十四回目










「ったたた……。あのナースさん力強すぎだってぇ……二次元と大違いだぁ」
「だから三次元の女には夢を持つなと……って、何でお前ここにいるんだよ」
 一階の待合室で怪我の有無を見ながら、徴矢は賢吾の顔を見やった。
 問いに賢吾は一瞬わかりやすく顔を歪めたが、慌ててその顔を隠すといつものへらへらとした笑顔で否定の形で手を振った。……ここまで解り易いと、呆れを通り越して泣きたくなる。
「あ、あ、いや、その、俺さ、その……実は……ここに、爺ちゃんが入院してて……」
 目を泳がせて必死で徴矢の視線から逃げる賢吾に、疑念が積もっていく。
 こんな風に徴矢と視線を合わせたがらないのは、絶対に何か隠している時だ。幼馴染とまでは行かないが、実を言えば賢吾とは結構長い付き合いなのだ。相手の態度が何を示しているかなんて、互いにもう解りきっていた。
 しかしそれでもまだ隠そうとしている賢吾に、徴矢は目を細めて下からぐっと賢吾に顔を近づける。
「なーんでそれでどもるのかな? 賢吾クンはー」
 教育番組ばりのわざとらしい問いかけるような声で睨みつけると、賢吾はやはりビクリと肩を揺らして顔を背けた。
「ねえ徴矢、顔から大量に冷や汗出てるのに、何でケンゴ君はばれてないと思ってるのかな?」
 心底不思議そうにセオがズバリと言う。もしセオが実体で賢吾に直接問いかけていたならば、絶対に賢吾の胸にはその言葉の矢が刺さっていただろう。間違いない。
 純粋で悪意のない確信を突いた問いほど、隠し事をする人間が痛がるものはないのだ。
 聞かせてやりたかったなあと意地悪な事を思いながら、徴矢は一旦顔を離し、賢吾の頭頂を掴んでクレーンゲームのように無理矢理こちらを向かせた。
「う……うう……」
「賢吾、俺にも言えないようなことなのか?」
「す、スミだって、何しに来たのさ……門はもう閉まってただろ!?」
「友達の見舞いだよ。重症だったから心配で会いに来たんだ。何かおかしいか?」
 ハッタリだという気がしないでもないが、何ら嘘はついていない。
 平川が友達を認めてくれていたら、の話ではあるが。
 平然と切り返した徴矢に絶望的な顔を披露した賢吾だったが、やがて観念したのかがくりと項垂れて口を開いた。
「えっとさ……ここじゃちょっとアレだから、公園に移動しね?」
「別に構わんけど」
 いつになく沈んだ顔の賢吾は、何故だか自分が知らない人間のように見えた。




 公園も、やはり凶悪犯が出たとあってか子供はおらず人影もまばらだった。
 適当なベンチに腰掛けて隣に座った賢吾を見やると、相手は困ったように顔を歪めて笑う。
「いつかは言わなきゃとは思ってたんだけどさ……。ほら、俺、中学と高校はスミと別んトコ行ってたじゃん?」
「うん。まさかお前が学園に通ってたなんて思わなかったけどな」
 知った時はキャラ的に似合わないと思った、と容赦なく切り捨てる徴矢に涙目になりながらも、賢吾はぎこちない笑みで頷く。
「でさ、遊びはするけど遊べない期間とか結構あったじゃん?」
「ああ。試験とかなんとかなあ」
 しかしそれは当然の事だし、普通は自粛するものだ。それが何の関係があるのかと訝しげに顔を歪めた徴矢に、賢吾は困った顔のままで、頬を軽く掻いた。
「実は俺……中学ん時、一ヶ月くらい不登校してたんだ。ほら、試験とか法事とか重なったって言って、遊んでなかった時あっただろ?」
「9月のアレがか!? …………ああ、そうか……知らんかった……」
 確かに、九月の始め頃、いつものように唐突に電話をかけてきて、これから試験や法事が重なるからと遊べなくなるという事を言っていた時期があったのを覚えている。その時は大変だなとしか思っていなかったが、まさか賢吾が不登校で家に篭っていたとは知らなかった。
 いつも元気で、学校を休んだ所なんて見たこともなくて、どんな嫌なことがあっても決して挫けない賢吾がそんな事になっていただなんて。
 何故か大きなショックを受けた気がして、徴矢はただ口をぽかんと開けているしかなかった。
 そんな徴矢を見て、賢吾は申し訳なさそうに眉根を寄せると肩を少し下げた。
「別に虐められてたわけでも、ウツでもなかったんだけどさ……その……ちょっと俺んちで問題が起こって……俺凄くショックで、一ヶ月立ち直れなかったんだ」
「ショックって……?」
 それ以外の想像が出来なかった徴矢が賢吾と同じように眉根を寄せると、相手はぱっと明るい顔になって口を歪ませる。まるで、無理をして笑っているようだった。
 だが、そう思う前に、徴矢は賢吾の発言に目を丸くして驚いていた。
「俺、実はさ……爺ちゃんの子だったんだよね」
「……………………え?」
「だから、俺、父さんじゃなくて爺ちゃんのマグナムから生まれたんだって」
「…………………」
 明るく爆弾発言をかます賢吾に、思考が止まる。
 セオも信じられないのか、徴矢と同じような顔をして頬をぴくぴくと動かしていた。
「中学ン時、自分史作ることになって、どうも父さんが死んだって言われてる時期と俺が母さんの腹に入った時期が一致しないなと思ってさー。で、聞いてみたら、実は母さんったら父さん死んだ後に爺ちゃん好きになっちまって俺を妊娠したんだって」
「お……お……お前……」
「爺ちゃんも俺に似てハンサムだし、超格好いいし、惚れる気持ちも解んなくないんだけどさ。まー、当時の俺にとっちゃ死ぬほどショッキングだったねえ、うん」
 無理して笑っているものだと思っていた顔が、段々にやけてくる。
 どうやら徴矢を驚かせる事が出来て嬉しいらしかった。が、こちらとしては心臓が飛び出るほど驚いたのだ。ドッキリ大成功どころの話ではない。
 未だに声が出ない口をパクパクと動かす徴矢に、賢吾は明るく笑った。
「スミ、その顔マジで作画崩壊だって! ぶっはははは」
「お、お前……な、なんで笑ってられりゅ……」
 思わず噛んでしまったが、それを恥しがる余裕さえない。
 徴矢の失態にまた盛大に賢吾はぶふっと吹き出す。
「だってー、克服したもんよ。だから爺ちゃんの見舞いに来てるんだってば、今日」
「あ、ああそうか、いや、でも、なんで」
「本当に混乱してるなあ……。いや、まあ最初は俺もそんな感じだったんだけどさ、まあ……別にいっかぁってさ。爺ちゃんが来て、凄く真剣に母さんと一緒になって説得してくれた時、俺父さんにはちょっと悪いと思ったけど……『あー、俺の父さんって生きてたんだ。良かった』って思ったんだ。そんで、凄く嬉しくなった。……なんかさ、実際の父親って凄いのな。俺一発でこの人父さんだって感じたもん。認めてからは、なんかすっげー楽になってさ」
「……賢吾……」
 気持ち良さそうに伸びをして、いつものように屈託のない笑顔で笑う賢吾に、思わず顔が歪む。
 いまここで感傷を起こしても仕方の無い事だったが、やはり、賢吾が苦しんでいた事を知らずに友達面していた自分に、心底突き抜けるような情けなさを感じた。
 互いに親友とまで思っていたのに、自分は賢吾の事を何も知らなかった。
 所詮は他人だから、解ってやれないのも仕方の無いことかもしれない。だが、そう思おうとしても、相手と深く繋がっていると信じていた分、賢吾が苦しんでいた事を察知してやれなかった事がとても悔しかった。親友だなんてとんだ思いあがりだ。
 無意識に苦い顔をしていた徴矢に気付いたのか、賢吾は困ったような笑顔で徴矢の肩を優しく叩く。
「あんまし深刻にならないでよ、徴矢。……俺だって隠してる事なんか一杯あるよ。徴矢だってそうだろ? でも、俺徴矢が大好きだから一緒にいるんだ。だから、知らなかったくらいで落ち込むなよっ。俺だって徴矢のこと親友だって思ってるんだゼ?」
 なっ、と語尾に一々☆マークを付けながら話す賢吾に、徴矢は耐え切れなくて遂に笑った。
「お前っ……キモイなあー!」
「キモいって……ひ、酷いわスミ! ナンシー泣いちゃうから!」
「誰がナンシーだ誰が。……とにかく……そっか、お前も色々大変だったんだな」
 どうやら自分の周りには、自分よりも強く逞しい人間が揃っているらしい。
 改めて賢吾のしなやかさに恐れ入りながら、徴矢はゆるく微笑んだ。
「えへへ……まあね。まあそれで、いつもは母さんが行ってる見舞いを俺が代わったってワケ。ほら、今危ないだろ? でも明日手術だから、色々あってさ」
「ふーん……」
 照れたように後頭部をぽりぽりと掻く賢吾に、徴矢は一瞬納得しかけた物の、引っ掛かりを感じて片眉を寄せた。
「なのに、なんでバタバタ走り回ってたんだ? お袋さんに爺さんの病室聞いてたんじゃなかったのか?」
 瞬間、賢吾はまたわかりやすく肩をビクリと震わせて、ぎこちなく笑いながら徴矢に顔を向けた。
「あ……その、それはぁー…………。俺が、病室の番号忘れちゃって……」
「……そっか」
 一応納得したように頷いて、前を向いた徴矢に、賢吾は喧騒に紛れてしまうほど小さな声で呟いた。
「……それだけじゃ、ないんだけどね」
 その言葉は、残念ながら徴矢の耳にはっきりと届いてしまっていた。



 昨日の帰り道も黙りこくって暗い気持ちで帰ってきたというのに、まさか今日、昨日よりも重い気持ちで帰ってくるとは思わなかった。ぼんやりとそう思いながら、乱暴に靴を脱ぎ捨てる。
 バッグを乱暴にベッドに放り投げ、徴矢は机から椅子を引いてそこに体を放った。
 大仰な軋みを鳴らす背凭れに背を押し付けて、体を伸ばす。そして、天井を見上げて大きな溜息を吐いた。
「どうしたの、徴矢? なんかまた暗いよ」
 いつの間にか後ろにいて上からこちらを覗きこむセオに、徴矢は何とも言えなくて口を歪めた。
「……考えたくなかったんだが」
「ん?」
 悪魔のクセに無邪気で優しい顔に、少しだけ心が落ち着く。
 今まで腹の中で捏ね繰り回して煮詰まった考えが、その優しい声に導かれるように勝手に零れた。
「ラルヴァって、人の感情の中に隠れてる時は臭いはしないのか」
「うん。ただ、残り香……気配の跡はどうしても残るから、近しい者までなら特定は出来るよ」
 それはつまり、残り香がついていた場合、被害者ではないのなら即座に容疑者の候補に入ってしまうということか。
 深く溜息をついて、徴矢は腕で自分の目を隠した。
「……なあ、セオ」
「なんだい?」
 優しく問い返してくる声が、何故か心を鎮めていく。だが同時にどうしようもない悲しさが浮かび上がってきて、徴矢は腕で隠した目をギュッと瞑った。
「賢吾には…………残り香が、ついてたか?」
 訊きたくは無かった。
 だが、これは訊かねばならないことだった。
 一人傷付けた以上、もう野放しにはしていられない。自分達しか退治できないのなら、心を鬼にしても確かめなければならない、大事なことだった。
 無意識に歯を噛締めていた徴矢に目を細めて、セオはそっと徴矢の頬を撫でる。
 滑らかな手は、とても優しかった。だが。
「……気のせいかなって思ったけど……。…………確かに、ついてた」
 その言葉は、優しい声音のはずなのに、とても重く酷いものに思えた。
「…………そ……っか」
 宥めるように頬から髪に移り優しく髪を梳く手に安寧を縋りながら、徴矢は口をぎゅっと結んだ。
 何も言いたくはない。だが、言わねば何も進まないことは、徴矢が一番解っていた。
 解っているからこそ、言いたくなかった。
 暫しセオの手に甘えながら黙っていたが、徴矢は大きく深呼吸をして、体を戻した。
「だったら、賢吾を監視するしか……ないよな」
 心を殺して言う徴矢の背中を見て、何を思ったのかセオは少し強い声で言葉を放ってきた。
「徴矢はそれでいいの?」
 その言葉に、また自分の台詞を見失う。
 だが感情に流されては行けないと、徴矢は己の冷静さを総動員して椅子をくるりとセオの方へ回した。
「証拠が揃い過ぎてるんだ。……メモの奴ら、平川のつるんでた奴ら以外を探ってみたが、誰も残り香すら付けていなかった。それに腕か足にあるはずの印すら見つからない。平川のダチが標的という可能性もあるが、しかし平川をそこまで憎んでいたとは考えられない。そう考えると……現時点では……賢吾が、一番標的に近い」
「でも……残り香があるからって、彼がラルヴァに憑かれた人間とは……」
 まだ否定しようとするセオに、今度こそ徴矢は鋭い目を向けて怒鳴った。
「証拠が揃いすぎてるって言っただろうが!!」
――――!」
 瞠目するセオにハッとして、徴矢は激昂した自分を押さえつけて続ける。
「……アイツは、平川達を襲う動機を持つことが出来る。賢吾も俺と同じで、友達が苦しんでるのを見ていられない。それに賢吾は俺より黒髪と一緒にいる時間が長かった。だから、俺が知らない情報を黒髪から聞いていた可能性がある。お前も見ただろ、賢吾のハイテンション……。あの調子だから、もしかしたら話を聞いてかなり怒ったのかも知れん。それに、世門五丁目は賢吾の家の近くだ。……そして、今日の態度。普通自分の父親の大事な用事を届けるってのに、病室の番号を忘れるか? 最後の言葉だって、もしかしたら平川の病室を探していたからかもしれない」
「徴矢……」
「それに…………それに、印…………。もし、あの洗っても落ちないと言っていたタトゥーシールが印なら……もう……もう犯人としか思えないじゃねえか……っ!!」
「…………」
 親友が怪しいという証拠を提示しているだけなのに、胸の辺りに形容し難い重く苦しいものが溜まっていった。
 嘘か真実かを見抜けない自分にも非はある。
 だが、もし自分の親友が犯人だったらと考えると、どうしようもない絶望感が圧し掛かってきた。
 ずっと一緒にいたのに、誰よりも大切な友達だと思っていたのに、信じていたのに、たった一つの邪悪な物によってそれら全てが消え去る。例え賢吾が操られていたのだとしても、彼の中にそれほどの憎悪が眠っていたのを気付けなかったのだ。もし賢吾が本当に“憑かれた者”だったとしたら、親友を何度も謳って来た徴矢には、もうそれ以降前のように賢吾に接することは出来ないかもしれない。
 恐れが問題なのではない。
 「隠していた事」を気付けなかった自分が、許せないからだ。
(もし賢吾が本当に犯人なら…………俺は、賢吾を止めなきゃならない)
 漫画のようなとんだ展開だ。
 だが、その展開を迎えた当の本人になってみると、それがどれ程辛く苦しい事態なのかという事を嫌というほど知らされて、徴矢は打ちのめされていた。
 漫画や小説の主人公はそれでも立ち上がるのに、崇拝する魔子ちゃんだってライバルを信じ抜いて戦ったというのに、心の脆いオタクでしか無い自分には立ち上がることが出来ない。
 賢吾と対峙する事を考えるだけで、もう何も考えたくないと脳は叫んでいた。
 相手と戦うことも、その先で自分達がどう付き合って行ったらいいかも、もう何もかもが解らなかった。
 考えすぎだとでも言うように頭はオーバーヒートだと訴え始めて、じわりと顔から何かが染み出してきそうになる。項垂れたままで顔を拭うが、ちっとも治まる気配はない。
 何だか無性に腹が立って、徴矢はもう一度乱暴に顔を拭おうとした。と、刹那。
「……徴矢……それでいいの?」
 熱を帯びて暴走しかけた頭に、セオの静かな声が響いた。
「…………?」
 思わず顔を上げると、そこにはセオの黒衣が視界一杯に広がっていた。上を見上げると、いつの間にか相手は目の前にいて、徴矢を悲しそうな顔をして見つめている。
 泣きたいのはこっちなのに、どうしてお前がそんな顔をしているんだ。
 思わず歪んだ顔で睨みつけると、セオは一層悲しそうに顔を歪めて徴矢の頭に手を置いた。
「徴矢は、それで……悲しくないのかい?」
「……ど……ういう、意味……だよ」
「ケンゴ君は、徴矢の一番の、生涯離れることのない親友じゃないのかい? ……そんな大切な人を疑う事は……悲しくないのかい?」
 どもった声を、今考えていた事を見透かした冷静な声が掻き消す。
 思わず眉を顰めて縋るようにセオを見る徴矢に、セオは表情を変えずに口を弧に歪めた。
「確かに証拠と言えるような物が彼にあることは、僕にも否定できない。でも、それは確信が持てることじゃないよね? 今一番ラルヴァに憑かれた者の可能性が高いからと言って、ケンゴ君が犯人とは言えないんじゃないかな」
「でもっ……!」
 その先が言えずに空気を食むことしか出来ない徴矢に、セオはゆっくりと頭に乗せた手を頬に滑らせた。
「でも、じゃないよ。……ねえ、徴矢。……徴矢は、どうおもう?」
「え……」
「徴矢は、『どう思いたい』の? 証拠があるとかじゃない。動機の有無があるからとかじゃない。……徴矢が本当はどう思いたいのか、言ってよ」
「…………」
 自分が本当は、どう思いたいか。
 そんなこと、決まりきっている。
「誰も、否定したりなんかしないよ。笑ったりもしない。だから、言ってみてよ。徴矢」
「セオ……」
 自分の心に鍵をかけていた自分が、優しいその言葉に、頬に触れる暖かいその手に、心を砕くその笑顔に砂のように崩れ去っていく。
 ただセオは純粋に問いかけ、簡単な約束をしただけなのに、どうしてこんなに心が揺れ動くのか。
 どうして自分は――――この言葉をずっと待っていたのだと言うように、泣いているのか。
 徴矢は頬を流れる水に歯を噛締めて、喉が震えないように精一杯に抑えた声で、告げた。
「おれ、は…………信じ、たい」
「……うん」
「どんなに、証拠があっても……お前が、明日あいつを犯人だと言ったとしても……賢吾が、まだ隠し事をしていたとしても…………俺は……信じたい……っ」
 証拠がどうとか、使命がどうとか、自分に不幸が降りかかるとか、そんなことなんてもう考えていられない。賢吾にその可能性があるとわかっていても、理性が押さえ込んだ自分の感情は、ずっと違うとワガママを言って、暴れまわっていた。だから、辛かった。
 何がどうとか言う問題じゃない。
 ただ、徴矢は違うと思いたかった。賢吾が犯人じゃないと思っていたかったのだ。
「……そう。そうだよね、徴矢」
 徴矢の本当の気持ちを聞いてやっと愁いを無くした顔で微笑んだセオは、跪いて同じ目線に顔を持ってくると、両手で頬を包んで涙を指で掬い取った。
「だって、徴矢は優しいもの。『ケンゴが犯人だと思いたくない』って体中で訴えてるの、本当は解ってたよ。……親友だもんね。疑うのは、辛いよね」
「……っ……う……」
 優しく宥められるたびに、子供のように涙がぼろぼろと出てきてしまう。
 そんな歳じゃないと突っぱねたいのに、徴矢には子供に言い聞かせるような穏やかなセオの言葉を遮る事はできない。ただただ泣きながら、それこそ子供のように、微笑む相手をじっと見ていることしか出来なかった。
「僕は、そういう徴矢のほうが好きだよ。ほら、よく徴矢って遠慮なく僕に死ねとか溶けろとか言うじゃない。酷いなあって思うけど、僕はそんな徴矢がいい。すぐになんでも言葉に出して、謝ろうともしない徴矢がいいんだ。……だから、僕は……必死で犯人を探して心を殺す君よりも、『絶対に自分の親友は犯人じゃない』って訴え続けて他の可能性を考える君の方が、いい。」
「セオ……っ」
 優しく潤む翡翠の瞳は、嘘など微塵もなく澄んでいる。
 喉を締め付ける音の無い嗚咽と引き攣るように息を吸う心地が苦しくて目を細めると、セオはゆっくりと徴矢を抱きしめた。柔らかな黒衣が自分を包み、暖かい手が背中に張り付いてゆっくりと徴矢の苦しみを吸い取っていくように動く。
「僕は、徴矢が好きだよ。だから、徴矢と僕に有益な人も好き。ケンゴ君は大切な徴矢の“親友”だから、僕も信じたい。だって、彼は徴矢を本当に親友として見てる普通の人間だもの」
 セオの言い方に何か引っかかりを感じたが、しかし今の徴矢にはそんなことを追求する力もなく、ただ相手に体を預けるしかなかった。大分冷静になってきた部分で、自分は何をやっているのだろうと考えてしまうが、そんなこと恥ずかしくて深く考えられるはずが無い。
 素面の自分だったなら、末代までの恥と思うか、セオを蹴り飛ばして締め出していただろう。
 だが今は、素面じゃない。素面じゃないから、何も考えなくていいのだ。
(……今度……今度こそ、大好きとか言いやがったら殴ろう)
 だから、今は何を言っても許してやろう。
 自分の失態を本当に笑わずに慰めてくれたのだから、多少何か言われても構わない。
 我ながら破格のお礼だと思いながら背を擦るその感覚に酔っていると、セオは徴矢の肩に埋めていた顔を上げて耳元で呟いた。
「今日は、何もしないから大丈夫。ずっと抱きしめて、徴矢がまた元気になるまでこうしててあげるから、安心してね」
「な…………」
 思わぬ相手の言葉に驚くが、セオはそれ以降何も言わずに、ただ徴矢の背中を優しくさすっていた。
 まさか、本当に自分がまたセオに悪態を吐くまでそうしているつもりなのか。
 目を丸くしながら、真横にある金に近い橙の髪を見て、徴矢は言葉を零す。
「…………食事は……しなくて、いいのかよ……?」
 自分でも驚くほど拍子抜けしたような声になってしまった台詞に、セオは顔を徴矢の目の前まで持ってくると、いつもの人の良さそうな笑みでにっこりと笑った。
「僕は、笑ったり怒ったりする徴矢から、快楽が欲しい。だから、今はなにもしないよ」
「……っ!」
 わざとらしい、天使のような微笑。
 悪魔の良く使う、人を騙す手練手管の一つ。その裏には何か隠されているかもしれない、全てを包容して癒す、許しの顔。天使とは絶対に別の意図を持つ、紛い物の笑顔。
 なのに、何故だろうか。
 何故、その笑みが、今は天使に微笑みかけられる以上に嬉しいものだと思えるのだろうか。
 今までは、二次元の愛しいキャラの笑顔や頬を染める顔のほうが何百倍も嬉しいと思っていたのに、どうして今はその愛しいキャラの顔すら思い浮かばないのか。
 不可解な己の脳内にまた熱暴走しかけて勝手に赤くなる顔に、セオはまた笑みを深くした。
「だから、早く元気になって……僕に沢山快楽を食べさせてね」
「……す、すぐそれだ」
 やはり悪魔が優しくなって得する事など何一つない。
 そうは思うが、その腕の中からいま一つ逃げる力が出ない徴矢は、顔を真っ赤にしたままただセオの肩に顔を埋めることしか出来なかった。
 逃げたいのに、心臓が心筋梗塞でも起こしそうなくらい引き攣って縮まって、さっきから苦しくて堪らない。痛いと顔を歪めるほどに、己の心臓は激しく動いていた。
 忘れ去っていたはずの感情がはっきりと浮かぶ気がして、徴矢は強く眉を寄せる。
(ち、違う……これは……あれだ、つり橋効果……いや、ストックホルムシンドローム……いや……お約束のピンチにヒーロー登場でときめくヒロイン……いや……)
 幾つも浮かんでは即座に消えていく可能性を思い、徴矢は最後に残った言葉を思いこそうとして慌てて脳内パソコンをシャットダウンさせた。
 そんなことない。
 そんなこと、あるはずがない。
「ねえ徴矢。……僕ね、卵焼きもいっぱい食べたいな。勿論、デザートで」
「…………死ね……腹黒」
 人の弱みに付け込んで、要求をエスカレートさせる悪魔。
 そんな悪魔に、自分は……そんなことを思っているなんて、認められない。
 けれどセオの要求を突っぱねる気力は湧かず、徴矢は盛大なため息を吐いた。
 これは、心が疲れているからだ。
 心が疲れているから、きっとこうしていいようにされているに違いない。
(……そうじゃないと…………この状況の説明がつかんだろ……)
 本当はもう回復している心をまだ弱っていると決め付けて、徴矢は遠い目で天井を見上げた。
 これ以上、面倒な事はたくさんだ。
「ねえ徴矢」
「ちっとは言葉頭変えろ。……で、何」
 遠い目をしたまま答える徴矢の顔を自分の目線とかち合うように手で戻して、セオはまたアメリカンスマイルでにっこりと笑った。
「信じようね、ケンゴ君のこと」
「…………」
 ああ、嘘くさい。
 こんな笑顔に純粋にうんと頷けるか。
 そうは思ったが。
「…………ああ」
 その言葉だけは真実だと信じて、徴矢は深く頷いた。
 悔しいが、この悪魔に教えられたのだ。
 信じたいと思うなら、最後まで信じぬけ……と。
(そうだ……俺は、やっぱり賢吾を信じたい。自分が信じていたことすら信じてやれなくなったら、終わりなんだ。これから何があっても、賢吾は俺の親友だ。どんな感情を持っていたとしても、アイツは俺の大切な親友なんだ。……信じなきゃ、始まらない)
 誰だって、隠している事はある。
 でも、俺は親友だ。
 そう花の咲いたような笑顔で言ってくれた賢吾を、信じたい。いや、絶対に信じなければならない。例え彼が犯人だとしても、賢吾のあの言葉には嘘はない。徴矢はそう思っているからだ。
 確かに誰だって隠している事はある。所詮は他人だ、一から十まで相手の事を知っている人間なんていないだろう。知らないことなんて、きっと星の数ほどある。
 だが、だからこそ、その隠し事をいつか明かされても平然と受け入れる覚悟を持つ事が必要なのだ。
 それしきのことで絆など壊れないと言ってやれる者こそが、本当の親友と言えるのだから。
「……絶対に……信じぬく」
「……そうだよ、徴矢」
 嬉しそうに目を眉月のように弧に細めるセオに、徴矢は少しだけ笑みを浮かべて、頷いた。
 これは、悪魔の囁きかもしれない。
 けれど間違いなく、これは正しい選択だ。たとえ……終わりが、悲惨であろうとも。
 徴矢はセオの美しい瞳の中に映る強い眼差しを持った己を睨み付けると、セオに身を委ねたのだった。











    

   





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後書的なもの
 
賢吾爆弾発言。
 多分日数が合わないことの辻褄は
 爺ちゃんが裏で手を回したのでしょう。怖いぞ爺ちゃん。
 徴矢とセオの距離も縮まってきて、急展開ながらも
 なんとかまとまりそうです。
 友達を信じることって結構大事な事ですよね。



2009/08/19...       

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