十三回目










 しかし実際問題、どうして自分は己のわがままだけで自分を襲いかけた酷い相手に、こうして早起きして律儀に卵焼きを作ってやっているのだろうか。
「……俺って、典型的ギャルゲ主人公かもな……」
 ただし、へいこらするのはツンデレ美少女ではなく、美形で腹黒のお子様脳悪魔だが。
 それを思うと止め処なく出てくる溜息に辟易しながら、徴矢は更に卵焼きをかえす。昨日のように焦げ目もなく綺麗にできた卵焼きだけが、徴矢を慰めてくれているような気がした。
 ニュースを見て何故か大笑いしているセオの声にイラつきながら、卵焼きをみつめる。
「現実なんてやっぱり大嫌いだ……」
 やはりどうあっても二次元に囲まれた世界に帰りたい。いや、帰ってやる。
 そう思いながら、徴矢は御飯を二膳よそって新しく買ったお盆に載せて運んでやった。
「おら。メシだぞ」
「あっ、徴矢ありがとう!」
「お前な……ありがたいと思ってるならちったぁ反省しろよ……」
 言いながら渡すと、セオは心外だなと顔を顰めた。
「反省してるから徴矢の嫌なことはしてないんだよ。昨日だって、お詫びに徴矢の好きな所好きなだけ……」
「だああああそれが反省してねぇって言ってんだよ! 言うな! そんなことを!!」
 もごもごと口を動かしながらとんでもないことをいう悪魔に、徴矢は大声でその台詞を掻き消した。どうしてこいつはこうもやらなくて良い事を嫌がらせのようにやるのか。
 顔を熱くしてギリギリと歯で空気を挽く徴矢に、セオは知ったこっちゃないとでもいう笑みを浮かべて飯を平らげた。そのニコニコ顔が一層徴矢の苛々を増す嫌な事だというのに、当の本人は全く気がついていないらしい。鬼の手で成敗されちまえと口の中で悪態をつきながら、徴矢は本心からの言葉でもないそれを卵焼きと共に飲み込んだ。
「僕、今日は講義前まで徴矢と一緒にいるよ」
「なんでだ?」
 いつもならすぐに図書館に飛んで行って本を読み漁っているだろうに。
 顔を疑問に歪めた徴矢に、セオは意外にも真剣な表情を返した。
「こんなに気配がしてるのに、事件が起こってないっていうのがちょっと引っかかってね……普通、日にちがこんなに経っていたら、絶対に事件の一つくらいは起こってるはずなんだ。なのに事件なんて起こった様子もない。だから、もう一度近くから調べなおしてみようかなって」
「……事件が起きていないと、何かヤバイことになるのか?」
 その場合、普通なら平和でよかったなあと喜ぶべきだと思うのだが、セオは仕事のことに対しては絶対に嘘は言わない。これだけ真剣な顔をして、勝手に決めるのではなく自分に伺いを立てているのだから、多分相当とんでもない事態に違いないのだろう。
 箸を置いてセオを見つめ返す徴矢に、セオは言い難そうに少し視線を外して頷いた。
「うん……。本当はね、ラルヴァが取り憑いた人はすぐに事件を起こすものなんだ。お腹が減ったらとりあえず何か食べたいなーって思うでしょ? そんな感じ。ラルヴァは常に自分達の欲求を満たす事を考えて、宿主を操って犯罪をさせてしまうんだ。だから見つけ易いし、すぐに解るんだけど…………でも、今回のは気配はこんなにだだ漏れしてるのに、宿主も全然見つからないし事件も起きてない。……もしかすると、最悪なケースかもしれないんだ」
「さ……最悪なケースって……」
 ごくりと唾を飲み込む徴矢に頷いて、セオは人差し指を立てた。
「僕もまだ見たことないけど、師匠に聞いたことがある。……『人間が負の感情を満たした時にラルヴァが入り込んだ場合、稀に、ラルヴァと人間が融合する場合がある』……って」
「悪霊と……融合!?」
 それは悪魔合体もビックリだ。某宇宙人のフュージョンが負の方向に働いたようなものだろうか。
 目をぱちくりさせて相手にどうなるのだと無言で訴えると、セオは目を伏せる。
「通常、ラルヴァは幽霊みたいなものだから常に宿主の体の周囲に露出してるんだけど……そうなってしまうと、ラルヴァは知恵を持ち宿主の負の感情を乗っ取って……宿主の負の感情が奔出した時にだけ、現れるようになる。その上、宿主の感情を利用してもっと凶悪な犯罪を起こさせるようになるんだ。しかも普段は宿主に完全融合してるから見つけにくい。近付かない限り、僕らにはラルヴァを見分ける方法はないんだ」
「感情を利用って……」
 それはもしかして、衝動的な殺人を行う確率が高くなると言っているのか。
 一瞬飛躍しすぎかと思ったが、セオは否とも応とも言わなかった。
「こういうケースが一番面倒だよ。相手が完全にゴーストになってしまったのなら、早く宿主を見つけないと……宿主だけじゃなくて、他にも多大な被害が出てしまう」
「……そんな……」
 現れては消え、その足跡さえも残さずに去っていく犯罪者。まさにゴーストだ。
 もし自分達がいない所で宿主が一度感情を高ぶらせてしまったら、止められるものは誰もいない。目撃者でも出てしまえば、宿主は完全に犯罪者扱いされてしまう。自分で望んだ罪ではないのに。
 なんとしてでも、印の持つものを見つけないと。
 テレビから流れてくる朗らかな音楽とは間逆の顔をしながら、二人は頷いた。


 

 早速最初の講義が開かれる教室に向かった徴矢とセオは、いつもよりざわついている人々に違和感を覚えた。普段も煩いくらいに言葉が飛び交っているものだったが、今日はいつもと雰囲気が違う。何か皆根拠のない噂話でもするような、興味津々といった様子の空気だった。
「何を話してるのかな?」
「さあな……賢吾達に聞いてみるか」
 隣で素直に頷いたセオを横目で確認して、徴矢はいつもの様に一番上の段の席へ向かった。
「あっ、スミはよっ!」
 いつもの席に陣取っていた賢吾が、いやに潜めた声で呼ぶ。
 徴矢は自分の隣に顔を出しているセオと目を見合わせたが、とりあえず席につくことにした。
「この状況、一体どうしたんだ?」
「それがさー……傷害事件発生なんだよこれが」
「傷害事件!?」
 驚いて思わず大声を出すが、誰もこちらを気にしもしない。多分このざわめきは殆どの人間がその話をしているからなのだろう。この町では確かに事件らしい事件もなく平和だったから、皆面白がってそれぞれ話し合っているのだろうが……。
 どうも、嫌な予感を覚えずにはいられない。
 肩をそっと掴んでくるセオの手を感じつつ、徴矢は賢吾に詳細を訊いた。
「なんか昨日の夜にさ、あの坂の下の酒屋の近く……アニマニアの近くかな? そこでヒトが襲われて、結構なダメージ受けて入院しちゃったらしいんだわ! なんか重症でもないらしいんだけど、異様にブルっちゃってて話になんないらしくて……」
「つかダメージってお前な……。いやまあ解るけど……で、誰が誰に襲われたんだよ」
「それがねぇ……」
 ふざけた口調で面白おかしく話していた賢吾が急に黙り込む。
 何かまずいことでもあるのか、と怪訝な顔のみで問うが、賢吾は居心地悪そうに目をきょろきょろとさせて、隣の黒髪を見やった。いつもなら賢吾と同じように話に入ってくるはずの黒髪が、今日はやけに大人しい。まるで遠目から見ていた時のようにただ黙って俯いていた。
 一瞬何故だと考え込んだが、ハッとして賢吾に向き直る。
 賢吾は、無言のまま頷いた。
「黒髪……まさか……」
 徴矢がそっと呼びかけて、ようやく黒髪の目がこちらを向く。
 どこか怯えたような顔の相手が哀れで顔を歪めると、黒髪は今にも震えそうな口で答えた。
「俺を……俺を、いじめてた奴の……一人、だったんだって……」
 消え入りそうな声が雑音に混ざる。
 思わず目を見開いた徴矢とセオに、黒髪は続けた。
「しかも、俺の家の近くだったし……もしかしたら、もしかしたら俺も関係してるんじゃないかって……どうしたらいいか……っ」
 怯える黒髪の頭を少々雑に撫でて落ち着かせながら賢吾が言葉を継いだ。
「なんか、ケーサツ来るかもってセンセーが今日の朝言ってきたんだよ。別に黒髪関係ないのになんだよそれって思ったから、俺思わずセンセー振り切ってここまで黒髪連れて来たんだけど……」
「うん、よくやった」
 公衆常識としてどうかとは言われそうだが、友達としてはそれで正解だ。
 徴矢が賢吾の立場でも同じ事をしていただろう。賢吾が黒髪にしているように徴矢も賢吾の頭をわしわしと撫でてやると黒髪に向き直った。
「黒髪、今日の朝とか、事件の起こった時大丈夫だったか?」
「うん……。俺、気配には聡いんだけど昨日は熟睡してたし、朝は賢吾が迎えに来てくれたから……」
「でもさ、びっくりしたよ。だって黒髪の家に向かう途中検問やらがあったりポリスメンがわんさかいたりしたんだもん。そん時傷害事件が起こったって聞かされたよ、俺」
 そう言えば、昨晩起こったにしてはネットの地域ニュースでもテレビのニュース地方版でも何も言っていなかった。警察が検問を布いたりするほどの事態なのだから、普通なら何か小さな報道があってもいいはずなのだが。
 無意識に疑問に顔を歪める徴矢に、横からセオが囁く。
「……不可解な事件って、起こり始めはホウドウキセイされるんだよね? だとしたら、ようやく事件が起こったのかも知れない。……ダメージを食らったその人の傷、動物に襲われたような傷か、その場所で起こりえない傷だとしたら、完全に僕らの仕事だよ」
 よく報道規制なんて言葉を知っているなと少々驚いたが、徴矢はなるほどと顎に拳を当てた。ニュースなりそうなこの事件が報道されていないのなら、規制されていると思ってもいいだろう。被害者が場所にそぐわない不可解な傷を負っていたとしたら、警察も慎重になるはずだ。ラルヴァに支配された人間がやったと思っても良いかもしれない。
 だが、まだ銃などで襲われた可能性もある。まだ完全に悪霊の仕業には出来なかった。
 徴矢はセオに目配せをすると、賢吾と黒髪に詳しく話してくれるように頼んだ。
「他になんか言われたか?」
「んーん。黒い格好した不審者を見つけたら百十番百十番ってしか聞いてないよ。冬のテントウムシみたいに群がってたおばさんにも聞いてみたけど、それ以上わかんなかった」
「俺も賢吾から聞いたことくらいしか……」
 賢吾の嫌な語彙に顔を顰めたものの、礼を言い徴矢は興味のない素振りで話題を打ち切った。
 万が一興味を持って調べようとしている、なんて見られたら、黒髪はどうか解らないが賢吾は絶対に徴矢に付き纏うだろう。自分はセオが守ると約束してくれたから幾分かは大丈夫だろうが、セオは最初賢吾に嫉妬の目を向けていた。守ってくれるとは限らない。
 それにもし犯人がラルヴァでなかったとしたら、それも危なすぎてとても賢吾達を巻き込むような事は出来なかった。大切な友達をこんな危険な目に遭わせるわけにはいかない。
 一度顔を引き締めて、徴矢はにこりと朗らかな表情を故意に作った。
「ま、兎に角さ、黒髪は何もしてないんだから気にすんなよ。そうだ、昨日携帯配信された壁紙があるんだ、あとで黒髪にプレゼントしてやるから元気出せよ」
 兎に角今は黒髪を元気付けてやりたいと思い、徴矢は自分の携帯を振って黒髪に出血大サービスをすることにした。【デビマジ☆魔子ちゃん】は出版社の携帯ホームページに特集の欄を作って貰っており、会員になったら定期的に書き下ろし壁紙が貰えたりするのである。
 確か黒髪は携帯が月額制ではないから登録できない、と嘆いていたから、これくらいしか出来ないがプレゼントしてやれば少しは心が休まるかもしれない。
 勿論月ポイント制だから、プレゼントすると貴重なポイントが減って痛いのだが、同士のためならば致し方ない。一番ポイントの高い良質な奴を奢ってやろうと笑うと、黒髪は頬を染めて喜んだ。
「あ……ありがとうっ、徴矢……!」
「あー! ずっこいぞ、俺にもなんかプレゼントしてよスミー!」
 掴みかかって徴矢の服を伸ばさんばかりにぶら下がる賢吾に、徴矢はそっけなく顔を逸らす。
「お前別になんも気に病むことねーじゃねぇかよ。それに黒髪にプレゼントしたらポイントギリになるからヤダ。お前も会員なんだから自分で取れよ」
「徴矢ーっ俺の好感度が下がってもいいのかーっ」
「お前は食い物でもすぐ好感度MAXになるから攻略対象になんねーよ」
 一番落し易いキャラや、どれだけ嫌われる選択肢を選んでも最後の一つさえ間違えなければ容易にクリアできるルートなんざやる気がしない。それに、最初からある程度の好感度を持っていてそれ以下に落ちることのない賢吾になんて、プレゼントするのも面倒臭い。
 一番の親友をぞんざいに扱う徴矢に、セオはクスリと笑った。
「徴矢とケンゴって子、本当に仲がいいんだねえ。こっちまで楽しくなってきちゃうよ」
 いつの間にか賢吾に対して好意的な見方をしているセオに、少し驚きを感じたもののつい嬉しくなって、徴矢も頷きながら呟いた。
「ま、なんだかんだ言って親友だからな」
「す……スミ……いや、徴矢お前って奴は……」
「え?」
 真下から聞こえたセオとは異なる声に顔を下げると、ばたばたと暴れていた賢吾がいつの間にやらキラキラと目を輝かせながら、いかにも感動したと言う顔でこちらを見上げていた。
 何事かと凝視して、ようやく己の失態に口が引き攣る。
「あっ、い、今の発言は別にっ」
「もおおおお徴矢のツンデレええええ」
「ぎゃあああ離れろホモ田ホモ男おおおおお」
 一層深く抱きついてこようとする賢吾を両手で力の限り押し退けながら周囲に助けを求めるが、黒髪はあわあわと頬を染め慌てているし、セオは初対面時の嫌悪は何処へやったのやら微笑ましいとでも言いたげな目でじっとこちらに笑いかけていた。
(微笑ましくないっ、微笑ましくないからあああああ)
 タックル並の力で押し込んでこようとする賢吾に危機感を覚えながらふんばっていると、大仰な扉の開く音が聞こえた。
 思わず全員で音のしたほうを見ると、講師が壇上に上がって来ているのが見える。おふざけを止めてきちんと座ると、講師は周囲に「静かに」とでも言いたげな目配せをしてから一つ大きな咳払いをした。
 これから何が言われるのか、皆解っている。
 しんと静まり返った部屋で、講師が口を開いた。
「えー、君達ももう知っているだろうとは思うが……。昨夜未明、世門五丁目付近で傷害事件が起きました。犯人はまだ見つかっておらず、逃走中の模様です。刃物を所持している可能性があるらしいから、みなさん帰りは気をつけてください。人通りの多いところを通るようにね」
「センセー、ここの学生が被害者ってマジ?」
 空気の読めない、しかし徴矢たちにとってはありがたい質問に講師は顔を歪めたが、暫し考えて仕方が無いとでも言うように眉根を寄せて答えた。
「そうです。詳しい事は言えませんが、ここの学生である事は確かです。ですが、今回の件は通り魔らしいですから、余計な詮索はしないように」
 解ったら講義を始めますよ、と無理に話を打ち切った講師に、セオと徴矢は顔を見合わせた。
「通り魔って……」
 小声でセオにだけ聞こえるように呟くと、横の空気が僅かに動く。
「嘘っぽいね。何より、その程度なのにニュースにならないのがおかしいよ」
 この程度でも普通の人間にとっては普通に怖い事件なのに、一体セオはどれほどの被害を想定して言っているのだろうか。悪魔の物差しは随分広いのだなと悪寒を感じながら、徴矢は横目で黒髪を覗き見た。
 まだ怯えて、ノートを開く手すら微かに震えている。
 一歩間違えば、彼が犯人にされかねない。
(どうにかして、被害者とコンタクトとらねーとな……)
 徴矢は如何にして相手と会えば良いのか、ということを考えながらただボードに記される単語を適当にノートに映した。こんなもの、後で見返して解らないところは聞けば良いだけの話だ。
 それより今は、事実を確かめる事の方が重要である。
 シュミレーションゲームを行う時のように幾つもの作戦を頭の中で実行させながら、徴矢は講義になど耳を貸さず、どの方法が一番近づけるのかとそればかりを考えていた。





 通り魔が凶悪で危険、ということで、結局大学も昼前には講義を打ち切って学生を帰らせた。
 寮の学生は外出を禁じられ学園の門も閉じられたのだが、今、徴矢はその門の外側を悠々と歩いている。それどころか大学からはるか遠くの町中だ。
 今立っているのは、如何にもという佇まいの巨大な病院の前。
 作戦の要であるブツが入っている大きめのショルダーバッグの紐をぐっと握り締めて、徴矢は一度大きく深呼吸をした。
「それにしても上手くいったねえ、徴矢」
 隣できょろきょろと辺りを見回しながら言うセオに、徴矢は偉そうに鼻を鳴らす。
「まあな。それもこれも俺の孔明のような巧みな戦術があってのことだ」
 褒め称えろ、と背を逸らすが、実際そんな大儀な事はしていない。
 黒髪から被害者が自分達とかなり似通っている講義を選択していた事を予め教わり、そこから課題をよく出してくる講師に話し、「被害者に課題を持っていく」というありがちな作戦を実行しただけなのである。被害者の不良はかなり単位が危ないらしく、それを言うと講師達はホッとした様子で次々に課題をバッグに放り込んでくれた。徴矢が普段大学に持って行く教科書より量が多い。
 学生に持って行かせるのはどうか、と嫌な心配をしてくれる講師もいたが、友達が行く事で気休めになるかも知れないという徴矢の嘘っぱちに騙されてくれた。
 その上、危ないからと車で病院まで送ってくれたのだ。
「バス代浮いたし超ラッキー! 幸先良いな」
「うん、鉄の車ってよかったねえ、僕も欲しくなっちゃったよ!」
 セオは別の部分に嬉しがっているようだが、まあいいだろう。
 徴矢は周囲を伺って、それから病院内へと潜入した。
 一回の広い往診待ちのフロアには、人がごった返している。その中には大分元気そうな輩もいたが、多分報道関係者だろう。ちらちらとバッグや小さなカメラをあちこちに向けているところからして、やはり何かスクープだとは思っているらしい。気付かれないように上手く死角を辿って、徴矢は受付の看護婦に小さな声で問いかけた。
「あの、平川君の病室はどこですか? 俺、課題を渡しに来たんですけど……」
 そう言うと、看護婦はハッとして小さくうなづいた。
「ああ、電話で伺ってますよ! ちょっと待ってくださいね…………。ええ、508号室です」
 カウンターから乗り出して受付の奥を見ようとするセオにハラハラしていると、看護婦は小さな声でそっと答えた。どうやら彼女達も記者がいることは解っているらしい。
「そうですか、ありがとうございます」
 静かに礼を言い、その場を離れようとすると、看護婦は心配そうに付け加えた。
「そこいら中に記者がいるの、だから出来るなら後をつけられないようにして下さい。……平川さん、今は落ち着いているけど、いつまた怯えて昂奮し出すか解らないから……」
「わかりました」
 頷いて、平然としてエレベーターに乗る。
 くるりと振り返ると、閉まり始めたドアの向こうにじっとこちらをみる人間が数人いたが、わざと無視をして扉を閉めてやった。この場合、驚いたりする方が怪しまれる。
「……一階少なく押しとくか」
 もしかしたらまだ疑っている記者がいるかもしれないと思い、とりあえずはカモフラージュもしておくことにした。もし正直に五階まで乗って行ったら、平川という被害者の病室がばれるかもしれない。
「徴矢って偽装工作とか上手いね。いい悪人になれるよ」
「悪人に良し悪しがあってたまるか」
 冗談はよせ、と一蹴して四階で降り、階段で五階まで登る。階下には誰もいなかったから、多分バレてはいないだろう。しんと静まり返った五階の廊下を見回して、徴矢は件の病室にたどり着いた。
 確かに508号室だが、病室にいるだろう人間の名前が違う。
 一瞬どういうことかと思ったが、これも偽装工作かと思いついて納得した。
(しかし……それほど隠すだけ凄いことになっちまってんのかな……)
 思わずB級ホラーのグロ映像を思い出してしまいゾッとしたが、人を通すくらいだから大丈夫だろうと徴矢はノックした。
「……だ、誰だ……」
 奥から聞こえてきた怯えたような声に、徴矢はとりあえず身分を明かす。
「あー、俺大学から課題届けに来た、愛宕って奴なんだけど……。入っていい?」
「………………は、はいれ」
 一々第一声がつっかえる奴だな、と呆れたが、徴矢は刺激しないようにゆっくりとドアを開けた。
 意外と狭い個室のベッドは、寝ているものを隠すようにカーテンが引いてある。その中で怯えて震えている影に目をやって、徴矢は静かに戸を閉めた。
 このまま近付くと間違いなく叫ぶだろうなと感じたので、そのままそこに立ち徴矢はバッグの中から課題の一部を取り出して掲げて見せる。
「ほら。稲辺センセとか志渡里センセとかから預かってきた。お前単位ヤバいんだろ? もし元気だったら少しでも課題やってこいってさ」
「…………」
 ざっくばらんな徴矢の言葉に、平川は暫し閉口していたが、ゆっくりとカーテンを開いた。
「っ……!!」
 出てきた相手に、思わず瞠目する。
「…………あ、お前…………オタクの……」
 茶色でボサボサのライオンヘッド、ピアスのあとの残る耳、化粧を落した後のような嫌にこざっぱりした顔。それらは一瞬で黒髪を虐めていた人間の一人を思い起こさせたが、どうしても徴矢は平川に対して驚き以外の感情を向けられなかった。
 何故なら――――平川の体中、いたる所に、獣が肉に抉りこむように引掻いた爪痕が残っていたから。
「お前……大丈夫か……?」
 包帯が幾重にも巻かれているが、たぶんそこの下はもっと酷い傷があるのだろう。
 思わず安否を訊いた徴矢に、平川は少しだけ驚いたような顔をしたが、ふっと笑った。
「まさか、一番知んねーお前にお見舞いされると思ってなかった」
 存外嬉しそうに言う平川に、見舞いの菓子でも買ってきてやれば良かったかなと思う。黒髪を苛んでいたとは言っても、この場合では彼も被害者だ。大変な目に遭い、心身共に疲れ切っている人間を責めるなんて鬼畜な行為は、徴矢にはできない。
 椅子を持ってきて平川のベッドのすぐ横に腰を下ろすと、平川は照れくさそうに笑みを深くした。
「他に見舞いは来なかったのか?」
「なんも。ダチなんつってもさ、簡単だよな。怖いからって寄り付きもしねえの。母さんとオヤジと弟だけだよ、来てくれたの。メールもなんもはいってねってさ」
「そっか……」
 寂しそうに言う平川に、仄かに同情の気持ちが湧く。
 これが自分なら、賢吾はきっと見舞いに来てくれただろう。平川の立場が賢吾であっても、自分は必ず賢吾の好きな物を持って見舞いに来ようと思う。けれど、平川の友達は病院に来る事もせず、何も寄越しはしなかった。それは、要するにそこまでの友達、ということだ。
 全てのカタギの人間の友達という繋がりがこうだ、というわけではないだろうが、それでも平川の仲間はそこまでの繋がりだったらしい。
 無意識に顔を歪める徴矢に、平川は同じように顔を歪めて口を弧に歪ませた。
「……あのさ、黒髪に謝っといてくんね」
「え?」
「……俺さ、中学部時代は黒髪と結構仲良くしてたんだ。……でさ、まあ、よく解んなかったけど、黒髪の漫画の話とかも聞いてやってたんだ。まあ、俺もスラダンとかワンピ読んでたし、面白かったし、アイツと漫画のこと話してた時は楽しかったっちゃそうだったんだけどさ……なんかさ、ある時から急にキモイって思っちまってさ」
 よくあることだ。
 所謂、一般社会においての「普通」と称される人間からすれば、二次元の人間を模したキャラクターや、一般受けしないだろう漫画を集め愛する人間は「異質」で「非生産的」で「気持ちの悪い」人間だと言う認識が働く。
 突き詰めて考えれば、女が小物やキャラクターグッズを集めたり、男がバイクを熱愛したりするような一般的なコレクター精神と同じものなのに、まだ漫画は子供のもの、他のコレクションより一段下がるものと思われるものなだけに風当たりが酷い。性的な、あるいは神聖ではない偶像を崇める、という行為からして異質に思われる現代では尚の事だった。
 その上思春期から始まる「俺は大人」思考が加わると、その差別ぶりは酷いものとなる。
 皆少なからずとも二次元と接していたのに、それを馬鹿にし始めるのだ。
 何度か虐められた事もあってか、その辺の事は徴矢も充分解っていた。
「つかさ、なんで漫画でこんなに熱くなってんの、とか、キャラみて興奮すんのかよとか思ったら、ホント黒髪が変に思えてさ…………。今思うと、俺なんでそんな格好悪りぃこと考えてたんだろっておもうんだけどさ……でも、あん時はそれしか考えらんなくて……それで、無理に俺のダチと引き合わせて、財布とか……ひでぇコトしちまって……」
「今は、反省してるんだな?」
 静かに問うと、平川は顔を歪めて頷いた。
「俺だってさ、まだ漫画雑誌読んでるし……面白いって思う漫画だってあるし……。なのに、何で俺、そんなことで黒髪虐めてたんだろって……」
 心の底から反省しているのだろう。なんの繋がりもない徴矢に独白するくらい、平川は参ってしまっているのだ。人間、どこが転機になるか解らない。
 徴矢は微笑んで、平川の肩を軽く叩いてやった。
「じゃあ、早く傷治して、お前が直接言えよ」
「えっ……」
 思わず驚いて徴矢を見る平川に、徴矢は笑顔を崩さず言ってやる。
「黒髪は、凄く強い奴だ。……だからお前が本気で謝りたいって思うなら、きっと黒髪も許してくれるさ。俺も協力してやる。でもまあ、とりあえずは、お前が課題終らせて傷治してからだけど」
 さあ課題だ、とバッグを重くしていた全てを平川の前に差し出すと、相手は苦笑した。
「お前……オタクなのに変な奴だな」
「オタクだから変な奴なんだよ」
 それもそうか、と笑う平川に、少しだけ一般人への好意が上がる。
「俺さ、オタクってマジ暗くてキモイのばっかだって思ってたけど、なんかお前おかしいな。つか最初からタメ口とかマジやべーし」
「そりゃ一部の個人主義者だけだ、一緒にすんなって。これからはオタクも社交性、社交性よ」
 互いに理解しないから平行線を辿るだけなのであって、本当はオタクも一般人も理解を示そうと近づいたのなら、仲良く慣れるのかもしれない。まあ、理想論ではあるが。
 平川が興奮しないことをようやく確信して、徴矢はついに切り込むことにした。
「……ところでさ、平川」
「ん?」
「その傷、どうしたのか聞いて良いか?」
 嫌なら聞かない、と予防線を張ったが、誰か他人に聞いて欲しかったのか平川は身を乗り出した。
「そうだ……お前なら信じっかも」
「信じるって?」
 訳が解らず首を傾げると、平川は誰もいない病室を気にしてから話し始めた。
「俺、何度もケーサツにホントのこと話したんだけどさ、みんな信じてくんねーんだよ。こんなに俺の体に証拠残ってんのにだぜ? マジむかつくんだよあいつら。…………昨日の夜さ、俺まだ馬鹿で黒髪ボコるかなんてメール打ってたらさ、いきなり目の前に黒い人間が現れたんだよ」
 表現が下手でよく解らないがと相槌を打つと、平川は乗ってきたのか身振り手振りを交えながら口調をヒートアップさせた。
「なんかさ、アレ、バットマンみてーなすんげ黒い奴なんだよ。一瞬でヤベって思ったんだけど、なんでか体が動かねぇんだ。そんで慌ててたら、その黒い奴がブアーッって噴出したんだよ!」
「噴出したって……口から水を?」
 本気で問い返したら、平川は大仰にかくんと首を傾げた。
「バカっ! それ芸人! ちげって、アレだって! ほら、あの……えーっと……地獄谷? とかでお湯がバーってなる奴……」
「間欠泉?」
「そう! それみてーに地面からぶわってなってビックリしてたらよ、いきなりソイツの体ん中からなんかすんげー沢山ツメが出てくんの! マジだって! 嘘じゃねーからな! そのツメがな、全部俺に向かってドシュドシュ刺さって来て、俺本気怖くて、死ぬかと思って……!」
 軽い口調とは裏腹に、青ざめて自分の傷だらけの掌をじっと見る平川。その尋常じゃない震えようを見て、徴矢はセオと顔を見合わせた。セオは軽く頷いて、平川の方へすいと飛んでいくと、軽く平川に近づいて鼻を動かす。そうして、振り返った。
「……間違いないよ。ラルヴァは、出現する時に僕らにしか理解出来ない匂いを発するんだ。その残り香が、微かだけど彼にも残ってる。間違いなく、これはラルヴァの仕業だ」
 肩に戻ってきたセオに軽く頷いて、徴矢はやはりそうかと顔を引き締める。
 死者が出なかったことだけは不幸中の幸いだが、初めて起こした事件でこれほどまでに相手を痛めつけるなんて、どれほど憑かれた人間の感情は高ぶっていたのだろうか。
「初めてでここまで酷いなんて……次はどうなるか解らないよ、徴矢。ラルヴァは一つ悪を起こすたびに行為をエスカレートさせていく。もし次に誰かが襲われるのなら……命の保障は出来ない」
 囁くように言う悪魔に、思わず背筋が凍りそうになる。
 しかし必死に堪えて、徴矢は平然を装って未だに震えている平川の肩を優しく叩いた。
「……あ、愛宕……」
「俺は、信じる。……だって、じゃないとお前のその傷の説明なんて出来ないだろ。それに、今のお前は嘘つくような風には見えないし」
「さ、サンキュ……!」
 ぱっと顔を明るくする平川は、平常を取り戻したようでもう震えてはいない。
 なんとか興奮させずに済んだかと安心して、徴矢は手を離した。
「……なあ、平川。疑うようで悪いんだが、お前に恨みを持ってる奴とか、お前の友達関係とか教えてくれねーか?」
「え……なんで?」
 きょとんとする平川に、徴矢は言い難げに続ける。
「もしかしたら、その中に犯人がいるかも知れない。……絶対って訳じゃないけど、もしかしたら別の奴が狙われるかもしれないし……調べてみたいんだ」
「いいけど……お前、タンテーみたいだな」
 案外すんなりと教えてくれそうな平川に心中安堵の溜息を吐くと、徴矢はメモを取り出した。
「あとさ、このことは誰にも言うなよ。黒髪にも」
「おう」
 素直なのは良い事だ、とありがたい気持ちでシャーペンを鳴らす徴矢を見て、平川は苦笑した。
「なんかさ、良かった」
「え?」
 顔を上げると、平川は一層笑みを深く顔に刻む。
「黒髪、同じ仲間が出来てよかったなって」
「……そうだな」
 今微笑んでいる彼は、間違いなく黒髪と友達だった頃の平川だ。
 黒髪の味方でいてくれる人間だ。
 この事件は許せないが、けれどほんの少しだけ、黒髪に友達が戻ってきたことを考えたら事件が起こって良かったと思ってしまう自分がいる。本当は喜んではいけないことなのに。
(……俺、サイテーかも)
 心の中で自分の善悪の天秤が傾いている事を嘆きながら、徴矢はそれを隠して平川から情報を聞き出したのだった。





「……とりあえず、要注意は誰だと思う」
「うーん……仲間達、と……この店の店主とかは? なんかヒラカワ君も凄く嫌っているみたいだし、仲が悪そうだよ。マジぶっ殺すとか言ってたし……」
「まあでも、ブッコロとかただのフカシ言葉だったりするしなあ……本当に仲が悪いかどうか……」
 階段を下りて四階でエレベーターを待つ間、徴矢は小声でセオと犯人の目星をつけていた。
 セオが言うには、感情が高ぶった時にのみ現れるタイプの悪霊は、恨みや憎しみなどで行動する事が多く、必然的に被害者の周囲に存在してくるらしい。ドラマでよくあるタイプだが、そちらのほうが徴矢としても探し回る手間が省けて助かる。
 リストアップした人物の名前を見比べながら中々来ないエレベーターを待っていると、なにやら騒がしい声が聞こえだした。
「……なんだ?」
「あっちから聞こえてくるよ」
 セオが指差した方向は、突き当たりの壁に窓が並ぶT字路の廊下。
 病院で何を騒いでいるのかと耳を澄ませていると、左奥の方からバッファローの足音のような凄まじい音を響かせながら近づいて来る声が聞こえてきた。
「……あれ、なんかこの声……どっかで聞いたことのあるような……」
 嫌な予感を感じながら顔を顰めて音の主を待っていると、ようやくそれは姿を現した。
「だからどこですかあああ! 五階!? 五階なんですか!?」
「ちっ、違います! 五階には行かないでください!」
「もおおお俺お見舞いしたいだけなんだってお願いだから通してくださいいいい」
「で、ですから今は関係者以外の面会はああああ」
 受付で聞いた優しそうな看護婦の声が、よーく知っている騒がしい声と交じり合う。
 騒がしい声の持ち主は、丁度T字路の中心でジャンプしたが、看護婦は逃すまいとそいつのズボンを掴んで地面へと叩き落した。なんとも武闘派の看護婦である。
「徴矢……あ、あれって……」
 半眼無表情で呆然と事を見ていた徴矢に、セオが慌てたように指をさす。
 何事かと注視して、ようやく徴矢は目を剥いた。
「あっ……ああっ…………けっ、賢吾!?」
 叫んだその先には、目を回している自分の親友の姿があった。









    

   





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後書的なもの
 徴矢はそれなりに身なりが小奇麗な隠れオタなので
 基本的オタファッションであってもただの地味人間と見られます。
 つかまあ従来型タイプなオタクの方が今時少ないと思われるんですが
 (有明の巨大イベント時とか酷い時のアキハバラは含まない。)
 イメージって中々変わりませんよね。
 平川も平川でこんな物分りいい不良いねーよと思われる所も有りますが
 まあ、あれだ、ファンタジーなんで!ね!(…
 今回セオと徴矢がいいコンビっぽくなってるのは、作者の都合
 ではなく、あれです、一発やったらどうのこうの……いや、すんません



2009/07/14...       

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