二回目








  

 事の始まりは、ノートに何気なく描いた落書きだった。


「あれ? スミ、今日はサボらなかったのか」
 隣の席に座った男に顔を向け、徴矢は気の抜けた顔を机から引き剥がした。
 もう時間なのかと周りを見渡したが、広すぎる講堂には自分とその見知った男の他には誰も来ていない。やはりまだ授業が始まったわけではないようだ。
 今まで眠っていた頭を揺らして意識をハッキリさせながら、徴矢は頭を掻いて返事をした。
「んー、まあな。流石に何度もサボる訳にもいかんし」
「っていうか、やるゲームがなくなったんだろ」
 意地の悪い笑みでこちらをじっとりと見つめる相手に、徴矢はバレたかと笑う。
「いやー、最近欲しいエロゲがなくてなー。今持ってるのは粗方クリアしちまったし、じゃあもう仕方ないと、渋々授業に……」
「お前それ普通逆だろ」
 語尾に笑いを含む相手の言葉に、徴矢も同じように笑って肩を竦めた。まあ、確かにその通りである。しかし、徴矢にとっては講義授業よりも、エロゲ(十八歳以上が買っていい性描写があるパソコン用ゲーム)を攻略することのほうが大事であった。
 言っておくが、至って本気である。
 勉強なんて、単位さえ取れればギリギリの点数でも構わないのだ。授業はノートさえ取っていれば大体テストに解答を書ける。しかしエロゲは、答えは一つだけなどという甘っちょろいものではないのだ。様々な道全てがユーザーへの答えとなるのである。
 徴矢はエロ漫画が好きだが、最近始めたエロゲにもとても情熱を傾けていた。
 夢の二次元を体感できるもの、それがエロゲだ。男の欲望の象徴だ。
 まあエロ漫画とエロゲどちらがいいと言われれば漫画だが、しかしエロゲは徴矢のかけがえのない趣味の一つとなっていた。いまや生活の一部だ。
 嫌な趣味である。
「まあまあいいじゃないか、賢吾くん。俺がエロに情熱を傾けなかったら、一体俺は何だというんだい」
 そう芝居がかった声で問うと、賢吾と呼ばれた相手は大げさに腕を組んで空を見上げた。
「うぅーむ……さしずめ空気の抜けたダッチワイフか、穴の開いたゴムか」
「その心は?」
 おどけて訊く徴矢に、賢吾は難しい顔のままではっきりと言いやった。
「役立たず」
「うわ、ひっで」
 その言葉に、二人同時に笑う。普通人前で話すかという話題だったが、二人にとってはこんな話題が一番の盛り上がる話題だった。
 普通に服の話をしたり、他愛無い話題もしたりするが、やはり二人で話して一番楽しいのは二次元関係のもの。一般的にオタクだとか言われる類のものだった。
 実際、普段は徴矢も賢吾も一般人を装って暮らしている。普通の友達の前ではエロゲだなんて口にも出さないし、エロの話題はもっぱら三次元だ。だが、それは彼らにとっては本当に好きなものではなく、カモフラージュのための話題でしかなかった。
 徴矢にとっては、三次元など二の次だ。好きになる時は好きになるが、それは趣味嗜好になりえるものではない。普通に恋愛とかそういう類になる。だからこそ、本当に熱く語れるものではなかった。
 一般男子が熱く語るもの、それが徴矢と賢吾にとっては「二次元のエロ」なのだ。
 まあでも、その趣味が一般に受ける事などないと解っているから、徴矢並びに同じ趣味を持つ友はこうして同志としかこういう話をしなかった。
 女子にこの話を聞かせるなんて以ての外である。
 幾ら二次元が好きでも、可愛い女の子にはこんな話聞かせられない。
「そういやさ、あれはもう買ったのか?」
 賢吾にそういわれて、思わず何をと眉をしかめる。すると賢吾はにやにやと笑いながら、肘で澄矢を執拗に突いてきた。
「あれって何だ?」
「んもぅ、解ってるくせにぃー! ほら、アレだよ、『デビマジ☆魔子ちゃん』のエロゲ!」
 『デビマジ☆魔子ちゃん』とは、大きいお友達に大人気のエロ漫画である。
 悪魔魔法を使い、使い魔兼ペットの黒猫くーちゃんと共に人間を欲望の道へと導く美少女(ロリ風味)の覇道驀進物語なのであるが、そこはエロ漫画。魔子ちゃんが触手に憂き目に遭わされたり、男の魔の手に堕ちまくったり、果ては別の女の子とあれこれしたりと、物語よりもエロに重点を置いた今年最もエロい漫画と言われているのだ。
 因みに、徴矢と賢吾はこの漫画のディープなファンである。
 徴矢は趣味と同じとする賢吾の煌めいた目を見つめながら、どこか自慢げに鼻を鳴らした。
「ふっ……俺に抜かりが有ると思うか? 同士よ」
「じゃあ、くっ、クリアしたのか!」
 昂奮する賢吾に意地悪げな目を向けて、徴矢はふふんと顎に手を当てて笑う。まるで博士にでもなったような威張り具合である。
「俺にぬかりなどなーい! 全エンディングとイベントCGコンプ、ルート記憶、オマケ要素、プレゼントの暗号解き、そして応募まで全部済ませたわ!!」
 魔王笑いで胸を張る徴矢に、賢吾はまさに尊敬の眼差しを向けた。二人の周囲だけ異様にキラキラと何かが輝いている。
「すっ……スゲェ! さすがエロの化身! 欲望に忠実なエロオタク!! 発売から二日であの手厳しいゲームをクリアしたとは……で、で、どうだった!?」
 昂奮してきた賢吾に内容を話そうとしたが、背後から何人か生徒が入ってくる音が聞こえて、体をビクつかせる。一緒に固まった賢吾の肩を慌てて掴んで、徴矢は内緒話をするように口に手を添えた。
「いやー、内容は言う事なかったぜ。マジ抜きゲー。ストーリーとかあんま関係なかったわ。でもすげー内容だった。痛いの以外は何でもありっつーか」
「いいなーいいなー……俺金なくて買えねーんだよ〜。なあ、内容ちょっと教えてくれよ」
 言いながら、顔の前で両手を合わせる賢吾。
 彼はバイトをせず、親の金で清く正しく勉強をしているため漫画も数巻しか買えない。親の金で高いものを買うのが嫌なのか、今回のゲームを賢吾は買うことが出来なかったのである。
 親の金を使ってエロを楽しむのは幾らなんでもバツが悪すぎる。
 気持ちは十二分に解ると頷いて、徴矢は内緒話の陣を解くと、バッグからノートを取り出した。
 人が増えてきているが、まあ内容自体を話すことについてはエロ要素は無いので大丈夫だろう。
 シャーペンをカチカチと言わせながら、徴矢はノートに落書きを始めた。
「えーっとな、確か事の始めは魔子が悪魔召喚の魔法陣を間違えたことから始まるんだが……これはお前も知ってたよな」
「うん、雑誌の巻頭で紹介してたし」
「えーとそれでな、こんな感じの魔法陣書いちまって……」
 言いながら、徴矢は記憶に残る奇妙な魔法陣を書き始めた。
 二重の円、その中に回路図にも似た奇妙な模様、あるのかないのか解らない文字。もしかすると微妙に間違っているかもしれないが、だいたいこんな感じの形だった。
「それで、呪文まで間違って言っちまうんだ。そうしたら魔界じゃなくって『淫界』とかいう所の扉が開いて、そこからはもうお約束的な」
 もう解るよなと話をやめると、賢吾はうんうんと何度も頷いて更に目を輝かせた。
「あああ……なんつー好ましい設定なんだっ! 俺、絶対に家で手伝いして小遣い貰って買うわ! 絶対夏休み中に買う!」
 これだけの情報で楽しそうに出来る賢吾も凄いなと思いながら、徴矢はそんな相手に苦笑した。
 賢吾のこういう所も、徴矢が好きな部分だ。
 彼は同じ趣味を持つ良き親友として申し分がないほど、素直で優しい友達だった。一緒にいると楽しくなる。本来陰鬱で人に知られるのも恐ろしい趣味なのに、時代が変わったお陰とこんな親友がいてくれるお陰で、今は楽しくて仕方がない。
 性欲に前向きでいられるのは、同じ嗜好の人間がいてくれるからだ。
 本当にこの学園に来て良かったなと思いながら、徴矢は講師が来るのを見やって話を中断した。







 徴矢は大学生だ。
 だからエロ本も買えるしエロゲーも金さえあれば買える。自分の事は一人でやれるし、家から離れ寮で暮らしても別段寂しくもない。寧ろ一人の自由というモノが嬉しい。
 小さな部屋が自分の城のように思えて、大人になった気分にもなった。

 が。やはり、自慰行為を行った後は微妙に空しい気持ちになる。
 ティッシュで静かにその跡を片付けながら、マウスをかちりとならす。ゲームは次の場面に変わり、画面上の美少女はまた快活に話し始めた。今まで艶やかに喘いでいた声はもう無く、次の場面へと続くメッセージが次々に流れて来る。
 同じ場面で何度抜いたかは知れないが、終った後のなんとも言えない感じは表しきれない。
 エロは好きだが同時に空しいものだなとも改めて思い、徴矢は丸めたティッシュをゴミ箱へと放った。いつも通りにティッシュは青色のゴミ箱に綺麗な放物線を描いてストライク。
 するはずだったが。
「あ。……はずした」
 いつもなら九分九厘は堅いはずの投げ技が、今日に限って外れてしまった。予想外だ。
 面倒だなと思いながら、徴矢はとりあえずゲームを停止してティッシュをゴミ箱に捨てた。しかし、確実に入ると思っていたのにまさか外すとは。運の悪い日もあるものだ。
 溜息を吐きながら席に戻ると、徴矢は何となくそれからゲームを進める気にならなくてゲームを終了させた。画面がいつもの様に一般人ぶったものに戻る。
 そうすると何だかなにもかもが面倒に思えてしまって、パソコンの電源も落としてしまった。
 ゆっくりと席を立ち上がり、そのままベッドに転がる。
「……はぁーあ…………なんかだりぃ……」
 ごろごろと転げて、頭をカバンに軽くぶつけた。
 帰ってきた時にベッドに放り投げていたカバンをちらりとみて、徴矢は気だるげに中身をばっとベッドの上に撒く。カバンからはペンケースや本が散らばった。
 その中で、偶然一冊のノートが開いて落ちる。
 ノートには、今日の昼に落書きをした魔子ちゃんの間違えた魔法陣が描いてあった。我ながら下手だなと思いつつ、そのノートを拾って掲げ見る。
 自慰をした後は、微妙にエロ関係の物は見たくなかった。
 別に嫌いになった訳でもないし数分経てばまた萌え出すのだろうが、それでもこの数分はなんとなく罪悪感というか空しさというか、負の感情が湧いて楽しい気分になれない。
 ならしなければ良いとは思うのだが、そういう欲は残念ながら湧くのを止められないのだ。
 毎度毎度アホらしいよなと己を嘲笑いつつ徴矢はそのままごろんと横になった。
「しっかしカッコイイよな、この魔法陣。新手の模様だとか言ってタトゥーにしてもいいんじゃね?」
 この魔法陣だけなら充分センスが有る。今時のサイバーな感じを取り入れたとでも言おうか。
 グッズになればちょっと欲しいかもしれない。
 そう思いながら、徴矢は魔子ちゃんが間違えた呪文を頭の中で反芻した。
「『淫界』とかありえねーけど、そういう事態が起こったらちょっとおもしれーかもな。男にとっちゃパラダイスだったし」
 もしや、そういう世界になれば、こんな空しい気持ちも無くなるのだろうか。
「ま、二次元じゃなきゃ話になんねーんだけど。えーと、何だっけ?
【汝は巨大にして永遠なり、主よ。汝は終りにして始まりなり、主よ。汝は未来にして過去なり、主よ。我は今門の戸を叩きて願う、素晴しき欲を、素晴しき力を、素晴しきともを。さすらば我汝の永遠のともとなろう。もし私を奪うことが出来るなら】……だっけ? あれ、【もし我を失う事が出来るなら】? どっちだったか……えー……」
 暫く考えてみたが、まあ当然正確に覚えていないので解らない。
 その内面倒になって、徴矢はノートをベッドから放り出した。ばさりと派手な音を立てて、ノートが床に落ちる。どうせ何も起きないのだから復唱しても無駄だったが、まあ、なんかやってみたかったのだ。一人部屋なんだし、変な事をやってもいいだろう。
 バカらしいなと自覚しながら、徴矢はのそりと起き上がった。
「はー。ま、テレビも何もないし、コンビニ行って来ようかな。……まだ門限大丈夫だよな?」
 この寮は大学と一緒の敷地に在り、門限は大分緩い。けれど、少し町から離れた所にあるおかげで、コンビニさえも数十分歩かないと存在しないのだ。
 勿論敷地内に物を売ってくれる場所はあるのだが、徴矢の欲しいものは無い事が多い。
 故に、必然的に外のコンビニへと買いに行かねばならないのである。
「えーと、財布財布……」
 散らかした勉強道具をカバンに戻しながら、財布を捜す。だが見つからなくて、カバンをベッドの外に放ると、徴矢は机を探った。
「お、あったあった。えーと……残額は……」
 言いながら、財布の中をあわただしく探る。小銭入れに指を突っ込んで小銭の枚数を数えようとした途端、その中から五百円が勢い良く飛び出した。
 その五百円玉は、床に放りっぱなしにしてあったノートの上へと落ち、丁度魔法陣の中心へと身を横たえる。何だか凄くミラクルな感じだ。
 これは出先でいい事が有るかもしれないと思いながら、五百円を拾おうとした刹那……

 いきなり、五百円がずぶりとノートに埋まった。

「おぁあ!? なっ、何だこれ!」
 突然始まったイリュージョンに大きく驚きながら、徴矢は何が起こったのか解らずにその光景をただ見つめていた。その間にも、五百円はまるで底なし沼にでも落ちたようにずぶずぶとノートへ沈んでいく。五百円を飲む込む部分は、少しうねうねとしていた。ちょっと卑猥な想像だが、別の物に埋まっていくようにも見える。いや、そんな事を想像している場合ではない。
 はっとして、徴矢は慌てて五百円玉に手を伸ばした。
「俺の虎の子の五百円が危ねぇ!!」
 そう、今月はエロゲと漫画を買いすぎたせいか、残高がかなりヤバいことになっているのだ。五百円なんて大金はいつだって大事だが、今回ばかりはいつも以上に大事なお金だった。
 飛び掛るようにして五百円にダイブし、掴もうとした、が。
 五百円は、あと数ミリで手が届くという所で、ノートに吸い込まれてしまった。
「おうわぁああああ! 俺の命のように大事な五百円がノートに食われたあああああ!!」
 何という大飯喰らいのノートだ。一冊百円で買ったノートなのに贅沢すぎる。大人しく百円でも食っていればいいのに、主人の大事な大金である五百円を遠慮もなく食べてしまうとは、なんという恐れ知らずのノートだろうか。
 徴矢は混乱した頭で、だんだんと床を叩いた。
「この野郎おおおどうしてくれんだ俺の五百円ちゃん! 俺はお前をそんな風に育てた覚えはありませんよコンチクショ―――!」
 ノートだって育てられた覚えは無いだろう。
 だが徴矢は余程五百円を失ったのが悔しかったのか、今度は怒りを含んだ目でゆらりと体を起こした。どうでもいいが、ノート如きにここまで怒る男も気持ち悪い。
「くぅうう……五百円あればおにぎりが四個も買えるのに……四個も買えるのにぃいい!!」
 とても成人直前の男とは思えない悔しがりっぷりで、徴矢は頭を抱えて狭い部屋の中をゴロゴロと寝転げ回った。タンスやベッドに体が激突するがそんなのはもう関係ねえ。兎に角悔しくて、縦横無尽にゴロゴロと転がり続けた。

 その件のノートが、紫色の邪悪な光に包まれていたのも知らずに。

「って……あれ……? そういや、何で五百円がノートに……」
 今更そのことに気付き、ふとノートを見上げ――徴矢は大きく目を剥いた。
「な、な…………なんだ、これ……?!」
 ノートが、いや、正確に言うとノートの一部分がおどろおどろしい紫の炎に焼かれている。だがノートは焼ける事無く、ずっとぱたぱたと風を孕ませていた。
 やがて、ノートがふっと浮き上がる。
 思わず驚いて後退る徴矢に構わず、ノートは部屋の中空に簡単に飛び上がった。
 そしてその炎を全体へと灯し、魔法陣の書かれたページを開いたまま空中で安定する。見上げる徴矢は何が起こっているのか解らず、ただその光景を見つめるしかなかった。
 空に止まったノートの魔法陣が、白く光り始め、中心から黒く渦巻く煙が出始める。
 もしかして、ノートが焼けたのだろうか。そう思い、立ち上がってノートに手を伸ばそうとした次の瞬間。
 ――その煙は、唐突に竜巻へと変わった!
「うえぇええ!?」
 思わぬ脅かしに腰が力をなくし、その場にどすんと尻餅をつく。だが逃げ出す事はできず、徴矢は目の前で徐々に大きくなっていく黒い竜巻にただただ瞠目した目を向け続けた。
 轟音と共にノートが地面へ降りていく。それに比例するかのように、竜巻は大きく成長し続けた。
 けれども、何故か周囲の物がその竜巻の中へと吸い込まれることは無い。徴矢も風を感じていたが、引きずり込まれるような感覚は覚えていなかった。これはどういうことだろうか。
 おかしいと感じながらも何がおかしいのか未だ理解できず、徴矢はただぽかんと口を開けているしかない。現実に起こりえないことに、どうしても頭が理解を示す事はできなかった。
 竜巻が、天井にまで到達する。
 刹那、竜巻が鋭い音を立てて、唐突に中心から真っ二つに裂けた。
――!」
 割れた竜巻は風を巻き込んで、空気に溶けるように消え去る。
 だが徴矢の目はその割れた竜巻に注目する事はなく、別の物に釘付けになっていた。
 その、別のものとは
「…………僕を呼んだのは、君?」



 ノートの上に器用に立っている、悪魔だった。







 
 
   





Back/Top/Next







後書的なもの
 
九十九島にしては早い展開です。やはり最初にエロを持って来ると違うようです。
  因みに徴矢の住んでいる寮は、門限がかなり遅いです。
  それはいいのかと聞かれそうですが、ファンタジーなのでそこは……(おい

2008/06/15...       

inserted by FC2 system