No.12








 

「ってか……ここ、どこだ?」
 勢い任せで飛び出して気を落ち着けたはいいが、そのせいで啓一は道に迷ってしまっていた。
 自分でも馬鹿だと思ったが、あの時は気が立っていたから仕方ない。大体、そんな細かい考えが出来るようだったら部屋を飛び出したりなんかしていないだろう。
 どうしようかと周囲を見渡すが、三百六十度どこを見ても道が思い出せない。
 駄目元で高いマンションは無いかと空を見上げてみたが、高級住宅街なのかそんなマンションは腐るほどあって、どれが長坂の居るものなのか全く見分けが付かなかった。
「どうしよ……。えーと、思い出せ、思い出すんだ、オレ。確かオッサンの部屋はえーと……」
 確か階数は十階を超えていて、外廊下から繁華街を見渡せたような気がする。
 そうなると、まずは繁華街がどちらにあるのかを見つけた方が良さそうだ。
 啓一は一旦公園へと戻ってジャングルジムに登ると、どちらに繁華街が在るのかを探った。少し高い場所に上ったお陰で、辛うじて遠くが見える。
「おっと、あっちが明るい……かな?」
 この辺りは余程早寝の人間が多いのか、周囲は暗く家や道の外灯くらいしか明かりが無い。
 三方も同じく、微かに光っている所はあるが、星の光のように小さいものばかりでそれほど活気があるようには見えなかった。だが、啓一が目星を付けた方向だけは空が薄っすらと明るくなっている。あれほど光っているのだから、多分その方向に繁華街が在るのだろう。
 ジャングルジムから降りると、啓一は方向を確かめてから空が明るい方へと歩き出した。
「……にしても、すっげえ所だよなあ…………。どこ向いても広い庭に高い壁だよ。俺ん家なんて庭どころかプライパシー保てるような外壁もないっつーのに」
 羨ましいことこの上ない。啓一の家は某国民的アニメのような平凡な造りの家でかなりのボロ屋だったから、囲いはあれどこのように強固で高い壁では無いのだ。
 こんな家の子供だったら自分の部屋も有るし幸せだろうな、と思い、啓一は苦笑した。
「何考えてんだろオレ、今それどころじゃねえよな」
 けれども、こんな意味の無い事を考えたのは久しぶりな気がして、悪い感じはしない。
 いつもの日常に戻ったようで、気が休まった。
「……あー……。そっか、今非常事態なんだよなあ……」
 ここ二日間で、啓一の周囲は目の回るようなスピードで変化した。
 始めは、恋人の死。そして唐突な拉致。
 そのせいで住み慣れた家に帰れなくなり、日常のすべては奪われて、落ち着かない内に恋人の死の真実を聞かされた。そのせいで心の中はぐちゃぐちゃになって、急降下急上昇の繰り返しを強いられて、心臓もはち切れてしまうような感じた事のない感情ばかりを味わわされて。
 まるで気の休まる暇も無かった。
 助けてくれた男は変なムカツクオッサンで、犯罪行為もお構いナシの裏世界の住人で。
 本気で喧嘩して、本気で叱られて、本気で謝りたいと思った。
 ――――こんなこと、初めてだ。
 何もかもが急転直下の衝撃で、体験したこともない初めてのことだった。
「そういやオレ、誰かと本気で喧嘩したことない、かも……」
 多々苛つくことはあったが、時間が経てば全てがどうでも良くなる性格の啓一は今まで本気で怒ると言う経験がなかった。親とだって、本気で言い合ったりなどしなかったのだ。
 けれど、長坂には本気で怒った。
 勿論自分が悪いのだが、それでも、啓一はあれほど怒った覚えが無い。怒りで周りが見えなくなってしまうことなんてなかった。それほど、長坂には自分の感情をぶちまけていたのだ。
 孝太郎にさえ、あんなに感情をぶつけたことなどなかったのに。
「…………オレ、そういや本気で孝太郎さんに何かを伝えた事ってあったかな」
 孝太郎の事は、本気で好きだった。
 ……けれど、その本気を自分は一度でも伝えた事があっただろうか。
 恥も外聞もなく叫んで、感情に任せて顔を歪め、自分でも自分の言っている事が解らなくなるほど興奮して。
 そんな風に、孝太郎に何かを伝えた事はあっただろうか?
「………………」
 考えて、啓一は目を伏せた。
「もっと、伝えてれば良かったな……」
 孝太郎は、いつも一生懸命に自分に気持ちを伝えてくれていた。それが最高の表現だと一目で解るくらい、体一杯に気持ちを満たして、自分を抱き締めてくれた。
 だが、啓一はその思いに抱きつき返すことしかしなかった。
 自分の本気の言葉なんて、一言も伝えていない。
 ただ孝太郎の好意に甘えて、その優しさに酔っていただけだった。
 もし自分が一回でも孝太郎に本気の気持ちを伝える事が出来たのなら、啓一の今置かれている立場も大きく変わっていたのだろうか。
 ――――孝太郎も、死ぬ事はなかったのでは無いか。
 そこまで考えて、馬鹿らしいと自嘲した。
「ホント馬鹿みてぇ……。落ち込むのは止めようって決めたばっかなのにな」
 一人で居ると、まだ思い出してしまうらしい。
 こんなことではいけないと拳を握って、啓一は一度大きく深呼吸をして肺の空気を入れ替えた。
「よしっ、もう考えんのやめやめ! それよりさっさと帰らないとな。あのオッサン、絶対怒りまくってるに決まってんだから」
 兎に角今はアジトに帰って長坂に謝るのが先決だ。後悔して思い悩むのはこの件が終った後に何度でも出来る。孝太郎の死を解き明かせるのは、今しか無いのだ。
 落ち込んでいてはまた何も出来なくなる。
 気合を入れた啓一は、鼻息荒く繁華街の方向へと足を速めた。
 空の光を見失わないように何度か道を曲がっていると、見覚えのある道に出る。長坂の車で通った道だ。ここからなら、少し遠いがきちんと辿り着けるだろう。
「良かったー……えーっと、ってことはあのバス停を……」
 真っ直ぐだったかな、と独り言を言おうとした時。
 バス停の前に立ち止まっている人影に気付いた。
(……ん? ……何で突っ立ってるんだろう? ベンチそこにあんじゃん)
 バスを待っているのかと思ったが、その人影はバス停に体を寄せるようにして立ち辛そうな姿勢をしている。そんなに辛いのなら座っていればいいのにどうして立っているのか。
 一瞬病人かとも思ったが、じっとしている人影を見て啓一は考えを変えた。
 あのように寄りかかってじっとしているということは、寝ているかそうでもしないと立てないからだ。ということは、あの人影は酔っ払いか残業帰りのサラリーマンだろう。
 寝ないように立ってバスを待っているのだ。
(こんな所でも酔っ払いとか残業リーマンっているんだな……)
 高級住宅街に深酒の酔っ払いか疲れ切ったサラリーマンとはまたミスマッチだが、不況だからそういうこともあるかもしれない。
 何にしろ構わない方がいいと判断し、啓一はさっさとその人影の後ろを通り過ぎようと歩幅を大きくして歩き出した。ああいうのは一度目をつけられたら厄介だ。
 こちらに気付いてくれるなよ、とバス停に近付き、すれ違う。
 予想に反して人影はこちらに気付く事はなく、啓一は難なく通り過ぎることが出来た。
(……なんか簡単すぎね? ホントに酔っ払いなのかな、あの人……)
 よく見れば、何だか痙攣している……気がする。
 もしかして病気か何かで発作を起こして動けないのかもしれない。
(うーん……)
 本当は他人に目をかけている立場でもないのだが、もし放っておいて死なれでもしたら夢見が悪い。それにこの時間帯では人も殆ど通る事もないだろうし、万が一が起こったらと思うと足が止まってしまう。
 数秒考えたが、やはり放っておく事が出来ず声をかけて見ることにした。
「あのー……大丈夫ですか?」
 近寄った人影は、体格や服装ですぐに男だと解った。しかし、相手はバス停に顔を伏せるようにして震えていて、どんな人間なのか解らない。相変わらず震えているし、ちょっと不気味だ。
 逃げたくなったが、声をかけて逃げるのは幾らなんでも無責任だろう。
 もう一度意を決し、啓一はその男の肩を叩いた。
「具合でも悪いんですか? 救急車とか呼ばなくて大丈夫ですか?」
 すると、ようやく男は丸めていた背を伸ばして、こちらにゆっくりと振り返った。
「あ……ああ、すいません……。なんでもないんです、大丈夫ですから……」
 鼻を啜る音と、弱々しい涙声。
 対岸の街灯の明かりに仄かに照らされた顔は、仄かに赤くなっている。相手は泣いていたようだ。
 だが、そのことに驚くより先に、啓一は目を見開き声を漏らしていた。
「あんた…………!」
「えっ…………あ……! 君は孝太郎の……!」
 相手も気付いたのか、泣き顔から心底驚いたような顔に変わる。
 啓一も同じような顔をしながら、目の前の相手の事を思い出していた。
 細面の、少し女顔っぽい容貌。背は高いが、細くて頼りなげな体格。そして、少し愁いを秘めたようなその表情。啓一は、一度だけその容姿をした人間に会った事があった。
 孝太郎の勤務していた、大学病院で。
「あん……あ、貴方は……確か坂目さん……!?」
「君は……えっと……啓一君、だよね? どうしてここに?」
 そう、啓一の目の前に居たのは、孝太郎を専属の技師としていた内科医の坂目だった。
 警察にマークされているとしか聞いていなかったし所在も知らなかったが、まさかこんな所で会うとは。驚く啓一に、坂目は瞬きを繰り返しながらその目を拭う。
「えっと、君……この近くの子だったのかい?」
「あっ……え、えと、そうじゃないんですけど……その、と、友達の家に泊まりに来てて!」
 うっかり本当の事を言いそうになったが、なんとか踏みとどまって(啓一にしては)巧い嘘をつく。バレやしないかと変に不安になったが、坂目はそれを信じたようで頷いていた。
 孝太郎ととても仲の良かった人物だけあって、坂目の性格もどことなく孝太郎に似ている。
 人を疑う事もしない相手の行動は、自分の恋人を思い起こさせた。
「そっか……でも、凄い偶然だね。…………そうだ、あの、ちょっと付き合ってくれないかな」
「えっ?」
「君の友達の家ってこっちかな? あの、だったら、途中まででいいから僕と一緒に歩いて欲しいんだ」
 突拍子のない事を言われて固まったが、坂目は啓一がそうなることを解っていたのか、自嘲っぽく笑って頬を掻く。
「……実は、ちょっと怖くってさ。ほら……なんて言うんだろう。…………なんだか、よく解らないんだけど……彼が居なくなったらどうもね」
 感情が表現できないのか坂目はもどかしげに手を動かしたが、言葉すら整理する事が出来なくて溜息をついて肩を落とす。何も伝わらないような言葉だったが、何故か啓一には不思議と坂目の言いたい事が理解できる気がした。
 要するに、坂目はどうしようもない空虚感と不安に怯えているのだろう。
 坂目にとっても孝太郎は大事な相棒で、かけがえのない人間だったに違いない。
 大学で一度見ただけでも、坂目と孝太郎のコンビは唯一無二のもののように思えた。嫉妬する事もなく素直に啓一がそう思うくらい、二人は固い友情で結ばれているように見えたのだ。
 だからこそ、坂目も辛いに違いない。
 突然相棒を失い、今の今まで警察に尾行されて事情聴取をされて、孝太郎の死を悼む暇もなかったのだ。そんな時に冷静で居られる方が無理だろう。
 啓一ですら、あれほど取り乱していたのだから。
(ああ、そっか……。だから泣いてたんだ、坂目さん)
 親友がいなくなった事が悲しくて、どうしようもなくて、泣く事しか出来ない。
 怖くて不安で、胸に穴が開いたようで、苦しくてたまらなかったのだろう。
「駄目かな……」
 遠慮がちに言う坂目の目は、まだ涙の名残で潤んでいる。
 大人なのに情けないと思うより先に同情の思いが湧いて、啓一はいつの間にか頷いていた。
「いいですよ。不安ですもんね」
 自分だって完全に立ち直ったわけでは無いが、それでも落ち着いてきたほうだ。
 坂目も孝太郎が大事にしていた人間の一人。だから、出来るなら慰めてやりたかった。
「ありがとう! ああ、良かった……何だかホッとしたよ」
 言いたい事を啓一が理解したのが嬉しかったのか、坂目は安堵の表情で笑う。
 啓一には付いて行ってやることしか出来ないが、そうやって笑ってもらえると相手を助けられたような気持ちになって何だか嬉しかった。
 少しでも人を慰めることが出来たと思ったら、心に余裕が出てきたようだ。
 互いに微笑んで心を落ち着かせてから、啓一は坂目とゆっくりと歩き出した。
 街灯の明かりだけが照らす道は、昼間とは違って酷く寒々しい。整備された美しい道も、夜になれば無機質でどこか怖気を思わせるような道にしか見えなかった。
 まるで、この世界には自分と坂目しか居ないように思える。
 暫し無言でその道の先を見つめ歩いていたが、不意に坂目が啓一に問いかけて来た。
「啓一君は、確か孝太郎の友達の弟さんだったよね」
「あ、はい」
 病院で検査を受ける時、予め孝太郎と示し合わせて自分達は他人だという事にしていた。
 別段示し合わせる必要もなかったのだが、いつかそういう事もあるかもしれないと考えて、二人であれこれ設定を練って、演技の練習もかねてそういう関係を演じていたのだ。
 だから、坂目には啓一と孝太郎が恋人同士だったとは知られていない。
 ただ友達の弟だという認識しかないだろう。
 苦もなく返事をした啓一に、ふわりと微笑んで坂目は再び遠くを見つめた。
「……僕ねえ、まだ信じられないんだ。…………今まで警察で散々事情を聞かれてたんだけど、どうしても孝太郎が死んでいなくなってしまったって、信じられないでいるんだよ」
 啓一の見やる坂目の横顔は、微かに頬笑みを湛えている。けれど、目は悲しそうに揺らいでいた。
「おかしいよね、葬式だってあったんだし、もう病院にも籍は無いのに。でも、朝診察室で座っているとさ、ふと隣に孝太郎がいるような錯覚に陥ってしまって、たまらなくなるんだ」
「…………」
「いつまでもこんなことじゃいけないって、解ってるんだけどね」
「……そう、ですよね」
 坂目の言う通りだ。
 このままでは、何も進まない。
 自分のように魂の抜けた日々を送っている坂目を見て、啓一はようやく自分を省みたような気がした。坂目は、今日までの自分だ。大事な人間が唐突に居なくなった事に耐え切れず、その死を信じる事も出来ず蹲っていただけの自分なのだ。
 このままではいけないことを解っているのに、一歩踏み出せない。
 自分の身に降りかかった悲しみを受容できないでいる。
 そうしてまた自分で作った殻に閉じこもって、延々悩み続けているのだ。
(……そうだよな……このままじゃいけない。いつまでもこんなんじゃ、駄目なんだ)
 優しい幻影を思い出すだけなら、一生幸せに暮らせる。
 けれど、それだけでは何も解決しないのだ。
 ――――気を張って無理にでも笑って行動しろ。
 長坂に言われた言葉が急に心の中に浮かんできて、啓一は緩く苦笑すると道の先を見つめた。
(オッサンの言葉で感化されんのは癪だけど、その通りなんだよな)
 失った物はもう戻ってこない。
 優しい幻影に縋り続けるだけでは、一生先には進めない。
 前を見据え歩き出さなければ、悲しみも消えはしないのだ。
「啓一君も……孝太郎が亡くなって辛かったよね」
 不意にそう同情めいた言葉を言われて振り返ると、坂目は泣きそうな顔でこちらを見つめていた。
 一瞬答えに迷って、微かに苦笑したような顔のままで小さく頷く。
 けれど、啓一はもう辛くはなかった。
「辛かったです。……でも、いつまでも孝太郎さんの事を思ってじっとしてても、何も始まらないから。……だから、オレは大丈夫です」
 散々「泣く事は後からでも出来る」と自分に言い聞かせた。涙も枯れるまで流した。
 だから、今度は行動する番だ。
 啓一のその言葉を坂目はどう受け取ったのかはわからなかったが、相手は啓一と同じように少し苦しげな微笑を浮かべると、小さく頷いた。
「……そうだね。うん、そうだよね。…………啓一君は強いなあ……」
「そうでもないですよ。オレだって、すげー泣いて、結構迷惑かけたから」
 本当に良く泣いたと思う。もし自分が長坂の立場だったら、こんな自分は見捨てていたかもしれない。それを思うと、また少しだけ長坂に罪悪感が沸いた。
 あんな色情魔に謝りたくは無いが、やはり大人として謝罪はしておくべきだろう。
 助けてくれていたのは、事実なのだから。
 頭の中に長坂の顔が浮かんできて、啓一は何だか少しだけ寂しさを覚えた。
(……何か急に早く帰りたくなったな……)
 帰るとは言っても、自分の家ではなく、長坂のマンションなのだが。
「そっか……うん、そうだね。啓一君が頑張ってるのに、僕が頑張らないのは大人気ないよね。……よし、なんだか元気が出てきたよ」
 憂いのない優しい笑みを浮かべて、オーバーアクションで体を動かす坂目に、啓一も大いに苦笑して顔を綻ばせた。やはり、坂目は孝太郎の相棒だ。
「坂目さんも、あんまし無理しないで頑張って下さい」
「ありがとう。……あ、そうだ! ねえ、アドレス交換しないかい?」
「え? あ、はい、いいですけど」
 急な申し出に戸惑う啓一に、坂目は性急だったかと困り笑いに顔を歪めた。
「あ、あはは、ごめんね急に。いや……なんだかさ、啓一君と話してると元気が出てきて嬉しくってね。もし良かったら、僕も孝太郎みたいに友達にして欲しいんだけど……」
 駄目かな、と少ししゅんとする相手に、啓一はとんでもないと手を振った。
「駄目じゃないですよ! オレでよかったら、坂目さんの友達になりますよ! あ、ほら、坂目さんイケメンだから、合コンとか来てくれるなら是非!」
 って何を自分は言ってるんだと慌てたが、悲しいかなこれ以上の慰めの文句が思い浮かばない。
 兎に角相手がまた落ち込まないようにと焦っていると、坂目はそんな啓一を見て嬉しそうに笑ってくれた。
「こんなオジサンでよかったら、喜んで。あ、じゃあ通信で……」
 そうして微笑んでくれると、何だか光の加減も相まって相手が少し女性に見えてくる。
 とりあえずは喜んでもらえてよかった、と携帯を開いて、啓一は眉をしかめた。
「……って、しまった……オレの携帯充電が……」
「そっか、困ったな…………あ、じゃあ名刺でいいかな? 充電したら、僕に空メールでもいいから送ってよ。いつでもメールしていいかな」
「あ、はい! 遅れても返しますんで、よ、宜しくお願いします」
 名刺を渡されてメアド交換なんて初めてで何故か緊張してしまう。
 少し強張った手で名刺を貰うと、相手は嬉しそうな顔を更にくしゃりと歪めて満面に笑みを湛えた。
「宜しくね、啓一君。……おっと、僕はここから右なんだ」
「え?」
 急にそういわれて周囲を見渡すと、いつのまにか啓一達は大きな十字路に差し掛かっていた。
 見覚えのある道だ。長坂のアジトは、確かここから更に直進して角を曲がった所だった気がする。
 空を見上げると、やはり見たことのあるマンションが正面に聳え立っていた。
「あ、オレ真っ直ぐです」
 これで帰れる、と顔を明るくすると、坂目は少し残念そうに口を弧に曲げた。
「そっか。じゃあ、メール待ってるね。あ、それと夜道は危ないから気をつけてね、ここらへんも最近物騒で、物取りとかいるみたいだから……知らない人に付いて行っちゃ駄目だよ」
 何だかやっぱり孝太郎と似ている。
 今時の高校生にこんなこと言うのは、孝太郎かこの人くらいだろう。
「はい、気を付けますね! じゃあ、ありがとうございました」
 道を分かれて手を振ると、坂目は律儀に振り返してくれる。
 そのまま去っていく姿を見ながら、啓一は一度大きく深呼吸して息を整えた。
「なんか、スッキリしたって感じかも」
 坂目と話した事は他愛無い事だったが、心の靄が晴れたような気がする。
 これでようやく自分も長坂に弱い所を見せる事無く、歩いていけるかもしれない。
 そう思うと急に空や道が明るくなったような気がして、啓一は気が逸っているのを示すかのように早足で道を進んだ。先の道を曲がれば、もう長坂のアジトだ。
 少し小走りになって角を曲がると、マンションの入口に誰かが立っているのが見えた。
「あ……」
 思わず、立ち止まる。
 街灯の明かりに照らされたその男は、何かに気付いたようにゆっくりと周囲を見渡す。
 そして、ようやく啓一に気付いた。
 顔が見えなくても、姿だけで解る。
「あいつ……」
「おいっ……!」
 立ち竦んでいる啓一に、相手は駆け出すように地を蹴った。
 まさか、自分が帰って来るのを待っていてくれたのだろうか。あんなに自分勝手な事を言って困らせて飛び出したのに、それでもまだ自分を守る気でいてくれたのだろうか。
 孝太郎に「守って」といわれて、金にもならない仕事で守っているだけだというのに。
 それが孝太郎のためか、啓一のためなのかは解らない。
 けれど、何故かその事が急に胸を締め付けて、啓一は相手が走り寄って来るのを見つめるしかなかった。
 オッサン、と口をつきかけて、言葉が喉の奥に戻る。
 次第に見えて来た相手の必死の形相に、声は違う言葉を発しようとしていた。
「長さ……」
 走り寄る相手に手を伸ばし、名を呼ぼうとした、刹那。
 啓一のすぐ後方から、鼓膜を引き千切るような大きくて不快なブレーキ音が響いた。
「ッ!?」
 何が起こったのかと振り返ろうとするが、何かを叩き付ける様な音の後に体を誰かに抑えられて先に足をとられた。腹部を圧迫するように腕で引き寄せられて、思わずえづく。
「啓一ッ!!」
 誰かに名を呼ばれたと顔を上げると、視界には車内。そしてその先には、必死にこちらに走り寄る長坂の姿があった。思わず体が傾ぐが、行かせまいと自分を拘束している腕が一層車内の奥へと引きずり込む。啓一には何が起こったのか解らなかったが、これだけは理解できた。
 また自分は、馬鹿な事をしてしまったのだ。
「オッサン……ッ!!」
「啓一ーッ!!」
 自分をガキ呼ばわりしていた長坂が、必死の形相で自分の名前を呼んでいる。
 その声に答えたかったが、口を塞がれてドアが閉められた。
「んゔ――――ッ!!!」
 思い切り名を呼ぶが、顎を押さえつけられて呻き声しか上げられない。
 金属をすり合わせるような嫌な音を立て、車は猛スピードでその場から発進した。だが、車内にはカーテンがかけられていて啓一には車がどの方向へと走り出したのか解らなかった。フロントガラスを見ようとしたが、後部座席と運転席の間には色のついたアクリルガラスがはめ込まれており、景色を見る事は出来ない。
 必死に目を動かして長坂の所在を探すが、とうとう見つける事は出来なかった。
 遠くで、自分を呼ぶ声がする。
 けれども、その声はすぐに消え去ってしまった。
(どうしよう……)
 この状態で逃げることなんて不可能だ。後部座席はシートが倒してあるのか広いが、逃げるには狭すぎる。どうすればいいのかと自分の口を覆っている手を意識して、啓一はやっと自分を捕らえている物が複数いる事を理解した。
(嘘だろ? どうやって逃げれば……)
「手間取らせやがって……やっと捕まえたぜ」
 焦る耳に、聞いた事のない低い気味の悪い声が届く。
 今まで認識出来ていなかった自分を捕らえている者達を見て、啓一は青ざめた。
「今からいい所に連れて行ってやるから、大人しくしてろよ」
 にやにやと笑う、自分よりも大柄な男達が、三人。
 皆一様に下卑た表情で、それぞれが啓一の体を拘束していた。
(こいつら……っ)
「ま、大人しくしてなくても、大人しくさせちゃうんだけどねえ〜?」
「んぐっ?!」
 口を覆っていた手が離れたかと思うと同時、口と鼻に妙な臭いのする布を押し当てられる。
 咄嗟に脳が危険と判断し息を止めたが、それに気づいた男達は啓一を揺さぶった。
「オラッ、吸えよ!!」
 ドゴッという音が腹に響いて、強烈な痛みが体中を駆け巡る。思わず息が漏れて咳き込んでしまい、とうとう啓一は臭気を吸ってしまった。
 必死にこれ以上息をすまいと喉を絞めようとするが、腹部の痛みが強くて咳き込むことしか出来ない。男達の拘束が解けた後でも、啓一は臭気を大量に吸ったままシートに崩れ落ちて蹲るしかなかった。
 痛い。痛くて、視界が霞む。
 体が動かない。
「悪く思うなよ? これも命令なんだ」
 気持ちの悪い笑みを浮かべた男達が、痛みに震える啓一の体を仰向けにする。
 啓一の視界に映った男達は、最初に自分を連れ去った男達とまったく同じ表情をしていた。










  
   





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後書的なもの
  再び連れ去られる啓一。
  長坂がなんで待っていたかというのは次回に……。
  

  

2010/09/12...       

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