁には下手な絵で手洗を推奨するポスターが張ってある。壁の下方にはフックが並んでおり、袋が掛けられていた。
もしかして、小学校か。
思う間に、また目を背けたくなる光景を見せつけられる。
黒髪は遊びと称して一方的に殴られ、仲間はずれにされ、教師もそれを見てみぬ振りをして保健室に篭らせた。いじめた子供には何も言わず、他の生徒も怖がって黒髪に近寄らない。やがて黒髪は教室に入れなくなり、三年まで保健室通いになってしまっていた。
それを母親と父親は怒り、教師はろくなことも言わずただ黒髪のせいだと仄めかし、それを知ってか知らずか虐めの主犯となっていた者達は、変わらず黒髪を虐め続けた。
結局彼は四年の終わりに転校になり、徴矢達の住む市へとやってきたようだ。引っ越してきていたのか。知らなかったと目を丸くする徴矢に、こちらに背を向けて町を歩く親子の姿が映った。
母親に手を引かれて、目の下に隈を溜めた悲痛ななりをした子供が、ただ人形のように歩いていく。それを後ろから見送って、徴矢は目を逸らしたくてたまらないと叫ぶ思いを押し込んだ。
――――これが真実とは限らない。
あくまでもコレは黒髪の中で理解された出来事であり、ただの一個人の記憶だ。
多少自分の意識に偏った編集になっているかもしれないし、見えない所で実際には両親も先生も何かをしていてくれたのかもしれない。黒髪を避けていた子供達の中でも、黒髪に接してくれていた者もいたかもしれないのだ。だが、その記憶が無いという事は、どういうことなのか。
あまりに自分の人生が辛すぎて忘れてしまったのか、それとも、本当に黒髪は……。
(だとしたら……辛すぎる……)
また世界が歪み撓んで、別の場所を映し出す。
「……、……あ、れ……?」
くすみもない白い廊下に、少し高級そうな枠にはめられた窓。
一瞬先程の小学校が綺麗になったのかと思ったが、壁に張られているポスターは違っていた。
少年が少女と手を取り合って何かを叫んでいる。下を見ると、徴矢の通っている大学がある学園の高等部の印が捺してあった。ということは、ここは高校か。
外を見ると冬の入りで、空は薄っすらと曇って陰鬱そうに動いていた。
中学の頃は何もなく平和だったのだろうか。
考えて、ふと教室の方を見る。
「あ…………あれ、もしかして平川か?」
教室の隅の方で、今とそれほど変わらない黒髪と笑い合っている、垢抜けない感じの少年。まだ黒髪で直毛のままだが、顔は確かにメイクをしていないときの平川そのものだった。
彼は今黒髪と楽しそうに週刊誌を見て笑っている。
もしかして、この頃までが黒髪が一番楽しかった時期だったのだろうか。
(こっち来てからの小学と中学がないことを考えると、多分そうだよな)
勝手な思い込みだが、そうだと思いたい。
負の感情の根源である記憶にその頃の記憶が無いと言うなら、幸せだったと思いたかった。
そこまで考えて、今見せられている記憶に疑念がわく。
(じゃあ、これって……一体なんで……)
二人が笑い合うくらいで負の感情が湧きあがるだろうか。
徴矢がそう思った刹那、景色が一瞬高速で飛んで、今度は平川と黒髪の近くに数人の集団が集まっている光景に変わった。何事かと近付いてみて、徴矢は思わず声を漏らす。
(こいつら……黒髪を虐めてた奴らだ……!!)
大学生になる前でもなんら変わりない、奇抜な格好に規則を無視したアクセサリー。ニヤニヤとこちらを見下したように笑う様は、まさに彼らだった。
高校生の時からもう目を付けられていたのか、と眉を顰めていると、また景色が変化する。
今度は雪の日で、平川と黒髪以外の誰も見当たらない教室だった。
結構な降雪量で、学校がこの雪の為に休校になり二人以外は早々と帰ったのだと容易に想像できる。その通りだったのか、平川はカバンを掴んで黒髪に背を向けていた。
しかし、二人の様子がおかしい。
近付いていくと、また声が聞こえてきた。
「え……な、なんて言ったの?」
驚きとも硬い笑いとも付かないような表情の黒髪が、平川の背中を見つめている。
だがこちらから見る平川の顔は影になっていて見えず、きっとこのとき黒髪は平川の顔を見ていなかったのだろうなと徴矢は思った。しかし黒く塗りつぶされた平川の顔は、口も見せず強い口調で言う。
「だから、キモイって言ったんだよ」
最初に見た平川とはまるで違う、拒絶しこちらに嫌悪を向けるような声音。
目を丸くする徴矢に構わず、状況は進んでいく。
「あのさ、キャラが本気で好きとか何? 人形とか持ってるとか、カード持ってるとかさ。完璧オタクだよな。……今まで言わなかったんだけど、そういうのマジきめえ」
「え……」
驚きに見開いた目に、眉が困惑に寄る。
だが平川はそれを見もせず続けた。
「正直お前ん家いった時に、マンガの人形並んでんのみてゾッとした。っつか、マジで引いた。それにお前の話っていっつもマンガとゲームの話ばっかじゃん? ガキ臭くてすんげー笑えて来んだけど。お前ダサいし喋り方もうざいしさぁ。……同類とか思われんの嫌なんだよね」
「そんな、こと……思ってたの……?」
信じられないとでも言いたげにぱくぱくと空気を食む黒髪に、平川は頷く。
「もう我慢の限界だから、俺お前の友達やめるわ。じゃーな、オタク君」
「ひっ……平川……」
黒髪の出来る限りの弱々しい引止めにも構わず、平川はそのまま出て行ってしまった。
ただ静かな教室の中で、黒髪は暫し立ち尽くしていたが、俯いて自分の席に座る。
「……黒髪」
呼ぶと、肩が少しだけ反応する。
「…………平川は……平川だけは……俺のこと解ってくれてるって思ってたのに……。俺の友達だって……信じてたのに……」
机に雫がぽたりと落ちた。
堪らずに震える黒髪の肩に手を置いたが、相手の体温は無い。感触もなくただ自分の熱を反射するだけの黒髪に、徴矢は顔を歪めた。これは黒髪の記憶でしか無い。慰めたとしても黒髪自身には届かないだろうし、どうするべきか攻めあぐねている自分には届く自信もなかった。
「誰も……俺を解ってくれないんだ……」
悲しい呟きと共に、また景色が揺らぐ。肩に置いたはずの手は空に放り出され、徴矢はバランスを崩してよろける。体勢を戻しながら再び構成されて行く景色を見て、徴矢は目を丸くした。
最初に見た時の黒髪の家よりもかなり小さい一軒家の玄関。内装も比べ物にならないくらい質素で、今度はただ普通に生活感のある家だ。ここはもしかして引っ越してきた黒髪の家なのだろうか。
玄関のドアを振り返って、徴矢は思わず壁に背をくっつけた。
「黒髪……」
大学生の服を着ている黒髪が、いたる所に桜の花びらをつけて入ってきた。
どこかでそんなに桜が散っていたのか、と思うくらいの量だったが、普通に考えてそんな桜があるはずが無い。黒髪の沈んだ表情を見て、徴矢はそれが他人の故意によるものだと悟った。
「なんでこんなこと……」
呟く徴矢を素通りして、黒髪が二階への狭い階段を上がろうとする。
すると、居間のドアが開いてエプロン姿の初老の女性が顔を出した。
「健太……」
呼ぶ声に聞き覚えがあって、徴矢は目を丸くした。
この女性は黒髪を酷く怒っていた母親だ。
しかし目の前にいる彼女にはかつての刺々しさが見つからず、それどころか黒髪に少し怯えているかのような目を見せていた。何があったのかは解らないが、今の母親はもうあの頃のように怒ってはいないのだという事は理解できる。
しかし黒髪は表情も変えず、ただ黙って階段を上がって行ってしまった。
「……健太……」
母親が階段の下まで来て、心配そうに顔を歪める。
黒髪はこの顔を見ていないはずなのに、どうして母親がこんな顔をしていると記憶しているのだろうか。
「黒髪……もしかしてお前……」
また景色が歪み、徴矢だけが取り残される。
「…………」
切欠を掴んだような気がしたのに、その後に繰り広げられた光景にまた徴矢は挫けそうになって、ぐっと歯を噛締めた。
解っていたはずなのに、それからの黒髪の記憶も酷い物だった。
黒髪は、不良たちのパシリのように働かされていた。
けれどそれでも黒髪は笑顔で“友達だから”と笑って、言われるがままにしたがっては部屋で泣いて、ベッドを殴りつけていた。けれどそれを誰にも知らせることもなく、黒髪は毎日不良たちに付いて行き、時折話しかけられることに本当に嬉しそうに笑う。
友達がいることで辛うじて大学へ来ているのだとでも言うように。
しかし、不良達はきっと黒髪のことなどていのいいパシリとしか思っていなかっただろう。
高校の時の記憶で、何故不良達が黒髪を見て笑っていたのか。
今思えばアレは、稚拙な策略の一端だったのかもしれない。
(平川はもしかして……コイツらに変な事を吹き込まれて、黒髪にあんな酷い事を言ったんだろうか……。だとすれば、平川がこうも変わって、不良たちに馴染んでいることも理解できる)
不良たちの中には、勿論平川もいた。だが彼は決して黒髪自身に話しかけることはなく、黒髪がいるときは必ず離れて行動し、あえて黒髪に視線をやらないようにしていた。
黒髪は、平川が視界に入るたびに少し悲しそうな顔をして見ていたと言うのに、その顔をわざと見ないようにして。まるで罪悪感に苛まれて被害者を見ることが出来ない犯罪者のように。
――もしかして、本当は平川も、ずっと黒髪に謝りたいと思っていたのだろうか。
(…………黒髪……)
けれど、謝られることもなく、黒髪は自分達と出会うまで虐められ続けた。
あくまで、友達とのおふざけという名目で。
その中には、黒髪が肩を震わせて打ち明けた裸踊りまで克明に記憶されていた。
手拍子ではやし立て、目では「やらないとただじゃ済まない」と全員で凄みながら黒髪の退路を無くす。そして、やらざるを得ない状況を作り出し、黒髪は従った。
泣き顔になりそうな黒髪は、一枚一枚臍を噛む思いで服を脱いでいく。下着一枚になって流石に躊躇った黒髪は周囲を見たが、不良達は許すことはなく、ただ囃し立てるように脱げと命令した。
見ていられなくて、ついに徴矢の視線が下へと逸れる。もう、耐えられなかった。
黒髪だってきっと、その時の自分から目を逸らしたかっただろう。
けれど、それは許されなかった。
逃げることも拒否することも出来ず、ただ情けない姿を見たいと言う理由で屈辱的な事をやらされ、踊らされ、挙句の果てに体に落書きまでされて笑われて。
周りで下卑た笑いが起こるのを、黒髪はどんな思いで見ていたのだろう。
しっかりと顔を見てやりたかったが、辛すぎて徴矢には黒髪を見ることが出来なかった。
日が暮れて笑い声もなくなり、小さな葉擦れの音が聞こえるようになる。だが、どうしても顔を上げることが出来なかった。
黒髪にとっての地獄は、まだ続いていたから。
「っ……、うっ……、っ……死に、たい……」
ガサガサと移動する葉擦れの音の合間に、途切れ途切れの弱々しい声が耳に届く。
何かを必死で堪えて、嗚咽を漏らし、それでも必死に歯を食い縛っているような、声音。
「もう嫌だ……嫌だ、よ、なんで……なんで俺、こんなことに……なってるんだよ……っ」
ふとすれば幽霊の恨み言のようなおぼろな音で、意識しなければはっきりとは聞き取れない。
けれど聞き取れなくとも、その涙の間の言葉がどれほどの感情を籠められて発せられたのかは、痛いほど理解できた。理解できないはずがなかった。
「黒髪っ……!」
徴矢は顔を上げて、こちらに背を向けている黒髪へと手を伸ばし、駆け寄った。
あと少しで、手が肩をつかむ。はずだったが。
「あっ……!」
掴もうとした肩が粘土の様にぐにゃりと曲がり、同時に世界もまた揺らぐ。
だがもういてもたってもいられず、徴矢は周囲を体全体を動かして見張った。
そんな徴矢を嘲笑うように世界はまた狭い場所へと変化する。見たことの有る玄関、見たことの有る廊下と、見たことの有る階段。
ここは、黒髪の今の家だ。
気付いて再び記憶の主を探そうと地を蹴ろうとして、正面のドアがばんと開いた音に徴矢は立ち竦んだ。何が起こったのかと目を丸くし見やった先には、頬を押さえて部屋の中を睨む黒髪がいた。
何事かと近寄る前に、低く鋭い声が部屋の中から飛び出す。
「このっ……恥曝しが! いいか、絶対にそういう事は誰にも話すな!」
「何でさ……俺は被害者だ、虐められたんだぞ!? それがなんで恥曝しなんだよ!!」
「煩い!! ここまで育ててやったのに、いつまでもガキの趣味に没頭してその上いじめだなんて……このことが世間に知られたら、どうなる!! また引越しか、お前のせいで俺は出世から外れたんだぞ、バカなお前のせいで……ッ!!」
怒声と共に部屋の中から拳が湧き出て、黒髪の頭を平手で打つ。親子のふざけあいなどという軽いものではなく、本気で叩く音が廊下に響く。思わず一瞬顔を背けたが、徴矢は次の怒声に体勢を戻した。
「その上またいじめだと!? ふ、ざけるな……この、この出来損ないがあああ!!!」
怒り狂った叫びに振り上げられる腕。それを見て、腕の主をまるで仇のように憎む黒髪。
「出来、損ない……」
無意識に足が動き、徴矢はその振り上げられた腕を跳ね除けようとしたが、遅かった。
にぶい音が響いて、黒髪が音と同時に斜めに倒れる。
「いいか、金輪際この話はするな。他人にも絶対に言うな! 言えば、追い出すからな!」
母親の次は、無関心だった父親が黒髪を殴りつける。
抵抗する事だって出来ただろうに、黒髪はただ黙って父親の暴行に耐えていた。
「やめ、ろ……」
自分の喉から出た声なのに、信じられないほど震えている。
だがそれに驚く暇などなく、徴矢は再び振り上げられる拳と倒れている黒髪の間に割って入った。
怒気に染まった老けた男の顔が真正面に見える。黒髪を自分の後ろへ押し退けるように背中で動かすと、何故か、その時だけは黒髪の体の感触を感じた。
「この疫病神が!!」
下ろされる拳を目が捕らえ、同時に部屋の中を捉える。
不自然に荒らされた部屋に破れた壁紙。父親の体の隙間から見えた部屋に徴矢の目は自然に驚き丸くなったが、次に捉えた人影に、あっと口が呟いた。
刹那。
「――――――!」
己の頭に打ち付けられる寸前で拳が止まり、また歪む。
父親の顔も、姿も、まるで丸められた紙くずのようにくしゃくしゃになっていく。
だが徴矢はそれよりも別の事に驚いて、動けないでいた。
(……これ、は…………)
先程見えた人影。
それに気付いた瞬間にそれを覆い隠した記憶に、徴矢は遂に「切欠」がなんなのかを悟った。
記憶は徴矢の変化に気付いたのか、恐れ戦くように先程とは違う速いペースで世界を呑み込んで、今度は黒い世界へと変えていく。全てを覆い隠し終わらせるつもりだ。
だが、そうはさせない。
徴矢は確かに感触を感じた黒髪の体を逃すまいと、素早く振り返った。
既に真っ黒になった周囲に溶け込むように、倒れ目を瞑った黒髪の体がつま先から黒に侵食されていく。徴矢は黒髪の頬を軽く叩き再度彼の感触を確認して、急いで体を起こさせた。
黒髪は目覚めない。
「黒髪……お前の辛さや苦しみ、見せてもらった。」
膝までが飲み込まれて、体重が軽くなっていく。向かい合わせに起こした相手の体が、今度は指先から消滅し始めた。しかし焦らずに徴矢は真正面から黒髪を見つめた。
「俺には耐えられないほど辛い記憶も、お前の悲しみも、全部、苦しい事は全部見せてもらった」
触れる肩にまでゆっくりと黒が侵食していく。
徴矢は痛みに耐えるように眉を顰めて、歯を噛締めた。
「だから、お前に伝えたい事があるんだ。……お前の苦しみを理解したからこそ、言わせて貰いたい大事な……お前だけにいいたい、大事な話があるんだ……!」
軽くなって行く体が揺れる。
徴矢は感情の堰を切ったかのように、その軽い体を思い切り抱き締めた。
「お前を救う為に伝えたい、大事なことがあるんだ……!!!」
「―――――――――っ……ッ」
抱き締めた体が、反応する。
「消えるな、俺と向かい合ってくれ、黒髪……!!」
闇が足を、腰を飲み込む。腕も最早見えず、まるで四肢をもがれた胸像のようになった黒髪が、かくんと頭を空へ放り出す。力ない人形のように徴矢のなすがままになっている黒髪を、それでも徴矢は願いをこめて抱き締めた。感触はまだ有る、諦めない。
絶対に、離さない――――!!
「黒髪……!!」
かつて相手がそうしたように、黒髪の胸に顔を埋めて心臓を揺さぶるように叫ぶ。
届け。届け。
届いてくれ。
頼むから。
お願いだから。
お願い、だから。
「俺は、お前の全てを理解したいんだ……!!!」
慟哭にも似たその思いを叫んだ。
刹那。
「………………。」
何も無い空を向いた黒髪の口が、音も無く微かに動いた。
同時に世界が一面の白へと塗り替えられて、徴矢の抱き締めていた黒髪が一瞬で灰に変わる。
唐突に腕から消滅した体に、徴矢は暫し混乱して周囲を見渡していたが、はっとして後ろを振り返った。何故振り返ったかは解らない。ただ、振り返るべきだと思ったのだ。
そうして振り返ったそこには。
「……愛宕」
「黒髪……」
白い世界でぽつんと立っている黒髪がいた。
「…………俺ね、ちょっとは幸せだったんだよ。この町に来てから平川と別れるまでは、本当に幸せだった。家だって、ちょっとは優しくなって……幸せだったんだ」
「うん……」
座りこんでまるで絶望したかのような自分と、立ち上がって空を見上げる相手。
するべき仕草が交換されたかのようなちぐはぐな姿勢で二人は向かい合っていたが、互いにそれが間違いだと思う心の隙間は無かった。
ただ騙る黒髪と、頷いて確かに聞いている徴矢。
空間は二人だけを浮かびあがらせて、ただ無音だった。
「でもさ、神様って残酷だよね。俺が本当に幸せだって思った頃に、また……絶望させてさ。……耐えられる心が出来たって時に、もっともっと酷いこと経験させてさ……。這い上がろうって頑張って、立ち向かって、円満に終わらせようって思って訴えても、結局また突き落とされてさ」
「うん」
黒髪は動かず、ただじっと白いだけの空を見ている。
徴矢はそんな黒髪を見つめて、邪魔をしないようにただ頷いていた。
「……俺さ、頑張ったよ。こんなことで将来棒に振ってたまるかって。オタクでも、父さんなんか越えて凄い仕事についてやるって。だから折れちゃいけないって……頑張ったんだ」
空を見上げた目の縁から、一筋の透明な線が走る。
「でもさ……誰も、俺のこと……見てくれないんだ」
一筋だった線が、幾重にも増えていく。
ぽたぽたと白い地面に落ちるそれは、確かに水の玉となってじわりと染みこんだ。
「でも、俺、他人の為に頑張ったんじゃないよ? 俺の為に頑張ったんだよ? だって、悔しいじゃないか。運命に負けたとか、いじめに負けてニートになったってまた弄られるとか、父さんに一生逆らえないとか、とか……さあ」
ゆっくりと、黒髪の顔が下を向く。
「俺は、自分の力で全てをやって、一人で立ち上がって、誰かに寄りかからないでいいくらい強い人間になろうと頑張ってた。そんな人間だって、自分で思ってたんだ……」
涙をこぼして正面を向いた黒髪の瞳には、黒髪をしっかりと見つめる徴矢が映っていた。
「でもさ……気がつくと……目で追ってるんだ。
平川を……母さんを……父さんを……
愛宕を…………!」
「黒髪……」
今は名前を呼ぶことしか出来ない徴矢に微笑んで、黒髪は膝から崩れ落ちた。
「俺っ……俺……褒められたかった……! 誰かに、俺の大事な人に、俺の周りの人に、褒められたかったんだ……!! 俺は頑張ってるって、俺は偉いって、俺は、俺はもう充分頑張ってて、俺は誰よりも強くて、一番で、そんな俺が好きだって……俺を、大事だって……!!」
思いが決壊した目は止め処ない涙で黒髪の視界をさえぎり、辛さに黒髪は目を細める。
「ちょっとでいいんだ、ちょっとでいいから、守ってほしかった! 大事だって言って欲しかった! 俺だけの味方で、俺を尊重して、俺を大好きだって…………
大好きだって…………誰かに、言って欲しかったんだよぉ……!!」
子供の頃から、抱き締められる事などなかった。
友達からそんなことを言われた事もなければ、両親に愛されていた記憶すらあるかどうか怪しいものだった。幸せを味わって、人に触れて、人と接する事がこれほど楽しいことかと知ったからこそ、人に愛されたくなって。自分が一番なのだという答えが欲しくなって。
だけど誰にもそれを示された事などなく、また世界は自分を闇へ引きずりこんで。
負けないようにと歯を食い縛って抗って、平然を装って、未来を傷つけまいと自分を守っていたのに、誰も自分を褒めてはくれなかった。そんな自分を理解して、見てくれる人もいなかった。
自分に真正面から優しい言葉を掛けてくれる人など、いなかったのだ。
その考えが自惚れているのは自分でも解かっている。
解かっているが、ただ、欲しかった。
自分の全てを、今までを、理解して――――肯定してくれる、誰かが。
黒髪の思いが空間を伝って、言葉が無くとも徴矢の心に伝わってくる。
胸が張り裂けそうだと言う台詞はここで使うのだと理解するほど、徴矢の胸は引き絞られて破裂しそうだった。
黒髪の慟哭が、どうしようもない、人の心の底に在る思いが、伝わってくる。
徴矢は一度胸元を強く握り、苦痛に歪む顔を強く歪めてから治めると、やっとゆっくりと膝を使って黒髪へと近付いた。一歩一歩づつ、泣いて地面を見つめる相手に近付く。
慟哭をやめようとしない、子供のように泣きじゃくる黒髪に、手を伸ばす。
手は空を切る事無く肩に止まり、徴矢はゆっくりと体を寄せて、再び黒髪を抱きしめた。
「…………辛かったんだな」
その一言だけでよかった。
「う……あ…………愛、宕……あたご……あたごぉお……!!」
まるで獣のように荒く抱きつき返し、黒髪は赤子のように大きく泣き声を上げた。
白い世界に響く声に顔を歪める事無く、徴矢は一層深く黒髪を抱きこんだ。
今こそ、言わなければならない。
伝えるのだ。
「俺はさ、お前の人生なんて十分の一も知らない友達で、まるで頼りないオタクで、ついこの間まで周りの人間の変化にすら気付かなかった、大馬鹿野郎なんだ」
黒髪の背中を擦って、肩口に顔を埋める。
荒い呼吸ではなく、眠る時のような安らかな呼吸を伝えながら、徴矢は己の頭を黒髪の頭へ寄せた。
「人間ってさ、駄目だよな。人の事知った気で居ても、そんなの一億分の一すら解かってなくて、すぐに弱気になって、愚痴はいて…………人を虐めたり、自分が正しいって疑わなかったり、変わっていくことに恐れて、今までの幸せにしがみ付こうとしてさ」
心の中の影にまた胸が強く痛みを訴えて、徴矢は顔を歪めた。
「でもさ…………それでもさ……俺は……俺は、思うんだ」
嗚咽に苦しむ黒髪の頭を手で引き寄せて、思い切り自分の頭に押し付ける。
震える頭は泣き声を反響させて徴矢の耳を劈いたが、徴矢はそのまま、告げた。
「友達を、俺に笑いかけてくれた奴を、出来る限り助けてやりたい。それが自己満足でも、結局は事態を悪化させたとしても、大きなお世話でも……。大事だから、みんなが、お前が、黒髪が、大事だから……例え、牙を剥かれても……助けたいんだ……」
「あた、ご……」
「お前は俺の大事な……一生友達でいて欲しい、たった一人の人間だから……!!」
「――――――……!!」
大きく見開かれた黒髪の目から、大粒の雫が零れる。
見ておらずともその涙を感じて、徴矢は眉を寄せて訴えるように続けた。
「黒髪……お前は俺の大事な、替えなんてない、大事な友達なんだよ……」
「俺、が……愛宕の……愛宕の大事な……」
ぱきん、と何かが割れる音がする。
それは小さな亀裂の音を響かせて、目に見えない場所でガラスのように砕け散った。
「……俺、は…………賢吾を……殺し、かけたのに……」
黒髪の言葉にはっとして体を引き剥がし、相手の顔を見たが、黒髪は変わらない。
ただ驚き放心したかのような顔で、涙を流しながら徴矢を見つめていた。
「俺は……俺は、みんなに……」
「黒髪……」
「俺は、とんでもない、ことを……したのに……」
また涙を流す黒髪に、邪念は無い。
何故だか解らないが徴矢にはそう確信できていた。
あやす様に相手の頭を緩くなでると、黒髪は段々何かを恐れるような顔になり、縋るように徴矢を見つめてきた。多分、怖いのだ。自分に見捨てられ、全てに見捨てられ、また一人になるのが。
また、誰にも目を向けられなくなる事が。
独りよがりな思いだとふと心の中で誰かが叫んだが、しかしそれ以上に徴矢にはその気持ちが理解できていた。記憶を見たからでは無い。自分だって、似たような思いをしたからだ。
少しだけ胸だけを使って深呼吸をして、徴矢はまた黒髪を見つめた。
「賢吾のこと、虐めてた奴らの事……まだ、許せないか?」
静かに訊くと、黒髪は強く頭を横に振った。
「違っ……違う、許せなく、なんて……俺っ……俺は……なんてひどい……!」
「黒髪」
混乱しようとした相手を静かに呼ぶ。
驚いて目を合わせてきた相手に、そのまま徴矢は静かに問いかけた。
「お前がした事は、許されない事だって言うのは、解かってるな?」
頷く黒髪の目が、また恐れに染まっていく。
だが目を逸らすのをやめず徴矢は真っ直ぐに相手を見続けた。
「俺がお前に対して抱いてる感情も、理解できるな?」
「あた、ご……」
戦慄く口が、弱音を吐こうとしている。自分に対して、「見捨てないで」とでも言いそうなほど情けなく歪んでいた。しかし徴矢はその言葉が出るまでに黒髪をしっかりと睨みつけた。
「お前が決めろ……どうしたい」
「…………っ」
言葉に詰まる黒髪が、顔を逸らそうとする。が、徴矢は相手の顔を掴むと自分の顔をギリギリまで近づけて、睨み付けたまま、吐き捨てるように言い放った。
「だけどな、どんな答えを出しても、俺はお前の友達をやめないからな!!」
「……っ……?!」
「お前が更生するまでずっと、ずっとずっとお前を見つめてやる! 殴りつけてだって、引き摺ってだって、お前が死ぬまで、お前が友達を止めたいと思うまで、俺は一生付き纏って罪償わせてやる!! 黒髪、お前がまた『強い黒髪』に戻るまで、お前が許されるまで、俺はずっとお前を見つめるのをやめない!! 絶対に俺から逃げるなんて許さない、俺だけは一生……一生、お前が何しても、お前がすべてから許されても、絶対離れないからな!!!」
「愛、宕……っ……」
信じられないと相手の目が丸くなる。
何に震えているのかは解らないが、黒髪の体は細かく揺れていた。
だがまだ言いたかった事は言い終えていない。徴矢はゆっくりと相手の頭を離し、立ち上がると、腰が抜けたようにへたり込んでいる黒髪を見下ろして口だけを歪めた。
「どうしたい?」
暫しの沈黙が空間を支配する。
だが、やがて、黒髪は口を開いた。
もう嗚咽も聞こえない。涙も、ただ静かに流れていた。
「……償いたい。どんな理由があっても切欠を作ったのは俺だ、だから、だから……! 皆に……賢吾に……平川に、あいつらに…………愛宕に……許されるまで、償いたい……!!」
絞り出すような声が響く。
その残響を残して、徴矢は今度こそにこりと微笑んだ。
「うん。一生、償えよ。俺と、賢吾とみんなと……少しだけ変わった、お前の母さんにさ。……俺達と一生友達でいて、一生償ってけよ。……なあ、黒髪」
差し出した手に、黒髪がまた大粒の涙を零して口を歪めた。
「うん……!」
もう黒髪の顔には愁いは無い。改めて相手の心の強さに、徴矢は目を細めた。
「やっぱり強いよ、黒髪は。俺なんかとは比べ物にならないくらいだ。……本当のお前は誰よりも強くて、誰よりも格好いいよ。黒髪」
「…………愛宕には、敵わないよ」
はっきり言わなければ、何も伝わらない。
自分の気持ちも、相手への思いも、今まで訴えてきた事でさえも。
もしかしたらそれは自分の勝手な思い込みなのかもしれない。だが、真剣な思いで相手に真実の思いを伝える事は無駄では無いと思いたい。自分の気持ちが十分の一も理解されないのだとしても、その一割という望みがあるのなら、伝える事で相手は変われるかもしれない。
例えそれが難しいことだとしても、相手が自分と同じように自分を思ってくれているのなら、決して伝わらない事などないのだ。
(そうだ…………伝わらないことなんて、ないんだ)
それを教えてくれたのは、誰でもない。
人間でもないものだった。
「愛宕……俺さ、強い人間なんかじゃないよ。……愛宕に受け入れて貰って、はっきり言って貰って、今ようやく自分で自分を受け入れられた。……俺、逃げてたんだ。昔っから。いじめだって、嫌なら最初から言えばよかったんだ。もうガキじゃないんだ、本当に嫌で救われたいなら、どんな方法でだって切り抜けられたはずだ。それに、俺……母さんからも逃げてた。……愛宕に言われて、記憶を改めて見て、初めて解かった。母さんは、仕事をやめてからずっと……ずっと俺に触れようとしてくれてた。償おうとしてくれてたんだ。でも、俺は結局母さんが怖かった。だから何もかもから逃げて、耳を塞いで、自分に都合のいい友達を望んでたんだ」
「黒髪……お前……」
強い、今まで見せたことも無い強く光る瞳が、徴矢を見返す。
そして伸ばしていた手を掴み、黒髪は立ち上がった。
「だから、やっと見つけた幸せにしがみ付いて、賢吾の忠告すら跳ね除けて、自分の事だけ考えて、暗くなってワケ解かんなくなって……気付いたら化物になって、幸せを邪魔しようとする奴らを排除しようとしてた。……そんなことするなら、最初から、愛宕達に訴えればよかったのにな。……でも、それすら、また友達を失うんじゃないかって怖くて、いえなくて逃げてたんだ。……愛宕には最初から、俺の事解って貰えてたのにな」
にこりと微笑む顔には、いつものような弱々しさは無い。
年相応の、何かをしっかりと見据えて歩く大人のような、勝気な笑みがそこにあった。
「でも、俺はもう逃げない。俺には俺を見てくれる人がいる。自分を理解できる。自分から言わなきゃ、自分から始めなきゃ何もかも始まらないって解かった。……だから……だから……!
俺はもう、逃げたりしない!!」
徴矢に宣言するようにはっきりと黒髪は言い切った。
「黒髪……!」
笑う相手に顔が勝手に綻んで、握り締めた手に力が入る。罪を認め、それでも償っていこうとする強さ。
黒髪は自分は強くないといったが、それはとんでもない思い違いだ。
間違いなく黒髪は、強い。
たった一人、頼りにもならない後ろ盾が出来ただけだというのに、黒髪は徴矢の望む事を理解し、自分のした事をこんなに早く受け入れて、今までの自分と決別しようとしている。
虐めに耐えた人間は、これほどまでに強くなれるのか。
不幸と幸せを味わった人間は、こうもしなやかに立ち直れるのか。
やはり、強いではないか。
「お前……やっぱ強いや……」
勝手に緩んでくる目尻を頬を上げて抑えながら、徴矢は泣いているような笑顔で笑った。
「愛宕こそ……俺より、ずっと強いよ。だって、酷いことした俺を受け入れて、罪償わせようって俺の中にまで入って来るくらいなんだから」
「へへ、そうかな」
照れくさくて笑うと、相手も嬉しそうに微笑んだ。
「そうだよ」
呟きと共に、周囲を囲んでいた白が淡く発光し、徴矢と黒髪の輪郭を仄白く照らす。
まるで太陽の光のように暖かく温度さえ感じる光に包まれながら、柔らかに白く霞んでいく笑顔の黒髪を見て、徴矢は心から安堵した。……もう、心配はいらないのだと。
段々と繋いだ手の感触すら離れ、意識だけが遠くへ飛ばされるような感覚が強くなる。
その感覚の波間に遠くから聞き慣れた声と、黒い闇が吹き上がる光景を感じた。
声はどこかで吹き上がり荒れ狂う黒い闇を拘束し、光の刃を幾重にも突きたてる。
鋭い悲鳴を上げる闇を遠く遠くへと引き剥がして、声はもう一度強く叫び、闇を蹴散らした。
光景や声を「感じる」とは不思議な感覚だったが、それ以上の形容の仕方がない。不思議な感覚だった。徴矢は緩く閉じていく意識の中で、声がその黒い影を切り裂き霧散させる光景をコマ送りで感じ――――やがてその声の主をはっきりと理解して、微笑んだ。
黒く、しかし禍々しさなどないただただ美しい羽根が、自分を覆うのが解かる。
そして翼を持ったその声の主は、優しく呟いた。
「徴矢、よく……頑張ったね」
頭を優しく撫でてくれる手が、声が、見えずとも感じるその姿が、誰かなんて言うまでも無い。
白に塗りつぶされていく意識の中で、徴矢は相手に伝わるように精一杯笑って、意識を手放したのだった。
後書的なもの
前回の後書きの通り、これが一番難しかったです…
自分の体験したことの無い場面を誰にも納得して貰えるように
書く事を考えて打ってたんですが、やっぱり全員納得って解決には
なっていないような気がします。
それは仕方の無い事なんでしょうが、なんかジレンマですなあ…。
とりあえず、黒髪が黒髪なりに立ち直って、自体が解決した
っていう認識で見て貰えると嬉しいです。
さて、ここでひと段落です。
後二回、残り少なくなりましたが、最後まで付き合って頂けると嬉しいです。はい(´∀`*)
2010/04/21...