No.05








 

 俺を満足させろ、とはどういう意味だろうか。
 喰うとは何を食うのだろうか。
 自分は一体どうなってしまうのだろうか。
 一瞬の内に頭に浮かんでは速攻で消える疑問達に、啓一は青ざめて頭を振った。一瞬で消えたのは、解らなかったからじゃない。解りたくなかったから、あえて消し去ったのだ。
 それほど啓一には今の状況が恐ろしいものだと理解できていた。
 孝太郎に前に聞いた事がある。
 ゲイの間では、刑事の隠語やコギャル語のように特殊な言葉が使われており、こういう世界に生きるとなれば最低限の単語は知っておかないと色々面倒な事になるのだと言う。ゲイ用語と言われるその単語達は啓一にとって微妙に理解しがたいものだったが、ある程度は教えられて覚えていた。
 長坂の言った、バイ、バリタチという言葉は、まさに教えられたものだ。
 バイは女でも男でも抱けてしまうという、言ってみればフリーダムな人間の事。
 バリタチ、とは……。
(確か……掘ることしかしない、完全な男役…………)
 ということは。
「お、お、オレ、掘られるのか!!?」
 長い時間をかけてようやく理解した脳を揺らしながら驚くが、長坂は胡散臭い笑顔を浮かべると、表面上は機嫌が良さそうに装って口を歪めた。
「お前、マジでバカだな。……わかってんなら大人しくしとけ」
 言いながら啓一の乳首を抓む相手に、啓一は目を吊り上げて激しく抵抗した。
「っざけんなゴーカン魔! 放せゴーカン魔ゴーカン魔ゴーカン魔ゴーカン魔ぁああ!」
「だ――――っ! 煩っせぇぞ脳味噌スポンジ! テメェもアイツに掘られる覚悟出来てたんだろうが、いつまでたっても操立てなんざ古くせぇんだよ! 俺に守られるンだったら大人しくやらせろ!」
「ひっ……!」
 また怒鳴られ今度は股間を強く握られる。思わぬ攻撃に啓一は息を呑み言葉を失った。
「大人しくしてりゃ可愛がってやっから、目でも閉じてろ」
 あの男達がやったのと同じように長坂はズボンの上から啓一の自身を揉みしだき始める。しかし長坂の指は男達よりも巧みで、数秒もしない内に啓一のそこには熱が生まれ始めていた。なるほど、バイとは経験豊富なものらしい。自分だけが知っているようなツボも、数回探る内に相手は心得たようで執拗にそこを掠めながら啓一を追い詰めていった。
「ば、かっ……やめ、いやだって……!」
「半勃ちして顔真っ赤にしてるくせに何言ってんだよ。まずは抜いてやっから暴れんな」
 痛い事実を突かれて言葉を失った啓一を嘲ると、長坂はベルトとズボンを稀に見る速さで抜き取り、啓一のトランクスの間から指を侵入させた。
 内股に伝わる相手の指の感触が、恥しさを募らせて更に感覚を鋭敏にさせていく。
 その指先だけは酷く慎重で、ゆっくりと柔らかな肉を確かめるように指先を沈めながら目的の場所へと這い寄って来る。そんな感覚がたまらなくて、啓一はぎゅっと目を瞑った。
 思えば、付き合っていた彼女はこんなことはしなかった。
 上手いか下手かも解らないままの行為に、それでも健気に声を上げて、ただされるがままに抱かれていた。決してこんなことなどしなかった。そう、今の啓一のように。
 孝太郎だってそうだ。
 何度もキスをしたが、彼は決して体には触れてこようとはしなかった。
 今思えば、少しの糸口が生まれただけで欲望が一気に溢れてしまいそうだったから、そうならぬようにしていたのだろう。だが啓一にとって彼は清く純粋な恋人だった。
 誰も、こんなことなどしてこなかった。
 なのにこの男は己の欲望に任せて啓一を押し倒し、自由まで奪って辱めようとしている。
 知らぬ奴になど触れさせた事の無い部分を、我が物顔で這い回っているのだ。
 孝太郎すら、触れてこなかったのに。
「死ね、お前なんて死んじまえ……っ」
 強く言い切ってやりたいのに、内股をゆっくりと登ってくる指に声が弱くなる。
 苦しげに顔を歪めた啓一を見て、長坂は口を弧に歪めた。
「そんな喘ぎ声、初めて聞いたな」
 軽く言いやって、長坂は陰嚢の下辺りを指でつっとなぞった。
「い、ぁっ……!」
「腕も足も押さえつけられたくなかったら、大人しくしてろ」
 あの男達とちっとも変わらない言い草。
 やっていることもまるで同じだ。
 これでも少しは助けてくれたのだと思っていたのに、なのに啓一の心を裏切ってこの男はあの男達と同じような事をしようとしている。啓一が最も望まない事を、無理にやろうとしているのだ。
 孝太郎の、親友のはずなのに。
(何だよ、何だよコイツっ……! 孝太郎さんの親友だっていうから、少しは信用してたのに……助けてもらったお礼だって、いつかは言おうかなって思ってたのに……!)
 まるで正反対とでも言いたくなるほど、孝太郎と長坂は違う。
 自分の恋人はあんなに慎重で優しくていつも大人だったのに、長坂は自分のように子供じみていて乱暴で、人の話など全く聞かない。俺様至上主義だ。親友という言葉だって疑いたくなる。
 けれど、今の自分には――――もう、この男しか頼るものがいない。
「っ、ふ……う、ぅ……」
 指で柔く陰嚢を刺激されながら、ゆっくりと別の指が自身の根元を這う。
 刺激に弱い快楽の中心は、その指だけで勃ち上がってもう下着を濡らしていた。
「そうそう。可愛い声だせんじゃねーのよ、お前も」
 機嫌が良くなった長坂は、もう片方の掌を濡れたトランクスの中心に擦り付けた。
「っ、あっ……! やだ、イヤだって、バカ、死ね、ぇ!」
「イヤよイヤよも好きのうちってか」
 馬耳東風の長坂は、楽しげに言いながら更に手で先端を擦った。
「ひぁあっ、や、だ、やだって、っあ……んぁあ……!」
「大人しくするか?」
「だ、れが、っあああ! ひ、ぁ、ぃああ……」
 嫌だ、という前に掌を押し付けられるようにして一層強く擦られ、啓一は仰け反った。だが長坂の手は止まらず、トランクスの中で蠢く手も一層激しさを増していく。
「このまま根元を縛り上げて、イかせないようにしてずっと擦り続けてやろうか?」
「や、ら、おねがっ……やめ、ぇ……!」
「じゃあ、抵抗せずに大人しくしてるな?」
 子供に言い聞かせるように言われて、啓一は頷くしかなかった。
 自分でもやったことの無いようなことをされて、最早自身はどうにもならない状態になっている。さっさと自分で達してしまいたかったが、この状況では許されない。
 長坂に従う他無かった。
「……わか、った……」
 顔を歪めてそういうと、長坂は勝利者の笑みを浮かべてトランクスのふちに手をかけた。
 簡単に下着は下ろされて、見られたくない部分が晒される。
 だが、自分には抵抗することもできない。
 啓一はシーツを握り締めながら、長坂から顔を背けて固く目を閉じた。
「ま、そんな硬くなんなって」
 軽い口調で言いながら、長坂は啓一の大腿を掴み足を広げさせる。大きく開けられるたびに外気を感じてしまい、腰が揺れる。開脚させられた事でまるで見せ付けるように下腹部が上がった。
 こんなこと、誰にもしたことも、されたこともない。
 快楽に忠実に勃ち上がった己が恨めしくて、啓一は緩い痺れを感じる目を更に力を入れた。
「フェラして貰ったことあるか? お前」
 長坂はどうせないだろうとでも言いたげに笑いを含んだ声で呟きながら、ぎしりとスプリングを軋ませた。何か嫌な予感がして、固く閉じていた目を開ける。
 見たくも無かった長坂へと自然と目が行き、啓一は目を剥いた。
「や、やだっ、やめろバカ!! そんなっ……」
 そこには、今まさに啓一の自身を咥えようとしている相手がいた。
 流石に大人しく見ているなんて出来なくて体を起こすが、長坂は機嫌を損ねたように顔を歪ませる。
「大人しくするって約束だっただろうが」
「で、でも……」
「男も女も経験極少のボクちゃんはフェラも我慢できないってか?」
 何を、と反論しようと口を開いたと同時、長坂は啓一の自身を口に含んだ。
 対応しきれなかった啓一の口から、思わず喘ぎが零れる。長坂はそれに少しだけ笑い、舌でねっとりと竿の部分を舐め上げた。初めて体感する刺激的な感覚に体が激しく反応する。
 生暖かく、自在に自身を翻弄する舌が、これまで経験した事の無い快楽を刻んでくる。
 どうにも出来なくて、啓一は涙目になりながら、真っ赤な顔を歪めて腰を浮かせた。
 これが自分の望んだ事ではないと解っているはずなのに、体の熱は猛り狂い啓一の理性では抑えられない。早く解放して欲しくて、無意識に腰をくねらせていた。
 最悪だ。
「気持ち良いだろ」
 時折口を離して訊いて来る長坂に、羞恥と悔しさが増していく。
 だが、もう抵抗する事すら出来なかった。
「ん、っぁ、ふあぁ……っうぁ、っんぅう……っ!」
「もう限界かな。……んじゃ、イけよ」
 下から舐め上げられながら、もう一度口に含まれる。
 長坂はそのまま亀頭の形に沿う様に舌を回してから、先端をぐりっと舌で弄った。
 たったそれだけのことに、啓一の体は電流にでも痺れたかのように震え仰け反る。視界が真っ白になるような快感が、勝手に声を上げていた。
「っ、あ、ぅああああぁっ……!!」
 口から離され冷たい外気に晒された自身は震え、吐精した。
 ぱたぱたと落ちる音に気付けずに、啓一はただ体をびくつかせてまだ快楽の余韻に浸っている。長坂はそんな啓一を見て面白そうに目を細めると、その間に何かの薬を取り出して指に塗りつけていた。
 啓一の痙攣する両足を立たせて、腰を浮かせる。
 正気に戻った頃には、長坂は何かを塗りたくった指で啓一の秘部を開こうとゆっくりとその部分に這わせていた。思わず驚いて、長坂を見る。
 だが長坂は動じずに、面白そうな笑みを崩さぬまま啓一を見つめ返した。
「怖いか? ……あ、そっか、お前未経験だったな。…………ま、優しくしてやっから力抜いとけ」
 滑る指で啓一のそこをほぐしながら、なんでもないように長坂は言う。
 相手の言葉をしばし理解できないように聞き流していた啓一だったが、今行われている事をはっきりと理解して、何故だかとてつもない虚無感を覚えた。
 気持ち悪いのに、止めろと怒鳴って殴りたいのに、怒りも嫌悪も別の感情に押されて消えていく。それほど強く啓一の心を支配したのは、何もしたくなくなるような、心がどこか遠くへ行ってしまったような心地だった。
 何故こんな気持ちになるのだろうと考えて、またいない筈の恋人が脳裏に浮かんでくる。
 いつも笑顔で啓一を見てくれていた孝太郎だけが、真っ暗な頭の中でソフトフォーカスでも掛かったかのように酷くぼんやりとして立っていた。
(ホントなら……孝太郎さんが、こう、したかったんだよな……?)
 出来れば、抱かせてもらいたいな。そんな風に冗談めかして言っていたが、その言葉がどれ程切実なものかなんて啓一でも理解できていた。男同士だからこそ、上か下かなんて考えなければならなくなるし、孝太郎も女役ばかり強いては啓一のプライドが傷つくとでも思ったのだろう。
 孝太郎にこんな道を教えて貰った啓一にとっては、男同士のセックスなんて勝手が解らなかったし、第一孝太郎以外の人間としたいとも思えなかったからどちらでも良かったのだが、ゲイという世界では上か下かを日によって気分で決めるのが普通らしい。
 実際そういう世界にどっぷり浸かってしまうのは嫌だったが、けれど、自分を一心に好いて心を傾けてくれていた孝太郎の、自分が大好きだった相手のためなら、相手の望む役をやってやるのだと覚悟を決めていた。突っ込む方でも突っ込まれるほうでも、孝太郎が喜ぶならなんだってしてやりたかった。孝太郎の為に、孝太郎だけに、してやりたかったのだ。
 なのに今、自分は孝太郎じゃない人間に、体を許そうとしている。
 自分と繋がりたいのだと切望していた孝太郎を、「初めてになりたい」という願いを切り捨ててしまうように、自分はぼけっと寝そべって相手のなすがままになろうとしているのだ。
 自分は、孝太郎の為に、覚悟を決めていたはずなのに。
(ああ……オレ……馬鹿だな…………)
 それほどまでに思っていた孝太郎は、もうこの世にはいないのに。
「…………」
 霞む視界の先に、孝太郎が浮かぶ。けれどそれは幻で、半透明の不完全な姿だった。
 自分の妄想だと解っているのに、その幻は悲しい顔もしやしない。ただ啓一に幸せそうに笑って、今にも喋り出しそうなくらい口を綻ばせている優しい顔で止まっていた。
 一番好きだった、孝太郎の表情。
 あとは忘れていくだけの、稚拙な記憶だった。
「……こ……たろ、さん……」
「……あ?」
 ふいに漏れた言葉に、自分で驚く。だが喉の震えは消えず、顎は勝手に震えていた。
 自分でも驚くくらい、体がいう事を聞かない。
 声を聞いた長坂は顔を上げ、そんな啓一を見て固まった。
「お前…………」
 顔を見つめて来る長坂に、啓一は顔を動かす事も出来ず目を瞬かせる。だが長坂は驚いた顔を崩しもせずに、ぽかんと開けた口から言葉を零した。
「……涙、出てんぞ」
「…………え……?」
 その言葉に、頬を温く水のような物が伝い落ちる。
 手をそっと当て視界まで持って来て、それが初めて涙だと分かった。
「そんなに嫌か?」
 先程と違って、真剣な長坂の顔に半開きの口が震える。
 どうせここで嫌だと言っても続けるのだろうから、口論するよりも肯定しておいたほうがいい。そう思って「嫌じゃない」と言おうとしたが、声は別の言葉を発していた。
「お、れは…………」
「俺は?」
 鸚鵡返しにそう聴かれて、言葉が堰を切ったように流れ出す。
「オレ、は……今まで、孝太郎さんに……ずっと、初めてになりたいって言われて……だからオレも、覚悟して…………孝太郎さんならって思ってて……覚悟決めて……」
「……」
「なのに、そうだよ、な……もう、あの人、いないんだよな…………? …………なのに、オレ、なんで嫌なんだろうって……何で、こんなこと、してんだろうって…………お前に、操立てとか意味ないって言われたのに……解ってるのに…………」
 解ってるのに、どうしてもあの人が心から消えてくれない。
 笑顔のままで、怒りで汚れることもなく、ずっと純粋なままで心に住み着いている。
 もう会えない人なのに、心は忘れてはくれなかった。
「…………はぁーあ……。チッ……ったく、わーったよ」
「え……?」
 立ち上がりベッドから降りる長坂を見上げて、涙がまた零れる。
 相手はそんな啓一を見て思い切り不機嫌そうに顔を歪めると、また舌打ちをした。
「俺が悪かったよ、ったくガキゃこれだから始末に負えねえ……手ぇ出すもんじゃねえな、ったくよォ……ああクソッ!」
 ぎりぎりと歯を食い縛りながら、髪を掻き乱してタバコを咥える。
 火をつけながら、長坂はじろりと啓一を見やった。
「泣きたきゃ泣け、クソガキ。…………俺は買いモンしてくる」
「え……えっ……?」
 状況が良く解らず、少し体を乗り出して長坂を追うが、長坂はドアを潜ると半眼で来るなと雰囲気で威嚇した。そうして、タバコを無理に噛締めてこちらを指さす。
「一生死人に操立ててろ。ガキ」
 辛辣な一言だけを残して、長坂は乱暴にドアを閉めて行ってしまった。
「…………」
 暫し呆気に取られドアを見ていた啓一だったが、己の姿を省みて顔を伏せた。
 シーツには己の放った残滓が散らばっている。秘部にはぬめぬめとした不快感が残り、無理に開かれた足の付け根は少し痛みを訴えていた。だがそれらに何の怒りも覚えず、啓一は目を細める。
 長坂の最後の言葉にも、怒りは湧かずただ悲しさと悔しさが増しただけだった。
「死人に、操立て…………」
 その言葉がやけに重くて、肩が下がる。
 ちらちらと浮かぶその死人の笑顔が、また視界を涙で覆った。
「そんなの……そんなの、俺だって……解ってるよ……!」
 幾ら消えた人を思っても、その人が願っていた事を叶えさせてやりたくても、もう相手はこの世にはいない。この世界のどこを探しても、もう彼はいないのだ。
 ただの思い出となった人間を追い求めることがバカなことだなんて、啓一にも解っていた。
 だが、認められなかった。
 心の中では、まだ孝太郎が生きているのではないかと思う感情が残っていて、ずっと視界の先に忘れるはずも無い姿を探していたのだ。
 いるはずなんてないのに。
 いるはずなんてないのに、啓一は孝太郎の死を認められなかった。
 だから、彼が死んだ時も、火葬場で彼の煙を見た時も、涙が出なかった。
 ずっと――――孝太郎はどこかで生きているのかもしれないと、思っていたのだ。
 だが。
「…………死人……だなんて……わかってるよ……」
 長坂は、孝太郎は死んだのだとはっきりと自覚させた。
 どうしても彼が死んだと認められない自分に、孝太郎は死んだのだと何度も言い放ったのだ。もう孝太郎は帰ってくることは無いと、啓一に言いきったのである。
 解っていたはずなのに、理解していなかった事実。
 幾ら孝太郎の願いを叶えてやりたいと思っても、もうそれは叶えられる事はない。彼は死に、灰になって消えてしまった。永遠に、もう会うことは無い。
 彼は、もう自分に笑いかけてはくれないのだ。
「解ってた……はず……なのに…………」
 解っていたはずなのに、長坂に言われるまで啓一はそれを受け入れることが出来なかった。
 ずっと孝太郎に操立てして、意地を張って、執着していたのだ。
「いない……いないんだ……もう、孝太郎さんは、いないんだ……!」
 自覚していくたびに涙が溢れてくるのは何故だろうか。
 悲しいと感じて、一層苦しくなるのは何故なのだろうか。
 孝太郎の死を自分の言葉で理解していく度に、慟哭は酷くなり痛みは増す。記憶の中の相手が全て砂のように消えてしまう気がして、ただただ涙が止まらなかった。
 ずっと一緒だと思っていたのに。もっと一緒に居られると思っていたのに。次の日も、その次の日もメールをして、デートして、いつの日か彼の願いをかなえるはずだったのに。
 その啓一の思いさえも風化して消えていくようで、喉は引き絞られるように痛みを訴えて情けない声を漏らした。シーツに顔を押し付けて声を殺すが、何も止まりはしない。

 今までの幸せだった時が、愛していた人が、砂のように風に乗って消えていく。
 もう、二度と元に戻りはしない。

 解っていたはずだったことが、今初めて理解出来たように一気に流れ込んできて、その代償の痛みに啓一は子供のように声を上げ泣き続けた。
 そう、孝太郎は、もういない。



 たったそれだけの事実が、とても深く、重い。 



 今の啓一には、たったそれだけの事実を静かに受け入れることなど出来なかった。














   





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後書的なもの
  ど…どうもシリアスを書くとコメントが難しい……
  書いてて思うんですが、啓一は今時の高校生のクセに
  純だなあと思います。
  作者が思ってどうすんだって話ですが。(……


  


2009/06/08...       

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