十六回目











 二番目の被害者の襲われた場所は、やはり警察によって守られており入れない。
 未だ野次馬が群れる境界線の向こう側から中を覗いて、徴矢は溜息をついた。
(……今回は、マジで瀕死だった。しかも、よりにもよって黒髪虐めの主犯格だった男だ)
 平川にメールで訊いた所、一番黒髪を虐めて奴隷のように扱っていたのはこの男だったと言う。その執拗さには平川以外のメンバーも弱冠引いていたらしく、この前のリンチも実際はこの男が殆どやっていたのだとか。まあ全てを信用したわけでは無いが、強ち嘘でもないだろう。
 自分が考えている事が、真実だとすれば。
 しかしそれを考えると鉄より重い溜め息が出てくる。
(……もうやだ、こんな俺のネガティブ推理力……)
 信じるだのなんだの言ったはずなのに、もう何も信じられなくなりそうだ。
 それくらい今日は精神が疲弊していた。
「徴矢ー、見てきたよー」
 疲れた顔で声のした線の向こう側を見やると、セオがばさばさと翼を羽撃かせて戻ってきた。こういう時に姿の見えない術を使える生物は得だ。
 セオが戻ってきてから、徴矢は人気のない方へと歩き出してセオの話を聞いた。
「やっぱり同じヤツの仕業だった。地面に爪痕が何重にも付いてたし、何より同じにおいが充満してた。平川君と違って、わざわざ鼻を動かさなくても感じるくらい凄く濃密だったよ。危険な兆候だ。……もう、多分、完全にヤバい状態だと思う。これ以上野放しにしておいたら、誰も止められない」
「なあ、セオ」
「ん?」
 唐突に問いかけてきた徴矢に、セオは嫌な顔もせずなんだと首を傾げる。
 それを目の端で見ながら、徴矢は遥か遠くに視線をやった。
「もしかして……ラルヴァの憑いている人間かどうかは、残り香が強いか否かで判断してるのか?」
 徴矢の問いに、セオは短い間沈黙したが、やがて答えた。
「断言は出来ないけど、この場合はそうかな。……僕もこういうケースは経験が無いから手探りだけど、宿主と融合したラルヴァは強い残り香の元を常に発するらしいから、残り香が強い人間が取り憑かれている可能性が高いと考えてるよ」
「……そうか」
 最早返す言葉が、それしか見つからない。
 悪いとは思いながらも顔を見もせずそう言うと、セオが正面に回りこんできた。
「……徴矢?」
 相変わらず、解り易いほどの心配した顔だ。
 最初はこの顔すら怪しいと思ったものだったが、今となってはこの悪魔の表情が一番信じられるものになってしまっていた。徴矢は立ち止まり、虚ろな目で地面をゆらゆらと見ていたが、やがて路地に入る道を見つけてセオをそこへ誘導した。
 相手は一瞬不思議そうな顔をして首を傾げたものの、徴矢の態度で理解したのか、黙って付いてくる。何も言わずに付いてきてくれることがありがたい。滅多に人の来なさそうなビルとビルの隙間にたどり着くと、徴矢は地面に腰を下ろして盛大な溜息を吐いた。
「大丈夫かい?」
 姿を見られる危険は無いと判断したのか、セオが術を解いて腰を屈めて来る。
 そうして徴矢の頬をそっと手で包んで、己の顔に引き寄せた。
 いつもなら悪態をついて殴り飛ばしているが、もう今日はそんな気力は無い。
 肩を落とし、徴矢は力ない目でセオを見た。
「……今、二人、俺の中で犯人がいる」
「え?」
 自分がそんな事を言うとは思っても見なかったようで、悪魔は目を丸くした。
 まるで漫画のようだ。笑いたいが、もう疲れた。残念だがとスルーして徴矢は続ける。
「一人目は、変わらず、賢吾だ。……理由は変わらないが、前提が変わった。……それは、賢吾が黒髪に好意を抱いているかもしれない、ということだ。……つまりお前のようなホモホモしい感情な。…………だから、賢吾は虐めてたグループが許せなくて、感情を爆発させた。元々賢吾は感情表現が激しい。一回目であれほど酷かったのもそのせいなら納得が行く」
「徴矢……」
 セオの声が、沈む。いいたい事は嫌というほど解る。
 あれほどまでに信じたいと思っていた自分が、何故そんなことを言い出したのか――というような事だろう。頬を包む手をちらりと見て、徴矢はゆっくりと瞬きをした。
「……今も信じたいと思ってる。だけど、それと犯人かという事は別だ。可能性は誰にでもあるといったのは、お前だろ。……落ち込むなって、ウザイ。兎に角……だからって俺は、賢吾から逃げたりはしない。例え賢吾がそういう道を歩んでいたとしても、俺と接する時のあいつはあいつだからな」
「……うん。……でも、徴矢、辛くないの?」
 こんな場合でも、そうやってセオは自分を心配してくる。
 初恋というものは実に強力な性格矯正剤だなと思いつつ、徴矢は密かに感謝した。
 今となっては、それが唯一の鎮痛剤だ。
「…………辛くない、と言えば嘘になる。でも、今は賢吾を疑う辛さよりも……自分へのムカつきと、今の状況の酷さに限界が来てる」
 悪魔に弱みなど晒したくなかったが、もう形振り構っていられない。
 どういうことだ、と真剣な顔で顔を近づけてくる相手に、徴矢はやっと気力の無い笑みを返した。
「今日の昼……俺は、あることに気付いた」
「あること」
 復唱する悪魔の瞳を覗き込みながら、徴矢は吐息のような呼吸を漏らした。
「賢吾にだって動機はある。でも、それ以上に動機のある奴は、もう一人近くにいたんじゃないか? と。……思えば、考えないようにしてたのかもしれない。そいつは強くて、戦おうとしてて、俺からしてみれば可哀相な奴だったから。だから、そいつにも消えない印があることを忘れてたのかもしれない」
「…………」
 何を言いたいのか解ったのか、セオは眉を顰めて口を一文字に結んだ。
「信じようとした。でも、今日、それが本当に正しいことなのかと初めて疑問に思った」
「平然としてたから?」
 静かな声に、ゆっくりと頷く。
「お前、前に言ったよな。ラルヴァと宿主が融合しちまう……みたいなこと。それを思い出して、考えたんだ。……もしかして、時間が経てば経つほど、負の感情だけじゃなくて表面上の性格までラルヴァは支配してしまうんじゃないかって」
「……ありえないことじゃない。じゃあ、彼が……」
「話を急ぐな。あくまで仮定の話だ。……問題は、その可能性のある人間が……」
 そこまで話して、急にまた意気が無くなる。
 話してやりたいが、もう自分で自分の心を抉ることに疲れてしまった。
 どうしてもその先が言えずに目を伏せると、セオは気付いてくれたのか、微笑んで徴矢を抱き寄せた。広く温かい胸元に顔を押し付けられて、閉じ込められる。
 抵抗する動作すら煩わしい。
 いや、もう抵抗なんて出来なかった。
 男の胸でも、安心出来るものなら……与えて欲しかった。
「……その取り憑かれた人間が……徴矢が極めて親しい人間だっていうことだよね」
「……ああ」
 背中をゆっくりと擦られて、目を細める。
「他人だったら、まだ俺だって平然としていられた。自分とは関係ないからな。……でも、もうそんな事は考えていられない。……正直、追い詰められてる」
「二人とも容疑者だから……?」
 窺う様な声に、何も言えず徴矢は小さく頷いた。
「…………俺は、もしかしたら今まで、その可能性から逃げてたのかもしれない。胸糞悪いこと極まりないが、初めて明確な証拠を持っていそうな賢吾を見つけたから、俺は、アイツが犯人だとしても、この生活が完全に崩壊することは無いと思って身勝手に悩んでた」
 昨日と今日思っていた、「賢吾を信じたい、もし犯人でも受け入れたい」と思っていた心は本当だ。だがしかし、それが全てだとは、言えない。
 もしかしたら、徴矢は自分でも気付かない内に最悪の事態を回避したいと考えて、他の可能性を度外視して賢吾だけに意識を集中させていたのかもしれないのだ。
 逃げ道を失いたくなかったから。
「そう、俺は……逃げてた。……友達が二人とも【疑わしき存在】になるのを、恐れてたんだ」
「…………」
 抱き締める腕が、力を増す。
 その力強さが今は心地良いと思いながら、徴矢は目を伏せた。
「最悪の場合、俺は友達を両方失う。良くても、賢吾か黒髪から離されるかもしれない。だから俺は安全圏が欲しかった。多分、黒髪から先におかしな所を発見してたら、俺は黒髪だけに目を向けて、賢吾を完全に選択枠から排除してただろう。……どうしても、俺は、友達を一人でも残しておきたかったから」
「徴矢……」
 呆れたような諌めるような声が上から降ってくるが、反論は出来ない。徴矢自身もこんな己の真意に呆れ果てているのだから。今更他人に呆れられても、ショックの受けようが無い。
 溜息のように息を吐いて、擦り付けるように頭を動かした。
「身勝手すぎるよな。その結果がコレだ。……人一人が瀕死の重傷、三人の絆は崩壊寸前。…………俺が逃げずに二人ともしっかり見ていたら、こんな事態にはならなかったのに……っ」
 力ないはずの拳が、ぎゅっと握り締められる。手のひらに突き刺さる爪の痛さに顔を歪めて、徴矢は己の不甲斐なさを心底恨んだ。最早恨んでも仕方の無い事だが、それでも、自分の弱さと甘さが許せない。こんな事態になるまで保守を望んでいた深層心理とやらに、情けなさが募った。
「で、でも……まだ二人のどっちかが犯人ってわけじゃ……」
「犯人なんだよ。……セオ、お前は言ったよな。『残り香は近しい人間なら、誰にでも移る』って。……黒髪と賢吾に残り香が強く付くのはわかる。もし俺の知らない真犯人がいたなら、俺のいない場所で接触して、においが付着した可能性もあるしな。だが、何故俺にまでそれが付く?」
「あ……」
 自分で言ったはずの言葉をようやく理解したのか、セオは呆気に取られたような声を漏らした。
「そう、微かに残り香のあった平川と会っただけじゃ、俺に残り香は付かなかった。ちっとやそっとじゃ強く付着するようなにおいじゃないんだよ。……だから、あの二人のどちらかが犯人じゃないと、お前がちょっと嗅いだだけでたっぷりだと感じるにおいは、俺に付くはずがないんだ」
 平川の関係者を当たった時も、自分にそのにおいは付着しなかった。付着していたらセオが気付いていただろう。今までだって、においのことすら気付いていなかった。なのに、今日に限ってセオはなんともなしににおいの事を言った。
 徴矢にも、残り香がたっぷり香っていると。
 セオの脳味噌がどれほど賢いかは判別できないが、この悪魔はあまり適当な事は言わない。
 無意識の言葉ともなれば、尚更だった。
 セオも自分の事を良く理解しているのか、はっとして徴矢の肩を掴み一度引き剥がした。セオの何ともいえない表情が、徴矢の視界に現れる。だがそれに表情を返す事も出来ず、徴矢は一度だけゆっくりと瞬きをした。
「もう、どっちかが犯人だとしか、考えられない」
 気管が閉塞してしまったかのように、呼吸が苦しく感じる。
 胸は締め付けられるようだ。
 だが、もうそれを訴える気力すら徴矢には無かった。
「…………徴矢……」
 相手の顔が情けなく歪む。
 悪魔が何をそんなに悲しむ事があるのだ、と思っていると、肩を掴んでいた手がゆっくりと徴矢の後頭部を支え、今度は視界が金の波に塞がれた。
 かさついた唇に、柔らかくて暖かい感触が広がる。
「……っ」
 キス、か。
 驚いて目を剥くが、セオは止まる様子は無く、何度も角度を変えて優しく口付ける。その度に頭を支えた手を優しく動かして、髪を梳いた。
 柔らかい手が、心を宥めるように、自分の中の暗い部分を取り去るように動いていく。
 優しい感触が、ずっと自分の唇に熱を与えている。
(…………ああ、俺……相当疲れてるんだな……)
 これしきのことで、そんな事を思うなんて、どうかしている。
 だが今は本当にどうかしているのか、それが救いにさえ感じていた。
 まるで赤子をあやすような欲目も無いキスだ。快楽が主食だと言うのに、この悪魔は人を安心させてどうするつもりなのだろうか。そもそも、悪魔に、こんなキスが出来たのか。
 こんなことをしても、何の意味も無いだろうに。
 ぼんやりとそう思っていると、セオが不意に顔を離す。
 現れる怖いくらいに整った顔に、思考が消えた。
「……徴矢……僕は……僕だけは、君の味方だから。例えあの人間共が徴矢を突き放したとしても、僕だけは……君に召喚された僕だけは、永遠に君の味方だから……」
「……セオ」
 言葉の端々がおかしい。
 人間共とはなんだ、徴矢の親友なのに。
 悪魔なのに味方とは笑わせる。正義を騙ることもしないのに。
 欲望に忠実なのに、なにが、永遠に君の味方だ。
「…………バカな事……言ってんなよな……」

 そう、バカな口説き文句だ。
 なのに……――――

「……何で俺……また、泣いてるんだろうな」
 涙腺が誤作動でも起こしてしまったのか。
 怒る場面のはずだろうに、怒れない。男にそんな事を言われて嬉しくないといいたいのに、口は思い通りに動いてくれない。それどころか、感情は休まって、勝手に口は震えていた。
 嬉しくない、はずなのに。
「徴矢、泣いてよ。泣いて、僕に縋って、僕だけを信用してよ。……そうしたら、僕は裏切らない。君が望むなら、一生傍にいるから。一生、離れないから……」
「……よく、そんなこと……いえる……」
 どうせこの事件が終われば強制送還だ。どの口がそんな事を言うのだろうか。
 だが、吐き出した言葉は自分でも信じられないほど弱々しく、まるでその庇護を求めているようで。
 もう一度優しく口付けるセオを、徴矢はいつの間にか縋るような目で見つめていた。
 頬を伝う涙を、セオは嬉しそうにぺろりと舐め取る。
「言うよ。……僕は、徴矢が大事だから」
「エサだからだろ……」
「うん。だけど、それだけじゃない。愛してるから」
「…………っ」
 どうして、真っ直ぐにそんな事を言うんだ。
 舐められた場所がヒリヒリと痛い。熱がある。
 涙腺が緩んだせいで真っ赤になった顔が、更に熱くなったように感じた。
「僕は、徴矢が、徴矢の全部が大事だ。涙一粒だって誰のためにも流させたくない。僕だけの為に流して欲しい。そのくらい、大事だよ。だから、いつも憂いなく笑っていて欲しい。……だから、徴矢が望むなら、僕は何だってしてあげる。徴矢以外なんて、もう死んでもいい。徴矢を侵す悪意が世界なら、僕は世界を殺す。徴矢が笑ってくれるなら、喜んで僕は死ぬ。そのくらい、大事なんだよ……徴矢」
「……セオ……」
 真剣で嘘の無い美しい翠の瞳が、自分をしっかりと捕らえている。
 涙でぐしゃぐしゃになって情けない顔の自分を、ゆらゆらと瞳の中に映している。
 それ以外、なにもセオには見えていない。
 ただ、自分のためだけに、その瞳は向けられていた。
「勿論、僕が死ぬ時は君も連れて行くけど、ね。誰にも渡さないために」
 言いながら、セオは微笑んでウインクをする。
「…………超、身勝手」
 自分が死ぬと言ったくせに、結局は道連れか。死ぬのを望んでいなかったらどうするつもりだ。
 とんだパラドックスだ、と思ったが――――
 徴矢の顔は、何故か笑っていた。
「そうそう、その調子だよ」
「調子付くな、バカ悪魔」
「ふふっ……はーい」
 いつも通りの気持ち悪い含み笑いで、またセオは徴矢にキスをして抱きしめる。
 その暖かさと抱き締められる言い知れぬ快い気持ちに、徴矢は大きく息を吸った。
「ねえ、徴矢」
 不意に、セオの声が真剣なものに戻った。
「僕は悪魔だから信用できないと思ってても、この言葉だけは本当だと思ってて。……悪魔は、自分から誓ったことは必ず守り通す。どの悪魔にも宣言した弱点があるように、僕も弱点を宣言する」
「……?」
 言っている意味が解らない。
 顔を上げて相手を窺うが、セオは真剣な顔でどこか遠くを見たままだった。
「だから、僕は、大切な君に……僕の弱点を明かす。そうすることで、君は僕の弱点になり……僕は、必ず君にずっと目を向けていることになるから。」
「セオ……!?」
 悪魔が弱点をばらす。
 それは唯一にして絶対の失態ではないのか。
 自分がそれをばらしてしまえばセオは最悪死んでしまうことになる。最早不老不死なんておどけることも出来ないだろう。徴矢だって、それをばらされて自分が永遠に黙っていられるなんて考えられない。それを理解した上で、徴矢に弱点を言おうと言うのか。
 ただ、徴矢の信頼を得る為に。
 思わず相手の服を握り締めたが、セオは顔を変えず徴矢に顔を向けて、ただこちらを見つめていた。
 そして、口を開く。
「僕の弱点は、目。ただし、目を潰しただけでは死ねない。心臓の裏側にある第三の目を握りつぶし、その上でこの二つの目を消滅させること。……それで、僕は死ぬ」
「セオ!!」
 言うな、と口を塞ぐがもう遅い。
 震える徴矢の手をゆっくりと引き剥がして、セオは徴矢の頬にその手をまた添えた。
「今試してくれてもいい。……僕は、徴矢のためなら喜んで死ぬよ」
「ば、か……!」
 何を言っているんだ、この三一悪魔は。
 たかが人間一人の為に、そこまで言うなんて考えられない。
 嘘ならばまだ気休めにもなろうが、徴矢にはセオが嘘を言っているようには見えなかった。
 その宝石のような目は、揺るがない。それだけのことで今の言葉が真実なんて解るはずも無いのに、何故かはっきりと解った。何故かなんて、もうどうでもいい。
 セオは、本当に、今殺されてもいいと思っている。
 徴矢が自分を本当に信頼してくれるのなら、と。
「…………俺は……その本気を……信じていいのか?」
 言葉がぽろりとこぼれ落ちる。
 セオは微笑んで、頷いた。
「例えこの世界中の人間と悪魔が全てが混沌としていても……僕だけは、君の為に、君の前でだけは正直で居続けよう。君が僕に笑いかけてくれるなら。……徴矢。僕の恋は……そういう恋だ」
 弱りきったものには、正直に、はっきりと理解されるように伝えなければ伝わらない。
 ああ、自分は今、弱りきっていたのか。
「俺が、その気持ちに答えられなかったとしても……お前は、俺に正直でいて、いつも傍にいると言うのか」
「そういう恋なんだよ、徴矢。……僕だって、こんなこと言ってる自分が信じられないけど」
 自嘲気味の声音が、真実味を増す。
 常に、言葉という媒体は嘘なのか本当なのか計りかねる。それが自分の言葉であっても。
 だが。
(信じなければ……本当の言葉すら、嘘になる)
 信じて良いのだろうか。この悪魔を。
 そうは思ったが、もう徴矢に迷いは無かった。
「……セオ」
「うん?」
 安らかに微笑んだまま、セオは徴矢を見つめる。
 徴矢は少しひりつく目を細めて、微かにその笑顔に笑みを返した。
「嘘なら、嘘でいい。…………でも、今は……信じる。……お前の言葉を……真実にして、いいか?」
「いいよ。例え叶わぬ恋でも、僕が今言ったことは僕の中では変わらないから」
「……うん」
 悪魔の吐く台詞など、一言一句信用出来ない。そのはずだった。
 けれど今は、そんな言葉など忘れてしまったかのようにすんなりセオを信用してしまっている。
 心が弱っているからでは無い。
 きっと、これは。
(…………俺は、普通だったはず……なんだけどな)
 もう一度抱き寄せられて相手の体温を感じながら、徴矢は悪魔を信用すると決めた自分を嗤う。
 だが、不思議と全てが安らかだった。
「……バカは、俺のほうかもな」
「?」
「逃げ道が出来た途端、また信じようとか思ってるんだから……心底救えん」
 今までの幸せだった絆が消えていく事が、辛かった。
 もう二度とああして暮らすことが出来ないのかと思うと、ただ悲しかった。
 賢吾とバカを言い合って、大好きなものを語り合って、新しく仲間になった黒髪と、更に時間を忘れてずっとずっと、大好きな物を大好きな人たちと笑顔で語り合う。
 ――――徴矢にとって、その日常が一番大事な宝物だった。
 だからセオが現れた時、あれほどまでに自分の不幸を恨んだ。冷静な振りをして、ずっと自分のわがままを通して、二度と誰とも真実の自分を語れなくなることを恐れた。
 徴矢にとって、今こそが、失いたくない“幸せ”だったのだ。
 だから、早くセオを追い出したかった。誰一人同類の友達を失いたくなかった。
 何もかもを、手放したくなかった。
 けれど、今日それらには全て罅が入り、崩れ落ちて。
 最早どうにもならないと心の中は絶望が渦巻いて、もう何も信じることが出来なくなってきていた。親友の賢吾への信頼でさえ、相手の見たことのない顔を目の当たりにして、揺らいでいた。
 なのに、悪魔の言葉一つで、自分はまた信じる気力を取り戻している。
 まるで現金な人間のように、裏切りかけた友情を手の平返しで取り戻そうとしていた。
 たった一つ、信用出来ない小さな逃げ道が出来たくらいで。
 ……なんだか、癪だ。
 また素直になれなくなって悪態が口をつくが、セオは気にせず微笑んでいた。
「徴矢…………、……?」
 ふと、その嬉しそうなセオの呼び声が歪む。
 何事かと顔を上げると、相手は何か怪訝そうに周囲を探っていた。
「どうした?」
「…………気配がする」
 低く潜めたその声に、慌ててセオから離れて周囲を伺う。が、人の気配は無い。
「気配って、何のだよ」
「ラルヴァ」
「……!!」
 瞠目する徴矢に構わず、セオは立ち上がって壁に囲まれた周囲をぐるりと見やる。
 猫の様に細められた瞳孔が、見えない何かを探っているようで悪寒が走った。
 この目を見たのは二度目だ。角よりも確かな悪魔の証ともいえる、人間ではありえない現象。それを思うとやはり種族が違うのだと感じたが、今はそれどころでは無い。
 徴矢も立ち上がると、セオの索敵を待った。
「……近い! 徴矢行こう! ラルヴァが具現化してる、誰かが襲われてるんだ!」
「なっ……! わ、解った!!」
 三度目の具現化、それは即ち、殺人を意味する。
 最早戸惑っている暇すらない。
 路地裏から抜け出て、いつの間にか術をかけて誘導するセオと走りながら、徴矢は顔を歪めた。
(頼むから……もう誰も、傷つけるな!!)
 どちらであろうと、もう誰も傷つけて欲しくない。罪を重ねて欲しくない。
 もう、二人があのような顔をするところなど見たくない。
 もう、友達が知らずに傷ついていくのは、嫌だ。
(賢吾……黒髪……!!)
「近いよ、徴矢!! 危険だから僕の後ろに隠れて!」
 曲がり角に差し掛かって、セオが術を解いた。
 落ちかける陽の光を浴びて姿が輝く。黒い翼の背に隠されながらも、徴矢は速度を落とす事無く角を曲がった。ばさり、と黒い羽根が風に舞い落ちる。
 刹那。
「なっ……ケンゴ、くん……っ!?」
「……え?」
 驚愕したセオの声に、徴矢は目を見開いた。
 音が、何か、何かを刺して勢い欲引き抜くような音が、セオの翼の向こう側から聞こえる。
「徴矢、下がって!」
 どん、と誰も自分に触れていないのに後ろに押し戻された。
 怯んで体を折り曲げたが、すぐに視界を元に戻す。
「っ……なっ……」
 無数の黒い鞭のような物が、セオに向かって撓っている。だがセオには一打ちも当たっていない。薄緑色のバリヤーのようなものでそれらを必死に撃退していた。
 もしかしてこれが“爪”なのか。
「で、でも……賢吾って……」
 これが賢吾だなんて、信じられない。本体では無いのだろうか。
 思わず賢吾を探して徴矢は一歩足を踏み出していた。
「来るな、徴矢ァッ!!」
「っ!」
 鋭い声が諌める。反射的に見やったセオは、牙をむき出して必死の形相でこちらを見ていた。
 踏み出そうとしている足が、退く。
 瞬間、セオを攻撃していた爪が止まった。
「何……?!」
「スミ……ヤ……?」
 低い声を何重にも重ねたような恐ろしい声音が、爪から響いてくる。
 実体の解らない敵に顔を顰めていると、爪の一つからぎょろりと目が這い出てきた。無意識に後退るが、目はしっかりと自分を捉えて動かない。
 赤く、そのくせ瞳孔は真っ黒な気味の悪い目が、徴矢を見回し、ぐるりと回る。
「オ……オォオ……ォオオオォオ!!!」
「なっ……?」
 爪がゆらゆらと揺れて、動揺したように蠢く。
 セオは相手が何か仕掛けてくるのかと地を踏みしめて爪を睨みつけたが、爪はそれ以上動かなかった。それ所か、何かを恐れるように津波の如く引き始める。
「何で……」
 徴矢が呟くのも聞かず、爪はぐるぐると己を巻きあい犇き、竜巻のように音を立て吹き上がって――――やがて、消えた。
「消えた……?! そんな……」
 正体もわからなかったが、爪はもう襲っては来ないのだろうか。驚くセオの声を聞きながら、徴矢は恐る恐る退いた足を踏み出した。周囲を見回してみるが、やはりやばそうな気配は無い。
 一応いつでも逃げられるように警戒しつつ、セオに歩み寄った。
「逃げられたのか?」
「うん……でも、何で……」
 言いつつ指を顎に当てて悩むセオ。
 自分も考えようかと思ったが、今はそれよりも気になることがあって、徴矢はセオの体越しに敵がいた向こう側を見やった。今まで焦っていて気付かなかったが、この道はいつも通る道だ。
 記憶に間違いが無いなら、何の変哲もない道だったろう。
 だが、覗き込んだ向こう側は、徴矢の記憶とは全く違う光景を映し出していた。
「……なんだよ……これ……」
 家の塀、道路、電柱。
 いたる所に、何者かが深く抉ったような傷跡が付いている。――そう、まるで、さっきの鞭のような無数の爪が、抉ったような。
 ぞっとして、徴矢はセオの黒衣を無意識に握り締めた。
 もしこんな酷い攻撃を人間が受けてしまったら、大怪我だけじゃすまない。それこそ、あの第二の被害者のように瀕死の重傷を負ってしまう。
 考えて、徴矢はある事に気付いた。
「な、なあセオ……さっき賢吾って言ったよな、なあ?」
「…………」
 セオは答えない。
 もしかして、さっきの爪が賢吾だったのだろうか?
 そんなバカなともう一度見て、徴矢はもう一つの異変に気付いた。
 電柱の陰。
 一瞬影かと思ったが、じわりと広がっていくその影に徴矢は瞠目した。
 あれは――――影じゃない。
「血……だ……」
 まさか。
 思わず駆け寄り、電柱の影にいる“それ”と対峙する。それは、力なく壁に背中を預け、もはや息も荒く尽き果てようとしていた。
「あ……ああ…………」
 血に塗れて、表情が解らない。
 栗色の髪もどす黒くくすんで、もう元の色じゃない。
 いつも活発に動いているはずの体は、傷だらけでまるで人形のように動かない。
 声すら、もう、聞こえない。
「けん、ご…………」
 やっと呟いた相手の名前に、荒い息を繰り返したそれは、ゆっくりと目を開けた。
「…………スミ……、……あ、はは…………たすか、った」
「あ……うあ、あ……賢、吾……」
 掠れて、血に塗れて、声になるかも怪しくなってしまった、声。
 親友の、声。
「あ……あああ……」
 ゆっくりと開かれた目が、また、閉じる。

「あ……あ゙……!! うあ゙ぁああ゙あ゙ぁああああああ!!!」

 膝から崩れ落ちて、徴矢は、狂ったように叫んだ。













    

   





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後書的なもの
 
どんどんシリアスになっていく恐ろしいシリアススパイラル。
 後半は持ち直しても大体シリアスっぽいので毛色が違いすぎてびっくりです
 それはともかく、徴矢とセオに決定的変化が訪れました。
 悪魔が信じられないと言うのは仕方ないことだと思いますがそれをいうなら
 ……ってな話なワケで。
 伏線全部を昇華するのは今回では無理ですが、大部分は使い切りなので
 こっからそれら全部回収して行きたいと思います。



2010/03/26...       

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