十五回目










「徴矢、僕がいるから安心しててね」
「……喧しい、生態系部外者」
 講義室のドアをこれほどまでに緊張して押そうとしたのは、いつ以来だろうか。
 入学式の時か、遅刻して注目を集めるの覚悟でドアを開いた事か。
 しかし今の緊張は、それらと比べる事すら馬鹿馬鹿しいと思うほど酷い物だった。何が原因かはもう昨日嫌というほど思い知ったし、凄く癪ではあるが、この背中にぴたりと張り付いている悪魔に慰められもして、克服した。凄く癪だが。――兎に角、だから、最早己の心を詮索する気はない。
 今必要なのは、胆力と勇気だ。
(賢吾が取り憑かれているとしても、そうじゃないとしても……俺には賢吾を信じて、最後まで親友として助けてやる事が大事なんだ。俺はアイツがシロだって信じたいけど、もしもの時に耐えることも覚悟しなきゃいけない。……賢吾を見捨てるような真似だけは……絶対に、しない)
 想像しているこれからの事態から逃げる事は、見捨てる事と同意義になる。
 最悪の事態を想像して対面して尚、自分は賢吾と向かい合い、彼に出来る彼の望む事をしてやらなければならない。胆力と勇気とは、そういうことだ。
 何があっても、相手から逃げず、相手が自分を手放す最後まで親友でいる。
 それが、今の徴矢に誇示出来る賢吾への精一杯の親友としての証だった。
(…………大丈夫。俺には、一応サポートがいる。……何だって、やってやる)
 むかつくが、凄く、物凄く認めたくないが、セオは頼りになる。
 高々10年そこらしか生きていない若輩者の徴矢より、セオはずっと大人だ。最低ランクの性格だろうと、この悪魔は信頼できる所も人を慰めるような心も持っている。
 悪魔のくせに、悪魔らしくない。
 そう思うくらい、純粋で慈しみを籠めた感情さえ持ち合わせていた。
 それにこの悪魔は、昨日徴矢が言い出すまで一切食事をせず、ずっと抱いていてくれたのだ。
 いつもなら腹が減ったと煩く言い、人のことなどお構い無しに押し倒してきたのに。
 我慢できよう筈もない空腹を抑えて。
 ――人間の徴矢ですら、人間最大の欲求を抑えて慈しみを持つなんて、難しいというのに。
(……あの時の初恋暴露事件もあるし、全部信用した……わけじゃない。でも…………)
 また信じ始めている自分がいる。この、真実がどこにあるか解らない存在を。
 悪魔を信じても、救われることなど一つもないと言うのに。
「徴矢?」
「あ、ああ、急かすな。……行くぞ」
 大きく息を吸って、徴矢は意を決してドアをあける。
 と、刹那、昨日よりも大きなざわめきが耳に飛び込んできた。
 驚いて中へ入ると、様子は昨日と同じく騒がしく、やはり皆一様に肩を寄せ合って熱心に何かを話し合っていた。見渡しても、誰もこちらに目を止めもしない。
 嫌な予感がして、徴矢はセオと顔を見合わせると慌てていつもの席へと足を進めた。
 空いた自分の特等席。その横に、いつものように賢吾と黒髪が居る。一瞬顔を歪めそうになったが、必死に制して徴矢は大股で階段を上がった。
 賢吾達の顔が近付く。
 やはり昨日のように何かがおかしい。が、徴矢はそこで違和感を覚えた。
(…………あれ……? 黒髪……?)
 昨日までは怯えきっていた黒髪が、平然としている。
 まるで何事も無いかのように、無表情で携帯をいじっていた。
 対する賢吾は所在無げに机の木目を目で追っている。喧嘩でもしたのかと思ったが、賢吾の様子をよく見てそれは違うと確信した。本気で怒っているのなら、賢吾はそっぽを向いて空を睨んでいるはず。謝りたいと思っているなら、ちらちらと黒髪を見ているはずだ。
 解り易いハイテンション。それが、賢吾の特徴。
 賢吾が正気であるなら、その特徴から逸脱した行動を取る事なんて、絶対に無い。
 徴矢は席にカバンを置いて静かに座ると、ちらりとこちらをみた賢吾に問いかけた。
「なあ、何かあったのか?」
「う、うん…………」
「……?」
 いつもなら「それがさそれがさっ!!」と飛びついて話して来る賢吾が、口を噤んだ。
 いよいよもってこれはおかしい。
 片眉を顰めた徴矢に、耳元でセオが囁く。
「ケンゴ君ってこんなに静かだったっけ……?」
 さもありなん、と小さく首を傾げて返事をしてやる。
 早く賢吾が黒か白かを見極めたいが、これでは先にこちらが気になって話しにならない。
 賢吾が意識を別に持って行ったのを確認して、徴矢はそっぽを向く振りをしてセオに小さく呟いた。
(で、どうするんだ)
 相手も唸って首を傾げる。
「うーん……残り香はするけど、やっぱり断定は出来ないよ。結局残り香っていうのはただの痕跡だからね。時間が経てば薄まってしまうし、平川君のように、憑かれた人間に近しい者なら誰に付いててもおかしくないモノだし……ほら、そういう意味じゃ今なら黒髪君だって徴矢だってたっぷりついてるし……」
 セオが黒髪を指さして、徴矢も不意に指につられて黒髪に顔を動かす。と、黒髪がこちらを向いた。
「また、通り魔がでたんだって」
「え!?」
 唐突に黒髪が呟いた。
 だが表情は冷静で、こちらに目をくれもせず相変わらず携帯を弄っている。
 驚きに目を見開く徴矢に、黒髪は続けた。
「またアイツらの仲間だって話だよ。今度も入院してるんだって。なんか怨恨とかで仲間割れでも起きてるんじゃないかって警察が話してた」
 まるで何事も無いかのようにいつもの口調ですらすらと現状を説明し、目線はずっと画面を見ている。言い知れない違和感を感じて眉間に皺を刻んでいると、気配を見計らったかのように黒髪はふと顔を上げた。
「あれ、どうしたの愛宕?」
 いつもの黒髪だ。
 だが、それが今はおかしい。
 ぞわぞわと背中を舐める冷たさに身動きできず固まっていたが、それを振り払って徴矢は問うた。
「どうしたのって……お前こそ……昨日はあんなに……」
 怖がっていたじゃないか、なのにどうした。と言い切れず口を半開きにしていると、あろうことか相手は笑った。この、昨日と同じ、いや昨日以上に深刻であるこの状況で。
「ああ。いや、だってさ、この事件って内輪もめなんだろ? だったら俺には被害は無いんじゃないかって思ってさ。それに死人も出てないし、もう……当分は俺も安全なのかなって思ったら、何だかほっとしちゃって。不謹慎だとは思うだろうケドさ」
「……そ、そう……か……」
 言っていることは理解できる。黒髪にとっての一番の脅威は、事件の犯人ではなく襲われた者達だった。だから当分己の身に不幸が降りかからないと確信できたなら、安心したくもなるだろう。それに黒髪は彼らに友情などを感じているとは言えない。昔なら「なんだその態度は」とでも叱り飛ばされるだろうが、今の時代はこのくらいドライだ。
 他人と自分のボーダーラインが広く太くなってしまった現代なら、関わりのないものや関わりたくないものは遮断して、己は事も無しと平然とするくらい普通である。
 普通、だが……。
(黒髪……お前って、そんな奴だったか?)
 罵られようと、財布呼ばわりされようと、必死に外の世界にしがみ付いて耐えてきた人間が、こうも手放しに喜び、例え一瞬としても心を通わせようとした相手を切り離し、自分は関係ないのだと無表情を決め込んでいられるのだろうか。
 黒髪は、そんな人間だっただろうか。
(でも……賢吾のことですら見破れなかった俺には、それを違うとは言い切れん……)
 人間は、千の顔を持つ。決して今表面に出ているそれが唯一の真実とは限らない。
 それに徴矢と黒髪は何年も一緒にいたという関係でもない。
 たかだか数週間の付き合いで全てを知る事が出来るわけが無いのだ。
 何年も親友と言い合ってきた賢吾のことですら、全てを知る事が出来なかったのだから。
(そう、賢吾のことも全て知る事は出来ない。賢吾や黒髪にだって俺のこの今の状況を悟る事は出来ない。……でも、だから……ああ、クソッ……!)
 肥大し始めた汚らしい疑念が増殖していく。
 賢吾を信じると決めたはずの心は、その疑念に呑み込まれそうになっていた。
(最低だ、俺は……!)
 賢吾を、更には黒髪を疑い始めるなんて、正気の沙汰じゃない。
 思わず顔を伏せて歪み始めた顔を抑える。
「愛宕?」
「スミ、どうした?」
「……いや……ちょっと、寝不足で、な……」
 大嘘だ。実際は六時間くらいはきちんと眠った。
 自分だってこうして嘘を平気で吐いている。誰もそれを疑わない。賢吾と黒髪は納得して自分を心配してくる。いつもの二人だ。だが、それは彼らの全ての姿ではない。
 勿論、今の自分だって、自分ではあるがそれが全ての姿ではない。
 全てがただの一部で、そして嘘か真かも解らない混沌とした渦の中のほんの一部分。
 己も、目の前の二人も、全て。
(本当に気持ち悪くなってきた……こういうの、なんて言えばいいんだ……?)
 漫画なら背景が歪んでぐらぐらとしている事だろう。
 耳を揉んで先程から心配している二人の声を聞こうとするが、何だか気が遠くなって声のボリュームが小さくなって行く気がした。なんだ、これではまるで本当に寝不足みたいではないか。
 眉をグッと顰めて頭をぐらぐらと揺らす不快感に耐えてみるが、存外攻撃が激しく気持ち悪さは消滅しない。項垂れているのが悪いのだろうか、と、徴矢は一度ぐっと体に力を籠めて起き上がった。
「スミ、本当に大丈夫か? 医務室に行った方が……」
「いや、うん……平気だ。っつーかもうそろそろ単位やばいし、今回は私頑張る」
 適当な言葉がいつも通り口をつくが、徴矢の顔を見やって賢吾は眉をハの字に寄せた。
「おま……顔真っ青じゃん! 大丈夫じゃねーって、ぶっ倒れるぞ! いいから医務室行こう、な!」
「く、熊先生……」
「こんな時に台詞に突っ込むなよ!」
 いつになく真剣な賢吾に、ああいつもの賢吾だなと的外れな事を思いながら、徴矢はもう何だか笑うしか出来なくなって気力のない笑みで返す。がしかしそれが更に賢吾を心配にさせたのか、相手は徴矢の肩を掴んで引き上げた。力が入らないお陰で操り人形のように簡単に立たされる。
「もー何が何だって言われても連れてくからな! 黒髪、お前徴矢の分だけで良いから出席ごまかしといてくれ」
「あ、なら僕が愛宕を連れて行くよ。賢吾だって単位がどうとか……」
 黒髪の心配そうな声だけが聞こえてくるが、なんだか目の前が霞んで黒髪がどんな表情をしているのか解らない。間近にあるはずの賢吾の表情の認識すら怪しかった。
 だが、賢吾はそんな徴矢をお構い無しに強引に肩を上げさせて抱え上げると、黒髪を振り向いた。
「いいから、俺が連れてくっつってんだろ! じゃあ頼んだぞ!!」
「……っ」
「賢吾……?」
 賢吾の声が、鋭い。まるで怒鳴ったようだ。
 徴矢は朧な意識の中で不可解だと眉を顰めて、間近に有る賢吾の横顔を見つめた。
 こんな声滅多に聞いた事が無い。例え喧嘩をした時にだって、本気の時以外はこんな怒鳴り声なんて賢吾は出さなかった。それが、怒ってもいないのに、今聞こえた。
 段々重くなってくる目蓋を必死で開けながら歩き出した賢吾を見やる。
「……徴矢……後で大事な話があるんだ。っつっても聞いちゃいないと思うけど、後でもっかい言うから、聞いてくれよな」
「…………、ぅ」
 講義室のドアを開く音がする。
 黒髪はどうしたのだろうか。
 だが、今はどうしても意識が霞んできて何も理解できなくなっていた。
「……徴矢……」
 ふっと、霞がかった意識の中で、はっきりと入り込んでくる優しい声。
(…………ああ、セオか)
 何もはっきりと認識できない。
 そのはずなのに、ただ唯一、自分の頭を優しく撫でてくれる心配そうな悪魔の声だけは、しっかりと耳に届いていた。







 ――――鐘の音が聞こえる。
 これは始業のベルか、終業のベルか。
 音に導かれて目を開けると、今度は空間を認識するより先に頭を優しく撫でられている感覚が現れた。思わず目を閉じそうになるが、寝てる場合ではない。何かと人のいそうな方へ目を向けると、そこにはオレンジに近い金の髪を微かに風に揺らす悪魔が微笑んでいた。
 まだ半透明なのに、どうしてか色味がはっきりと付いているように見える。
 微笑むその瞳すら、いつもの綺麗な翠の目に見えるようだった。
「……セオ……」
 誰かに聞かれないように小さな声で名を呼ぶと、一層相手は嬉しそうに微笑む。
「良かった、気が付いたんだね徴矢」
「……どのくらい俺は寝てたんだ?」
 段々ハッキリしてきた頭で状況を理解しつつ問うと、セオは空に目を走らせてから答える。
「えーと……二時間くらいかな。ああ、あと医務室の人が栄養剤を注射してくれたらしいよ。だから今日は心配要らないって」
「へえ……つか、なんで栄養剤?」
「それが……」
 言って、申し訳なさそうに肩を竦めるセオに片眉を顰めていると、ドアの開く音がした。
 先生が戻ってきたのだろうか。
「栄養失調とストレス、ですか?」
(あ……この声賢吾だ)
 カーテンで遮られているから外の様子は解らないが、声は確かに賢吾だ。
 問いかけに遅れて聞こえてきた足音の主がそれに答える。
「そう、絶対ってわけじゃないけど、私の見立てではそう見えたわね」
 少し歳を感じさせる低い女性の声。これは医務室勤務の医師だろう。何度かお世話になったことがあるから間違いない。徴矢は聞き耳を立てた。
「でも、スミは学食も普通に食べてましたよ? コンビニでお菓子も買ってたし」
「多分、それ以上に栄養を失ったか、それともそれだけじゃ愛宕君は栄養が足らなかったか、でしょうね。私にも理解できないけど、それくらいカロリーを消費する運動でもしたんじゃないかしら」
 医師なのに適当な事を言う、と思ったが、思い当たる節があって徴矢は顔を歪めた。
 カロリーを多大に消費する、行為。
 赤くなったり青くなったりしながらセオをちらりと見ると、セオは頭を掻いてごめんと呟いた。
 ああ、原因はこれか。
 確かに最近一日に二回、もしくはそれ以上という普段以上のペースで例のことをさせられていた。その上夜には色々な場所を探し回り、昨日は昨日で平川の関係者を虱潰しに当たり、休む暇など一日も無かった。よく考えたら、大学生活で鈍りきった体をあれほど動かせばそうなるだろう。
 食事もいつも通りの質素でジャンクなものが多かったから、栄養が損なわれるのは尚更だ。
 セオを責める気は無いが(そこまで事を急いだのは自分のせいでもあるし)、やはり原因はこの悪魔かと思うとむかっ腹が立った。気力があったなら今すぐこの美形面を殴り飛ばして餡麺麭マンにしてやるところだ。
「……ごめんね、徴矢。やっぱり負担だったよね」
「…………」
 やっていることはむかつくのに、この素直さだけは憎めない。
(クソ……そんな普通に謝られたら、何も言えんだろうが)
 栄養失調の最たる原因は、セオの食事だ。だがこれを止めるということは出来ない。それはセオが不必要に飢えてしまうし、自分の身にも危険が及ぶからだ。
 なにより、認めたくは無いがこの悪魔には少々借りがある。だからこうして素直に謝られると、セオを追い詰めている気がしてどうにも何か言うことが出来なかった。
 いつものおちゃらけた調子の相手なら、遠慮なく罵倒してやるのに。
 徴矢はやり場の無い怒りをシーツを握り締めて追いやった。
「まあそれは後で本人に聞きます。……で、ストレスって?」
「うーん、精神的な方かもね。何かよっぽど気に病むことでもあったんじゃないかしら」
「……そうですか……」
 医師の言葉にどきりとして、誰も見ていないのに思わず目を逸らす。
 そんな徴矢に、セオは心配そうな顔のままで手を額へと滑らせた。
 冷たくて心地いい大きな手のひらに、少しだけ心が鎮まる。
「……徴矢、今は目を閉じて、寝てよう?」
(…………セオ)
 ゆっくりと相手を見返すと、セオはまた嬉しそうに笑う。
 何の心配事も無い、とでも言いたげな、優しい笑顔。悪魔のくせに一つも悪魔らしくない表情。
 もしや自分を騙すための笑顔ではないかと思わず勘繰ってしまうほどの表情に、徴矢は暫し捕われて小さく頷きを返した。例え騙すための笑顔でも、この悪魔は今だけは自分を裏切らない。
 何故か、そう確信できていた。
「私、ちょっと午後から用事があるから、医務室が無人になっちゃうんだけど……どうする?」
「俺午後まで講義ないんで、ここにいます」
「そう、じゃあ鍵を預けて他の先生に言っておくから、お願いね」
 賢吾がはいと言うと、少し時間を置いて医師は部屋から出て行った。
(……賢吾……お前午前中にもう一つ講義あったろ……)
 けれど、それを言わずに嘘をついてまで自分を心配してここにいてくれるつもりらしい。
(ああ、やっぱり……ダメだ。……俺、やっぱり賢吾を信じたい)
 賢吾は賢吾だ。それ以上でもそれ以下でもない。今ここにいてくれる賢吾を疑わなければならないと言うのなら、悪霊退治なんてくそくらえだ。
 それが正しいと早く納得したい。
(じゃあ、そのためには……早く起き上がって続けなきゃな……)
「あっ徴矢、ゆっくりと起きなくちゃダメだよ」
 起き上がろうとすると、セオが背とベッドの隙間に手を差し込んで徴矢を補助する。
 なんだかいつも以上に優男っぽくて気持ちが悪い。
 とは思いつつも実際起き上がるのもきつかったので補助してもらっていると、またベルが鳴った。
 どうやら今から講義が始まるらしい。
(多分、今から俺らの講義だろうな……)
 ぼんやりそう思っていると、扉が開く音がした。
「黒髪」
 賢吾の驚いた声に振り向くが、仕切りの向こう側の黒髪は声を出さない。
 不思議に思っていると、賢吾が立ち上がる音が聞こえた。
「お前……何怒ってんの?」
(怒ってる?)
 賢吾の怪訝そうな声に黒髪の表情はわかったが、何故怒っているのかは解らない。
 そっと体を動かしてベッドから足を下ろした所で、ようやく相手は喋った。
「ちょっと外、出ない? 愛宕には聞かせたくないし」
「……いいけど」
 言うなり、不機嫌な声の二人は出て行ってしまった。
「どうしたんだろう二人とも……なんかいつもと違って恐い声だったね」
 これにはセオも不思議がっている。
 徴矢も真実が見えないと顔を歪めて、首を傾げた。
「あいつら……何があったんだ?」
 あれほど仲が良かったのに、今日に限ってなぜあれほど仲が悪そうなのか。いつもなら、徴矢が思わず嫉妬したくなるほど二人で熱く魔子ちゃんの魅力について語っているのに。
 言い知れぬ不安を感じて、徴矢は急いで靴を履くと上着を羽織ってカーテンを潜った。
 何処で話しているのだろうか、と扉を開けようとして、外から声が漏れているのに気付く。
「扉のすぐ近くにいるみたいだね。……そうだ、そこのドアから覗けるんじゃないかな?」
 セオに言われて左を向くと、すりガラスの窓が嵌められていた。
 そっと近付き窓に鍵がかかっていない事を確認すると、徴矢は音を立てないように窓をほんの少しだけ開けて外を覗いてみた。
 正面に二人はいない。
 右に目を動かして、徴矢は口を開きそうになって慌てて手で塞いだ。
「だからさ、なんで賢吾はそうやって俺を遠ざけるの?」
「遠ざけてないよ。俺はただ、あん時は徴矢が超弱ってたからつい慌ててて……」
「それでもおかしいじゃない、何で怒鳴ったの? いつもならあわわーって慌ててるだろ、賢吾なら。なのになんで今日に限って俺を遠ざけたの?」
「だから……!」
 苛立ちを抑えてはいるが、身振り手振りが抑えられていない賢吾の背中と――
 憎悪を示している、黒髪の顔。
「あの二人……なんで?」
 悪魔ですら驚いたのか目を見開いているが、徴矢も人のことを言えぬほど瞠目して、声を出しそうになる口を抑えて頬に爪を立てていた。
 どういうことかと考えたいのに、思考が、止まってしまう。
 だがその間にも二人の口論は熱を増して行った。
「ねえ、もしかして賢吾は、俺が賢吾より愛宕と仲良くなるのが嫌なの?」
「は……はぁ!?」
 にやりと笑いながら得意げに言い放つ黒髪に、賢吾がオーバーアクションで「なんだそれ」と動く。徴矢も無意識に顔を歪めていたが、黒髪は賢吾を睨みつけたまま、それが真実とでも言いたげに続けた。
「そうだよね、俺は最近友達になったばっかだし、お前と愛宕みたいに長年付き合ってたわけじゃないもんな。だから、俺が愛宕と沢山話してお前より仲良くなるのが恐いんだ」
 黒髪のその言葉に賢吾は絶句する。
「お、まえ……アホだろ!? なんでそういうことになるんだよっ!」
 反論になっていない言葉を返すが、黒髪には全く効果は無い。
 それ所かそれが新たな火種となってしまったのか、黒髪は更に激昂した。
「そういうことだよ! ずっと一緒にいてくれる奴を取られて、そんで一人になるのがいやだったんだろ! だから俺に必要以上に接近して、適当な話で撒いて結局俺は蚊帳の外にする気だったんだろ!!」
「だっ……もうっ……!! だから、そんなこと考えてねえって、お前おかしいよ! いい加減にしろ、言っていい事と悪い事があるだろうが!!」
 怒鳴り声が、耳を欹てないでも聞こえてくるようになる。
 徴矢は言い知れぬ焦燥感に顔を歪めてセオに無言の訴えを示した。
 こういう時、どうしたらいいのだろう。
 だがセオもこういう事態は初めてなのか、顔を見合わせて来て困り顔で首を振るばかりだ。
 このままでは、殴り合いになりかねない。
(俺にとっちゃどっちも友達だよ! ああっつうか何でこう変な事になってんだよ!?)
 ただの友達にここまで熱愛されても困るし、第一なんだか黒髪は誤解しているようだ。賢吾は賢吾なりに黒髪を慮ってやっていたのだろうし、他意はないはず。
 けれどだからといって黒髪を責めることも出来ない。
 黒髪は今まで自分達のような友達を作ってこなかった。
 だから、付き合い方も解らず、色々ショッキングな事もあってか混乱しているに違いない。
 もしかしたら、あの時無表情だったのは、ショックが大きすぎたからなのかもしれないのだ。
(ああ、そうだよ……! 黒髪が一番ショックなんだ……なのに俺は情けなくぶっ倒れて……)
 未だに二人は言い合っている。このままでは本当に殴りあいになってしまうかもしれない。
 徴矢は意を決すと、立ち上がってドアの前に立った。
「行くの?」
 セオの問いかけに頷きながら、徴矢は大きく息を吸って、思い切りドアを開けた。
「お前らやめろ!!」
「徴矢!?」
「愛宕!」
 互い違いに苗字と名前を言ってくれる二人にひくりと口の端が引きつったが、構わず二人の間に割り入って黒髪と賢吾の両方を目で諌める。
「お前ら医務室の前でなに熱くなってんだ」
 努めて冷静な声で言うと、賢吾が訴えてきた。
「だって……! 黒髪が、俺が徴矢を独り占めしてるとかワケわかんないコト言って、俺の話聞こうとしないから!」
「だってそうじゃないか!」
「ああもう喧しい!! お前ら黙れ!!」
 双方に怒鳴ってから、徴矢は自分も大きな声を出したことに気付くと、こほんと体裁を整えて徴矢はまず黒髪に向き直った。
「黒髪、すまんが、話は聞いた」
「…………」
 徴矢が振り返るなり黙り込んでしまった黒髪の顔は、どこか拗ねた子供のようみ見える。
 もうすぐ成人しようと言う青年が、とも思わんでもなかったが、今の相手の精神状態を考えると仕方もないのかもしれない。溜息を呑み込んで、徴矢は優しく黒髪の肩に触れた。
 反射的に顔を上げる相手に、いつかの冷静な顔で問いかける。
「お前は本当に、賢吾をそう言う目で見てたのか?」
 優しく言うと、黒髪は徴矢を見つめたまま小さく首を振った。
 頷いて、微かに笑う。
「だよな。今日はちょっと動揺しすぎて、トラウマ思い出しただけだろ?」
「愛宕……」
 縋りつくような目に、なんだか保護欲が沸く。
 きっと子犬や仔猫を抱き締めたいと思うのはこういう気持ちからなのだろう。
 徴矢は軽く黒髪の肩を叩いて、それからわしわしと頭を撫でた。
「俺も賢吾も、お前の事をないがしろになんかしないから。ずっと友達でいるし、蚊帳の外になんかしない。賢吾だって今日は動揺してて、ワケわかんなくなっただけだから……な、そうだろ賢吾」
 振り返ると、賢吾はなんだか納得のいかないような顔をしていた。
 が、ここは黒髪の感情を抑えることが最優先だ。
 黒髪から自分の顔が見えないことをいいことに、徴矢は表情で必死に「ここは俺に合わせろ」と合図を送った。相手はソレに気付いたようだが、何故かまだ面白く無さそうにしながら頷いた。
「うん……ごめん、黒髪」
 賢吾の真意が測れなくて一瞬怪訝な思いが浮かんだものの、顔をアルカイックスマイルに戻して黒髪に向き直った。まだ縋るようにこちらを見つめる黒髪に、もう一度頭を撫でる。
「な? ……だから、安心しろよ。……あと、心配してくれてありがとうな。嬉しかった」
 今の黒髪に言わなければならないのは、心配してくれたことに対しての「それは必要だった」という感謝の言葉と、「誰もお前を疎外しない」という台詞での証明だ。
 いつもの態度で示してもきっと黒髪には届かないだろう。
 心の弱まった人間は、直接的な意思表示でないとこちらの思いに気付かない場合が多い。余裕がなくなってしまうからだ。そんな場合にツンデレなんて以ての外である。
 だから、多少気障であっても、こんなもん男にいう台詞じゃねえよな、と心の中で自分に突っ込もうと、相手を見据えて正直に自分の思いを言ってやる事が必要だった。
 今の黒髪は、弱い。
 自分達という逃げ場が出来たからこそなのだろうが、徴矢はそれが少しだけ心配になった。
(もしこの先、俺らが分裂したら……黒髪はどうなるんだろう)
 耐え忍んできたあの強さが消えたとは思いたくないが、どうしても今の黒髪にはその強さが見えない。徴矢には、目の前の黒髪はただの弱々しげで可哀相な男にしか映っていなかった。
 それがどうなるのか。
 思わず目を伏せて考え込んでしまう徴矢に、相手は知ってか知らずかうれしそうに笑った。
「やっぱり……愛宕は優しいなあ」
「え……ああ、それほどでもねえよ」
 褒められて悪い気はしない。
 反射的に照れて頭を掻くと、黒髪は笑顔のままで、徴矢に抱きついた。
「えっ、ええ!?」
 誰かの声と自分の驚く声がユニゾンする。セオだか賢吾だか解らない。
 だが黒髪はお構い無しにぎゅっと自分にぶらさがって、嬉しそうに言った。
「愛宕は本当に……俺に優しくしてくれる……。俺、もう愛宕がいればどうでもいいや」
「いやそれはとんだセカイ発言……な、なあ賢吾」
 というか正直男にそんな事を言われても嬉しくもなんとも無い、というか逆に困るのだが。
 困って、いつもなら自分に抱きついてくる賢吾に助けを求めようと振り返る。
 刹那、徴矢は目を剥いた。
「…………賢吾?」
「…………」
「ねえ……ケンゴ君、おかしい……よね?」
 セオですら、戸惑う。
 徴矢の見開かれた目の先にいたのは、嫌悪に顔を歪めた、見たことの無い賢吾だった。
「俺、もう愛宕がいれば……どうでもいい」
「…………!!」
 ぞわり、と、また冷たい物が背中を舐めた。
 賢吾から目を離して黒髪を見おろす。黒くサラサラとした髪が、自分の胸に張り付いている。相手の体温の暖かさも、脇腹を絞める腕も、別に怖いものでは無い。
 なのに、恐い。
 賢吾も、黒髪も、この空間も。

 ――――――全てが、何故かとても恐ろしい。

(………………まさか……)
 自分はもしかしたら、とてつもない勘違いをしたまま話を進めてしまい、その上踏んではいけない地雷を踏んでしまったのでは無いだろうか。
「……ねえ徴矢。この子、ぶっ飛ばして柱に張り付けてもいいかな?」
 隣で不機嫌な声が呟く。
 ようやく正気に戻って人でなしな事を言い始めた悪魔ですら、今の徴矢にとっては自分を日常に引き戻してくれるカンダタの蜘蛛の糸に思えた。
 だがその糸はとても頼りなく、今の状況ではすぐにぷつんと切れてしまいそうで。

 ……もう何も、元には戻らないのだろうか。

 その言葉ばかりが、頭の中でずっとぐるぐると回り続けていた。










    

   





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後書的なもの
 
この展開どうでshow。
 コメディだったはずなんですが当初からのネームで進めていたらこうなってしまったよ
 ですがまあ、展開上仕方ないかなあと思ってたり。
 うーん。オタクっぽいことしてねえなあしかし……
 恋愛とコメディの両立ってどうすりゃいいんですかわくわくさん



2010/03/21...       

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