十八回目










 鳥の声が耳にうるさくて、徴矢は目を覚ました。
 
 周囲を見回すが、あるはずのものがない。
 決まった時間に煩く自分を起こす声も、教育テレビのおかしな番組も、朝食を催促する姿も無い。
 ただ陽の光が照らしている部屋は、自分が思う以上にがらんとしていた。
 自分の部屋は、ここまで面白みの無い場所だっただろうか。
「…………」
 考えを中断して、気だるい体を起こしシャワーを浴び、時計を見る。
 もう昼を過ぎていたことにすら気付かないほど自分は寝入っていたようだ。
 頭を掻き、パソコンの電源を入れる。そうだ、これが本来の自分の生活だった。
 テレビでアニメやニュースを見ることも、それに対して一々突っ込みを入れて笑うこともしない。
 ただパソコンで掲示板やサイトを見て、時にはゲームをして、エロ画像を漁ってネタに笑って……それが、本当の自分の生活だった。教育テレビなんて、見る理由も無かったのだ。
 なのに、何故だろうか。
 徴矢にはそれがもう日常だとは思えずにいた。
「…………はあ」
 テレビを消して、ホームページである検索サイトを表示する。
 ニュースやサイトのデザインは変わるが、代わり映えのしない構成。だがその些細な変化にすら、自分の同居人はきらきらと目を輝かせて楽しんでいた。たった、それだけのことで。
 だがもうその同居人は、二度と自分の横からパソコンを覗く事は無いだろう。
 徴矢は己の考えていたことに今更はっと気付いて、深く溜息をついた。
「……俺、どんだけショック受けてるんだろ」
 呟いて、いや、と己の思い違いを正す。
 これはショックではなく、喪失感だ。そして、迷いでもあり決めかねているということでもある。
 一日日をおいたお陰か否か、徴矢には冷静さが戻っていた。
 昨日までの自分は、セオの言った通り確かに深く考え過ぎて、その上自分に酔っていたフシがあったように思う。親友が襲われて、その加害者が別の親友だと考えたのならば当然なのかもしれないが、それと自分の逡巡は全く別だ。
 真に友人達を思うなら、泣く間も厭い疲れすら忘れて奔走し、セオと共に一刻も早く事件を解決し、彼らをフォローしてやるべきだった。傷ついたのは自分では無く、被害者の人間達と、あの二人なのだから。なのに徴矢は女々しく絶望して泣き喚いて、殺せだなんて戯言を吐いた。
 今思えば、昨日の自分は殺したくなる奴に他ならない。
 ここに未来型青狸の時空移動マシーンがあるなら、昨日の自分を張り倒しに行きたい所だ。
 それくらい、その時の徴矢は駄目人間だった。
 ニートと比べるとどっこいどっこいの酷さかとも思ったが、絶望していない人間もいる分ニートの方がましかもしれない。まあ、それは置いておくとして。
 兎も角、ヘタレな自分のせいですべては悪化した。
 セオがいないのだと落ち込んでいる場合では無い。こんな所でぼけっとネットをしている場合でもないのだ。早くどうにかして、自分にも出来る彼らへの最高の償い方を考えねばならない。
 だが疲労は余程徴矢の体を蝕んでいたのか、思考は冷静さとは裏腹に上手く働かなかった。
 昨日の行為と、涙腺がぶっ壊れるまで泣いたせいかもしれない。
「……っていうか……セオ、やっぱ食事してなかったんだな……」
 あれほどまでに疲労していたのに動けるのは、自分が快楽を喰らわれてないからだった。
 いつもなら気だるさが増すはずが、嘘みたいに楽で何事も無いようだ。今更快楽を食わせる代償に気付いたが、それもまた遅い。いつもは疲れより先に空しさを感じる時間が来るから、気づかなかったのかもしれない。まあその空しさに慣れてしまうほど一人上手になってしまっていた自分もどうかとおもうが、それは別として。
 セオは、それほどまでに自分を気遣ってくれていた。
 もしかしたら両親と同じくらいかそれ以上だ。
 そんな者になど、今まで会った事が無かった。
 賢吾にさえ、セオほどの深いものを感じることは無かったと言うのに。
「…………なんか、アイツが離れてから気付くことばっかだな」
 適当にニュースの欄を開いてカーソルを走らせながら、徴矢はポツリと零す。
 ここ数日で、自分は随分変わったと思う。
 生活サイクルも随分健康的になったし、卵焼きも格段に上手くなった。教育テレビで思わぬ感動や知識を得ることもあれば、世間知らずの悪魔といることで改めて色々な事を気付かされた。
 だが、一番変わったと思うのは――――自分の心だった。
「俺、あんなに泣けたんだな……」
 徴矢は、今まであれほど感情をさらけ出した事はなかった。
 激しく怒ることも、恥しがることも、笑うことも、疲れることも。
 遠い昔に忘れてきてしまっていたのかと思うほど、これまでの徴矢はそれらを激昂させる事無く生きていた。成長するにつれて感情をうまくコントロール出来るようになってからというもの、どんなに陰口を叩かれても、どんなに酷い事があっても、徴矢は感情を表に出そうと思わなかったのだ。
 男が泣くなんてみっともないと教えられて来たからだろうか。
 それとも、大人ぶりたくて厭世的になり「どうせこいつらはこんな奴らだから」と諦観して、自分が高尚な存在であると錯覚したかったのか。
 今となっては不思議と理解できなかったが、そうやって徴矢は感情を自分から消して行った。
 笑い、楽しむだけの日常。
 賢吾と、魔子ちゃんグッズと、二次元さえあればそれで幸せの、閉鎖的生活。
 排他的なその日常は思い返せば滑稽だと笑われるようなものだったが、それでも幸せだった。
 だが、今はそれを幸せというのか、迷っている。
(それって、ただ、逃げてただけなんじゃないのか? 信じられないことに目を瞑って、痛いことから遠ざかって、自分の居心地のいい場所にしがみ付いて感覚を閉じて……)
 幸せは人それぞれだと人は言う。
 最もな言い分だろう。
 しかし、今の自分には今までの自分が幸せだったと思えなくなっていた。
 “幸せ”だけの、“不幸”から逃げて避ける生活。
 それは本当に、自分にとっての“幸せ”な生活だったのだろうか。
(…………今は、もう幸せだとは思えない)
 散々迷って、自分に絶望して、うんざりするぐらい泣いて、心の内を吐き出した今なら解る。
 自分にとっての幸せは、そんな夢の殻に篭った生活じゃない。
「……辛くても相手の為に真剣に考えて、泣いて、後悔して、結論出して…………必死こいて大事な奴の為に奔走して、それから、そいつらと笑うこと。……それが……俺の“幸せ”だったのかな」
 辛くない道は人生では無いとどこかの偉人は言う。
 アニメでも漫画でも、苦難は運命の糧だと散々喚き散らしていた。
 昔はそんな人生など二次元に任せておくべきだと苦難を嫌ったが、ようやく彼らの言葉を理解できた。
 辛いからこそ、乗り越えたその道は輝くのだ。
 だから神も、幸せを多く貰う人間に不幸を二倍与えたのかもしれない。
 
 決して、幸せのみで“幸せ”を感じる事は出来ない。
 “不幸”を知ってから初めて、その幸せはそう呼べるものになるのだと。
 
「今なら解るよ、セオ」
 悪があるから善がはっきりと認識できるように、全ては二極により均衡を保つ。
 相手と自分、幸と不幸、別れと出会い、苦しみと安らぎ。
 相対するどちらかが消えてしまったなら永遠に理解することの出来ない、その関係性と様々な真意。それは、まるであの悪魔の心のように思えた。
 嘘と本当、優しさと我儘、理解と暴走、言葉と行動、無関心と、離別。
 一見二極にならないそれらは、それでもセオの二極と言えるもの。悪魔のクセに悪魔らしくない相手の、すべてだった。自分に色々な事をはっきりと理解させてくれた、大切な全てだったのだ。
 迷い苦しむことは絶望への道では無い。全てを理解して次に進む為に用意されたステップだ。
 だがそれを教えてくれたのも、まだその答えすら見出せずに泣いた徴矢を抱き締めて導いてくれたのも、絶望に打ちひしがれていた己を引き戻してくれたのも、この二極を体現して教えてくれたのも、全部あの悪魔で。
 セオがいてくれたから、自分は立ち直ることが出来たのだ。
「……俺は、ここで迷っててもいいんだろうか?」
 マウスのホイールを動かして画面をスクロールさせるが、答えは出てこない。
 迷いの解決方法は自分が決断すること意外に無いのだ。
 だがそれを解っていて、ここまでセオがやってきたことや自分が理解した事を飲み込んだ上で、自分はまだ答えを出せていない。決断できていない。
 なにが引っかかっているのかというと、他でもない、悪魔のことだった。

 『徴矢が元気になるまで、僕は食事をしない。』
 『僕は徴矢を愛しているから。』
 『大切な君に、弱点を明かす。そうすることで、君は僕の弱点になる。』

 ――――そういう恋なんだよ、徴矢。
 
 悪魔の、捨て身の告白。
 誓いまで立てて、己の原動力であろう食欲すら制し、嘘まで吐いて徴矢を戦いから遠ざけた。
 セオの恋は、命を懸ける恋だ。
 寿命すら弱々しい才も無いただのオタクのために、飢餓に苛まれて、泣き言まで聞かされて、挙句の果てにたった一人で増長した悪霊に立ち向かわなければいけない。
 答えすら言わない最低なオタクをそこまで庇って、誓ったはずの約束を破ってまで、苦しい別れを選ばなければならないのだ。
 もしかしたら飢えて死ぬかもしれない。悪霊と戦って負傷するかもしれない。
 解っていて、あえてオタクの、徴矢の為に出て往った。
 弱点の宣言、飢餓の選択、別離の苦難。
 人ですら時に耐え切れず命を絶ってしまうような、苦しい道。
 なのにセオは進んでそれを選んだ。
 すべて、初恋とのたまい、報われないと覚悟していて一緒にいた、徴矢の為に。
「…………俺は……その恋に、相応しいんだろうか」
 命をかけた恋に、自分は答えることが出来るのだろうか。
 セオに対して、命を賭けることが出来るのか。
「……わからん」
 漫画でありふれた展開だと理解して、脳内で何百の頁から答えを探しているのに、目的の頁を見つけられない。考えると胸が苦しくて、はち切れそうで、得体の知れない感覚に涙が出そうだった。
 自分には、二次元への恋しか理解できない。
 そんな人間が、三次元と、もっというと悪魔と恋を出来るのだろうか。
 こういう感情すらはっきりと認識できないのに、自分は命がけの恋をしているセオに、全身全霊で答えてやることが出来るのだろうか。
 そこまで考えて、徴矢は自嘲した。
「俺も堕ちたもんだよな……最初はありえんと思ってたのに……とんだアッー!展開だぜ」
 だが、もうそれに関して自分を偽る気は無い。
 昨日やっと気付いた。
 
 自分は、セオが好きなのだと。
 
 徴矢の情けない姿を知っても尚、変わらずに自分に一心に向けられる感情。恋をしたと公言し、幸せだといわんばかりに徴矢に向けられる笑顔。そんなものを見せ付けられたら、流されずにいられなくなる。――思えば、自分は最初からあの悪魔に魅了されていたのかもしれない。
 じゃなかったら、大人しく卵焼きなんて作るはずもないし、通報だってしていた。
 無邪気なくせに邪気たっぷりで、悪魔なのにまるでバカな天使のようで。
 その設定は、卑怯すぎる。
 しかし正直ブサイクだったら、それでも惚れなかっただろう。イケメンの力だ。多分。
「うん、まあ、そこは否定しない。ホモ漫画のセオリー」
 誰だってイケメンには弱いだろう、と考えて、己の意地の張り具合に苦笑する。
 だが、自分がそんな漫画のようになってしまったのも悪い気はしなかった。
 美形とは言い難いが、まあ自分もこれでネタ人間の仲間入りだろう。悪魔とオタクがくんずほぐれつなんて、酷い漫画にも程があるが。
「……そうだよな、そこまで俺、覚悟してるんだよな」
 ならば、命くらい、恩返しと思えば案外簡単に投げ出せるのでは無いだろうか。
 死んだ後の事を考えると不安が無いでもなかったが、徴矢には確信できた。
 セオがもし、自分を本当に好きでいてくれるなら、自分は早々死ぬことは無いだろうと。
 全く、あきれ返る信頼ぶりだ。
 パソコンの電源を落として、徴矢は勢いよく立ち上がった。
「よし、決めた。…………もう迷わん。俺は、俺のやり方で、あいつらを救う」
 賢吾、黒髪、セオ。
 後悔は消えたわけではない。
 だが、悩んでいる間に行動すればよかったと思うのはもうごめんだ。
 行動こそが、謝罪と象徴になる。
 上着を羽織って、徴矢は部屋を飛び出た。
 
 
 
 
 
「まあ……っつーわけで、現場百回で来ては見たものの……」
 第一被害者の平川が襲われた場所に訪れてみたが、やはり何も手がかりは無かった。第二の被害者の現場へ行こうかとも思ったが、もし自分が犯人なら警察がうろうろしている場所になど行かない。
 黒髪の家という行き先もあったのだが、流石にラスボスと思しき人物の家にレベル1で乗り込む勇気は無い。セオを見つけるか対処法を見つけない限り、勝ち目は無いだろう。
 そもそも、徴矢は黒髪の家を教えてもらっていなかった。
 というワケで、賢吾が襲われた場所に来て見たのだが。
「なんもねーわな。まあ……」
 賢吾の事件は、何故か噂も出回らなかった。両親が通報を恐れたのか、それとも徴矢への配慮か。
 色々不思議ではあったが、今は考えていても埒があかないだろう。
 しかし壁にはうっすら爪痕が有るし、電柱の脇にもべっとりと黒い染みが残っているが、誰も不思議に思わないのだろうか。それとも案外気付かないものなのか。
「っていうか、なんか爪痕とか血痕とか消そうとしてる痕跡が有るんだけど……もしかしてこれ、賢吾のじいちゃんの仕業かな……」
 戸籍を弄れる人間なら、こんなことが出来る人間を知っていてもおかしくは無い。
 ちょっとゾッとしつつ屈んで、徴矢は別に何か手がかりが無いかと探した。
 賢吾は、何故このような場所にいたのだろうか。ここはアニマニアへの道ではあるが、賢吾の家からでは遠回りになるし、大体大学から向かうなら別の道のほうが近い。
「そういえば……賢吾、なんか俺に話したがってたよな……何だったんだろ……」
 あの時は気分が悪すぎたのであまり正確に思いだせないが、賢吾が何かを言おうとしていたのは覚えている。
 尋常じゃない様子だったから、何か重要な事だとは思うが、今になって何故か気になってきた。
「しかし、手術直後にそういうのを訊くってのもな」
 あまりよくない話の雰囲気がしたから、弱っている時に訊くのは躊躇われる。賢吾にはゆっくり静養して、早く元気になってほしいので、今は聞かないほうがいいだろうか。
 だがそれが手がかりかもしれないし……と悩んでいると、ふっと、気配がした。
「……?」
 思わず空を見上げてみたが、何も無い。
 無意識にセオだと思ってしまった自分に恥しさが募るが、そんな場合では無いと首を振る。では誰がと周囲を見渡すが、人所か何の影も見えなかった。
「あれ……」
 と、振り向いた刹那。
「愛宕」
「っおわぁあ!?」
 目を剥いて、思わず飛び退く。
 自分の背後、背中に張り付くように立っていた彼は、そんな徴矢を見つめて笑っていた。
 ただ、感情も無いような笑顔で。
「……黒、髪…………?」
 いつもの黒髪では無い。
 少し俯いて顔に陰を作っている相手が、何故か別人に思えて徴矢は足を一歩後退させた。
 何故かは解らない。ただ、理性は先程から煩いくらいの警鐘を鳴らしていた。
「ねえ、愛宕……ちょっと、付き合ってよ」
 にたりと笑う顔は、いつものはにかむ笑みの黒髪からは考えられないくらい、不気味で。
 危ないと解っていても、徴矢にはどうしてか拒むことが出来なかった。
 
 
 
 黙って前を歩く黒髪に導かれて、右へ左へと道を折れる。
 アニマニアへの道を逸れて向かう先はあまり通ったことも無い道で、見知らぬ土地に来た不安感はより一層徴矢を言い知れぬ緊張へと陥れた。
 相手は、黒髪では無い。黒髪に取り憑いた悪霊だ。黒髪は侵食されているだけなのだ。
 頭では解っているのに黒髪への何ともいえない感情が止まらない。
 少し頬を赤らめて恥ずかしそうに話す相手を知っているからこそ、今の不気味に笑う相手に違和感と不安を感じずにはいられないのだ。
 自分の腕をそっと掴むと、微かに震えていた。
(ああ、俺……すげえ恐いんだ……。でも何でだろ……セオがいないからなのか……?)
 今まではセオがずっと一緒だった。
 周囲には見えないことをいいことに、隣で好き勝手に話しかけて、笑って、怒って、孤独や恐怖を感じる暇すらなかった。だが、今は違う。今は、猛烈な孤独と恐怖を感じている。
 まるで蛇の巣に一人放り込まれたような、緊張感。
 一つ間違えば殺されるのかもしれないという想像が、それをより際立たせていた。
「着いたよ」
「…………ここ、は……」
 住宅地の一角で、まだ買い手すら付いていない土ばかりの空き地群。
 その奥の、三方を森に囲まれた一際広いなにも無い土地。
 ここに何があるのかと眉を寄せた徴矢に振り返って、黒髪はまたあの笑顔に顔を歪める。
「ここでさ、何があったと思う?」
 問いに答えることが出来ない。
 困惑に瞬きをすると、黒髪は答えを聞くことも無く勝手に喋り出した。
「とある一人の男がね、裸踊りさせられたんだ。阿波踊りみたいな節で、素っ裸でパンツすら脱ぎ捨てて、変な歌を歌いながら、周りが笑う為に踊らされた」
 背を向けて森のほうへとゆっくり歩いていきながら、黒髪はかくんと首を傾げる。
「拒否権は無かった。つまらないからって、ただそれだけで、昼日中誰が通るかも解らないここで、男はトモダチに囲まれて踊った。恥しかったのに、屈辱だったのに、怖くて、男はそれを押し込んで踊るしかなかった。写真まで取られて、マジックで『バカメガネ』とか『童貞』とか散々書かれて、挙句の果てに服を隠されて、夕方まで一人でここで探し回ってさ」
(なんてことを……)
 森を見上げるその肩が、小刻みに震え始める。
 その“男”が誰かなんて、もう徴矢にも解っていた。
 辛さに顔が歪むのを止められず、ただ黒髪の背を見つめる徴矢に、黒髪は振り向く。
 先程まで不気味な笑顔だった顔は、苛ついたような、我慢しているような、それでも悲しげで自嘲しているような笑顔に変わっていた。
 正気に戻ったかのような顔に、思わず目が見開いて手が黒髪に向かおうとする。
 だが少し伸ばした所で、声にさえぎられた。
「やっぱり徴矢は解ってくれるよね……優しいなあ」
「黒髪……」
 体が完全にこちらに向いて、今度は近づいて来る。
「誰も俺の話なんて聞いてくれなかった。何度誰かに話しても、誰も真剣に解ろうとしなかった。俺が弱いんだって父さんは叩いた。母さんは知らん振りしてた。俺には二人しか頼る所が無かったのに、二人とも俺の話なんて雑音くらいにしか思ってなかったんだ」
 徴矢の手を取った黒髪の肩はもう震えていない。
 思わず相手を見やると、黒髪は少し悲しそうないつもの笑顔を見せた。
「だけど、愛宕……君は違った」
「え……?」
 問い返すと、相手は更に口を弧に曲げる。
「俺を真剣に心配してくれて、友達だと言ってくれて……抱き締めてくれた……。何でも話して良いんだって、いつでも抱き締めてくれるって言ってくれた……。俺をそのまま受け入れてくれたんだ」
 どこかで聞いたような、誰かと似た感想が黒髪の口から漏れる。
 それが自分がセオに抱いていたものと似たものだと感じたときには、既に遅かった。
「くっ、黒髪!?」
 両腕で徴矢を捕らえて抱き締める黒髪に、思わず驚きが漏れる。だが相手は構わず徴矢の胸に顔を埋めて、嬉しそうに頬ずりをする。無意識に押し退けそうになったが、腕まで抱きこまれてしまっていて、身動きが出来ない。力を入れてみたが、細身だというのに黒髪は信じられないほどの強い力で徴矢を縛めていた。
 ……逃げられない。
「俺は、愛宕がいてくれれば、それでいい。……俺と愛宕だけで、ずっとずっと魔子ちゃんのことを話して、笑って、生活して……それで、永遠に楽しく暮らすんだ」
 熱い息が服を通して素肌に溶け込むようで、鳥肌が立つ。
 操られているとは言えどやはり友人だ。これ以上悪寒だとか鳥肌だとかの悪感情を抱きたくなくて、徴矢は話題を変えようと話を進めた。
「け……賢吾は? 賢吾も、一緒だろ?」
 その言葉に、黒髪は急に無表情になって、忌々しげに口端を吊り上げた。
「賢吾? ……ああ。俺と愛宕の中をジャマする、あの野郎か」
 野郎、という言葉に驚いて、邪魔するという言葉に二度驚く。
 順番が違うだろうと怒られるだろうが、徴矢にはそれほど黒髪の口調の変化が衝撃的だった。黒髪が賢吾や自分にそんな粗野な言葉を使う事なんて無かったのに、どうしてしまったのか。
 やはり操られているのかと思ったが、見上げてくる黒髪の目は正気そのものだった。
「アイツ嫌いだ。いつもいつも愛宕の隣に座って、俺と愛宕の間に入って一人で話を進めて、俺が愛宕だけに問いかけたことにもずうずうしく答えてきてさ」
「お前……そんな風に思ってたのか……?」
 信じたくない。無意識に顔が歪むが、黒髪の悪口は止まらなかった。
「それにさ、昨日、俺に無理やりついて来たと思ったら、引き止めてなんて言ったと思う?
 『お前、徴矢の事好きなんだろう? だから俺を邪魔者扱いしたんだろう。別にそういうのは個人の自由だと思うけど、でもお前みたいな自分勝手で独りよがりな奴に徴矢はやれない』
 とか、気持ち悪い事言い出してさ。独りよがりって自分のことじゃんね。俺の何を知った上でそんなコト言うんだろ? アイツは愛宕みたいに俺の本当の事を知ってるわけでもないし、そもそも俺はアイツにそんなに心許したこと無いよ? なのに賢吾って、バカみたいに熱くなって、説教し出してさ。……真性バカのくせに、俺と愛宕の仲を引き裂こうなんて、本当にムカつく」
(賢吾……ああ……そんな……!)
 驚きたい事が色々ありすぎて、頭が追いつかない。
 ただ今は、それほど親友が自分を案じてくれていたという事実が強烈過ぎて、動けなかった。
「でも、もう大丈夫。アイツはもう出てこれないよ」
「……どういう、ことだ……?」
 驚きから醒められないまま途切れ途切れで問う。
 黒髪は、嗤った。
「ジャマだから、この後、始末しにいくんだ。放って置いたらまたゴキブリみたいに湧いて来て、俺と愛宕の仲を引き裂こうとするからね」
「お、まえ……!!」
 頭に血が昇って顔が紅潮する。怒りに突き動かされて振り上げようと腕を動かした。が、動かない。悔しくて体をどうにか突き放そうとするが、黒髪は更に力を入れて徴矢を逃がさんとした。
 解っている、黒髪は操られており、これは戯言に過ぎないのだと。
 だが、許せない。
 ただ純粋に自分を心配し、黒髪を心配していた賢吾の気持ちを思うと、今の黒髪の発言はどうしても理解してやる事ができなかった。
「離せっ……!! 黒髪、お前何言ってるか解って……」
「解ってるよ。俺と愛宕の邪魔をする奴を、俺が排除しに行くんだ。ねえ、俺強くなったと思わない? もう愛宕に情けなく慰めてもらわなくてもいいんだよ。ああ、でもこうして欲しかったりはするけどさ」
「黒髪……っ!!」
 胸に頬ずりをされる度に、背筋を悪寒が走る。
 もうラルヴァがどうのと言っている段階では無い。怒りに駆られて徴矢は黒髪自身に対して嫌悪を感じずにはいられなくなっていた。頭の冷静な部分では「これが本当の黒髪では無い」と理解しているのに、利己的な部分が黒髪が憎いと暴れまわる。
 綯い交ぜになった感情に顔を歪める徴矢に、黒髪は嬉しそうに笑った。
 腕が、更に強く徴矢を締め付ける。
「愛宕……俺さ、ずっとお前のこと好きだったんだ……大学入ってからずっとさ」
「くろっ………………え……?」
 一瞬、すべての感情が消滅する。
 目を丸くして見下げる徴矢に構わず、黒髪は続けた。
「愛宕はいつも賢吾と楽しそうに話してて、賢吾にじゃれてて、明るくてさ……。俺に無いものを一杯持ってて、誰とでも軽く話せて、大人に見えて……本当に眩しかった」
「…………」
「だから、俺に話しかけてくれたとき、本当に嬉しかったんだ。ああ、俺に救いの手を差し伸べてくれたんだって。やっぱり、愛宕は俺の好きな人だって」
 視界が狭くなっている。
 その場面には賢吾もいたはずだ。二人でオタクの証を提示して、黒髪を誘ったはずである。大体その時は徴矢は軽く話しただけで何もしていないし、黒髪の心を開く鍵になったのは賢吾が付けていた同じタトゥーシールだった。徴矢は、何もしていない。
 なのに黒髪は全ての事柄を「自分と徴矢だけ」という認識で進めている。
 徴矢は相手の異常さに青ざめたが、黒髪は気付いていないのか違うのか、ただ口を動かし続けた。
「リンチされた時も抱き締めてくれてさ……俺さ、誰にも抱き締められることなんてなかったから、本当に嬉しかった……あったかくて、心臓どくどくいってて、動いてて……愛宕って俺の本当に欲しいものをいつもくれるんだよね。……アイツと口喧嘩してた時だって、俺を庇って、俺の思ってた事を言い当てて笑いかけてくれたし……愛宕は本当に、俺を解ってくれてるんだ……」
 徴矢を抱き締めた手が、すっと背筋を撫でる。
 一気に鳥肌が立ち上がった徴矢ににやりと笑い、黒髪は徴矢の股の間に足を割り込ませた。
「俺は、愛宕だけいれば、もう何もいらない。邪魔するものを全部壊して、楽しく暮らそう? 今度は俺が愛宕を守ってあげるよ。俺はもう弱くないんだ……ほら」
「っ……!?」
 ざわり、と音がして、周囲の木々が強風に揺れる。しかし風は吹いていない。
 はっとして黒髪の背を見やった刹那。
 ――――無数の鞭のような何かが、背中から吹き上がった。
「うわあぁあ!!?」
「ほら、こんな事だって出来る!」
 爪が撓り徴矢の首や足に巻きつき、そのまま黒髪の手を離れて地面に押し倒される。
 あまりの乱暴さに顔が苦痛に歪んだが、爪は腕や胴体にまで巻きついてくるとそのまま徴矢をもう一度空へと引き上げて、森のほうへと投げ飛ばした。
 地面に叩きつけられて、どん、と骨にまで響くような音が体内で聞こえる。何が起こったのかと理解する前に体は悲鳴を上げて、徴矢の口からは悲鳴が漏れた。
「あっ……がっ……」
 転がされるままの徴矢に愉悦の笑みを浮かべて、黒髪はゆっくり一歩づつ近づいて来る。
 背中から天使の翼の様に噴出した爪は、悪魔の翼以上に禍々しく何本にもまとまり、先端をうねうねと気味悪く動かしていた。悪霊、という言葉がこれほど体現されているのを見たことが無い。
 痙攣する目蓋を動かして冷静になろうとするが、痛みに折り曲がる体は動かず脳も混乱している。
 殺される、と感じて、目の前に現われた靴先に徴矢は歯をかみ締めた。
「ね? だから、これからは俺が愛宕をずっと守ってあげる。二人だけで、ずっといっしょにいようよ。……俺、愛宕にならなんだってやれるよ。ねえ、愛宕……」
 爪がしゅるりとまた徴矢の腕と足を捕らえる。仰向けに引っ張られて、そのまま固定された。力の上手く入らない腕を動かしてみるが、地面に深く突き刺さった爪は揺れもしない。
 何が起こるのか、と顔を恐怖の色に染める徴矢を見下して、黒髪はゆっくりと徴矢を跨いだ。
「愛宕ってさ、魔子ちゃんみたい。」
「……!?」
「こういう時とか、二人っきりのときとかさ……何かエロく見えるんだよね。男なのに、こんなことして見たくなる。……うん? これは俺だけが思うことかな? まあ、どうでもいいよね」
 どうせこんなことをするのは自分だけだし、と黒髪は屈みこんで、ゆっくりと徴矢の上着のボタンを外し始めた。肌が外気に晒されて、震える。しかしそれ以上に体は今から予想される展開に恐怖していた。もう何度もこういう事をされたから解る。これは、非常にまずい事態だ。
「くっ……黒髪、やめろっ、こういうのは男同士でやるもんじゃ……」
 ボタンの戒めが解かれたシャツが、勢いよく開かれる。
「男同士でやるもんじゃない? じゃあ、何で愛宕のここには……キスマークが残ってるのかな」
「ひっ……!?」
 指が、襟に隠されていた首筋の痣を抓む。
 何が起こったのかと一瞬困惑したが、昨日の出来事がすぐさま頭に浮かんで徴矢はしまったと臍を噛んだ。セオが温情で酷い事をしてくれたのが裏目に出てしまったようだ。
 だが黒髪はそれを平然と見つめて、僅かに忌々しげに眉を顰める。
「ここにも、ほら、ここにもあるよ。女の子がさ、ここまでキスマークつけるかな?」
「っ、たっ、痛い、って……!」
「…………徴矢ってさ、誰かとこういうこと毎日してたんでしょ?」
――――――!!」
 確信を付く言葉に、思わず反応して失態を犯す。
 だが解っていたとでも言うように更に顔をゆがめて、黒髪は徴矢の胸元を掌で撫でた。
「なん、で……」
 隠し切れないと確信して問うと、相手はすんなり答える。
「ずっと見てたから。……最初は、ちょっと変わったかな? って位にしか思ってなかったし、はっきりと解ってたわけでも無かったよ。でも、一昨日かな……愛宕の首筋に……これ、ついてたよ」
 言いながら痣を指で弾く黒髪に、徴矢は思わず顔を紅潮させた。
 一昨日と言えば、セオが自分に初恋だと告白して暴走してきた次の日だ。あの時は確か昨日のように配慮も何も無く貪られたから、そんな痕が付いていてもおかしくは無い。自分はまったく気にしていなかったが、それほど目立っていたのか。
 今更な羞恥に眉を顰めるが、黒髪は指摘をやめようとはしなかった。
「それに昨日……変なコスプレした男と一緒にいたよね。アレが愛宕の恋人?」
「なっ…………」
 はっきり言われて思わず言葉を失くす。
 確かに一緒にはいたが、恋人と言うわけではない。
 しかし黒髪はそんなことも知らず、少しずつ興奮して徴矢の胸に指を強く押し当て始めた。
「愛宕ってあんなの好きなんだ? 変な格好してるし、愛宕を乱暴に扱ってそうなのに。顔が良いから? っていうかさ、こんなことまでされてたんだ……」
 色濃く残る痣に強く指を押し当てられて、思わず体が反応してしまう。
「っ……!」
 口を閉じたが、遅かった。
「…………愛宕って、あの男にこういう体にされたの?」
 黒髪の目がぎょろりと見開き、指が徴矢の乳首を強く抓んだ。
「あっ、いや、だ……!!」
 昨日のことのせいで体が敏感になっているのか、怖いはずなのに控え目でも声が漏れてしまう。
 己の嫌な変化に泣きそうになったが、それ以上に泣きたいのはこの状況の恐ろしさだった。
 黒髪の目が、恐い。自分を戒めている爪が細かに震えて興奮しているのがわかる。
「許、せない……俺の愛宕に…………俺だけの愛宕なのに……!!」
 爪がざわざわと動き出し下肢にまでその触手が伸ばされる。ズボンの中に入ってこようとする爪に鳥肌が暴発し、恐怖のあまりに徴矢は黒髪を縋るように見上げた。が。
「黒髪……!?」
 黒髪の見開かれた目は、瞳孔が真っ赤になり白目の部分が黒く偏食していた。
「愛宕……許サナイよ……お前は俺だケノ、俺ダケノ゙モ゙ノ、ダ、ァ゙、ア゙、ア゙……!」
「ひ、あ、ああ……!!」
 黒髪の体に爪が巻きつきぼこぼこと形を変えていく。顔も取り込まれてしまいまるで影そのもののようになった黒髪だったが、それでもぎょろりとあの異形の目を飛び出させてじっとコチラを見つめていた。瞠目して歯を鳴らすしか出来ない徴矢に目を笑ませて、増殖させる。
 何をかというと、目を。
「愛宕……愛宕、アタゴ……ずっとオれのモノ、だ……オレ、だケの理解者……誰にモわダザなイ゙……渡ザな゙イ、ィ、ィイイイイイ゙イ」
 機械のモーター音のような不気味な叫びを口のあたりから漏らす、黒髪。
 いや、最早これは黒髪ではない。
 これは――――化け物だ。
「黒髪……!!」
「オレだけノ゙人間、俺だけの、俺ノ、俺の俺ノオレの゙オレ゙ノ゙俺ノ゙オ゙レ゙ノ゙ォオオ」
 答えない。いや、答えられないのか。
 ぼこぼこと体を変形させて人間から遠ざかっていく相手の体が膨らんでいく。声でさえ、もう黒髪の声とは似ても似つかない、濁声を何重にも重ねたような酷く低く汚い声だった。
 戦慄する徴矢を何個もある目で一斉に見やって、やっと出てきた大きすぎる口をにやりと歪める。
 今しがた捌いた肉のように真っ赤な口の中が見えて、徴矢の掌の二倍くらいある長い舌が覗く。こんな姿が人間のものであるはずが無い。黒髪はどうなってしまったのかと不安が顔に滲むが、目の前の異形はそんなことすら気にしていなかった。
「オ゙前は、おレの゙物だ」
「!!」
 今まで蠢いていただけの爪が、異形の言葉に反応してズボンの裾から這い上がってきた。と同時にベルトを引き千切ぎろうと小さな爪がぎりぎりと撒きつき、無数の糸のようなそれが徴矢の上半身へとゆるゆると侵食し始める。地獄にでも来てしまったのかと思えるほどのおぞましい光景に、徴矢は震える顎をそのままに叫んだ。
「やめ、やめろ、嫌だ、ひっ、や、嫌だぁああ!!」
「愛宕ワ……オレの゙、俺のォオオ゙オ」
 爪が太腿を這い回り、脇腹や胸を細かい虫のように突きまわしてざわざわと動く。
 嫌悪と恐怖の渦の中で、徴矢は空を見上げた。
 青く澄み切った空が、自分を覆う緑が、光を隠す。
 網膜に焼きついた鮮やかなその緑にもう見る事は無い色を重ねて、徴矢は目を細めた。
 ――宝石のような翠の瞳をした、悪魔。
 自分を助けてくれた、最も信頼に足る悪魔らしくない悪魔。
「あ、あぁあ……せ…………ぉ」
 涙が目尻から地面へ流れ、爪がその水を吸い取ろうと動いて地面を這う。
 やがて顔にまで触れてきたその体温すら感じない物体に、徴矢は強く目を閉じた。
 触れられたくない。自分に触れていいのは、こんな事をしても許せたのは、唯一人だ。自分を思い、信頼に足るものになろうとしていた、あの悪魔だけだ。
 例え正気の黒髪であってもこんな風に触れて欲しくない。賢吾でもだ。それをこんな最低な異形に強制されるかも知れない。セオですら途中で止めてしまった事を、やってくるかもしれないのだ。
 目蓋の裏で、追い求める悪魔の顔が笑う。
 負の感情に溺れそうになっていた徴矢は、なりふりかまわず、その悪魔の名を叫んだ。
「セ、オ……っ…………セオォ――――――ッ!!!」
 声の限り叫んだ口が、爪に塞がれて拘束される。
 もう抵抗する術は無いのか、と自分を侵食する爪に諦観を覚え始めた刹那。
「ヴ、ァ……?!」
 
 
 青い空を、黒い何かが横切った。
 
 
「……え?」
 瞬間、黒髪だったものから徴矢へ向かってのびていた爪が、切り刻まれて飛び散った。
 目を剥く徴矢に構わず、徴矢を拘束していた全ての爪が中間部分から弾け飛び、まるで内部で爆発でも起こっているかのようにどんどん爪は霧散していった。
 地面に突き刺さって四肢を固定していた爪の欠片が、宿主から切り離されたせいか砂のようになって空気に溶けていく。驚く徴矢をよそに、異形はそれを見て徴矢から飛び退いた。
 が、近くには着地できず、遠くへと弾き飛ばされる。
 鈍い音を立てて地面に打ち付けられた異形を見やると、相手は何故か異様に興奮し、震えながら何かを恐ろしげに見つめていた。
 その何かとは、何か。
 空を見て、徴矢はぽかんと口を開けた。
「徴矢、遅くなってごめんね」
 優しくて、少し低い格好付けたような声。体を覆い隠す黒衣。
 烏の黒く艶やかな大翼に、オレンジに近い美しい金髪。
 そして、雄山羊の角に似た、枯れ枝を捻じ曲げたような二本の厳しい角。
「オ゙、マエ゙、は……!!」
 こちらを向いて爽やかに笑う顔は、殴りたくなるほど整っていて、まるで天使のようで。
 ……こんな特徴のある悪魔を、間違えるはずがない。 
「セオ……!」
 徴矢は今出せる精一杯の声で、待ち人の名を呼んだ。
 悪魔の顔は一層笑んで、困ったように眉を顰める。
 
 
「ごめんね、戻ってきちゃった。……やっぱり僕、徴矢と別れたくないみたい」
 
 
 セオがもし、自分を本当に好きでいてくれるなら、自分は早々死ぬことは無いだろう。
 
 
 自分のその信頼を思い出して、徴矢は涙でぐしゃぐしゃになった顔で、笑い返した。
 










    

   





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後書的なもの
 
なんだろう、凄くこっ恥しい!!
 まさかこんな徴矢が潔くなるとは思いませんでした。
 と思ったら登場人物設定に書いてました。自分にげんなり。
 とりあえず一山越えたので、最後のスパート!
 黒髪との決着、そしていままで置き去りにしていたあの問題との決着
 を ご都合主義展開でお送りします!(おい




2010/04/11...       

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