十一回目









 そんなこんなで三日間が過ぎ去ったが、徴矢達は依然としてラルヴァの起こした事件どころか気配のけの字すらみつけられないでいた。
「ハァ……こんだけいないと本当にいるのか疑いたくなってくるな……」
 今日もまた夜中に見えない物を探す作業が始まるのか……とゲンナリしながら、徴矢はくるりと卵焼きを上手にひっくり返す。まっ黄色のふんわりした表面に軽く焼き目が付き、今日のは一段と美味そうに見えた。
(……まあ、四日連続で朝夜卵焼き作ってりゃ当然か…………)
 俺はどこぞの主夫にでもなったのでしょうか、と遠い目をしつつ卵焼きを整える。
 複雑な思いで朝食の用意をする徴矢の心境なぞ知る由もなく、そんな生活を強いた悪魔はのんきにまた教育番組を凝視していた。しかし、流石に三日もテレビを見ていると成長してきたのか、報道番組やアニメなど他の番組も見るようになっている。悪魔がアニメを真剣に見るというのも中々シュールな光景だ。非日常をしっかり確認しつつ、徴矢は卵焼きを綺麗に切り揃えて皿に盛りつけた。
「ほら、出来たぞ」
 盆に載せた朝食を小さなテーブルに出してやると、セオはすぐに体をこっちへ向けてキラキラと顔を輝かせた。思わず眩しくて目を細めてしまうが実際は光っていないのでご安心下さい。
 まあそれは兎も角、セオは子供のように満面の笑みで箸を持つと、ぱんと手を合わせた。
「うわあ〜っ! 今日はいつもより美味しそうだねぇ! あっ、勿論普通のも美味しいんだけど、なんだか今日のはすっごくいいよっ、徴矢! 流石はワショクのタツジン!」
「ふ、ふふ、ま、まあそんな褒めんなって」
 御託はいいから食べろよ、と手をヒラヒラさせる徴矢は、気持ちの悪い台詞通りの得意満面顔でセオを急かす。数日間料理を殊更褒められて、徴矢は何だか自分がとても料理が上手いかのように錯覚してしまっていた。まあ、実際それは慢心なのだとはわかっていたが、こうも無邪気に褒められると鼻を天狗にしたくなってくる。
 自分の作ったものを褒められて、嬉しくならない人間はそうそういないだろう。
 徴矢は良い気分で箸を取ると手を合わせて食べ始めた。ちらりとセオを見れば、相手も器用に箸を使って笑顔で卵焼きを抓んでいる。最初は箸すら使えなかったのにえらい進歩だ。もしかすると、悪魔は人間よりも理解し取り込む能力が高いのかもしれない。
 柔らかだがしっかりと巻かれた卵焼きに醤油をかけながら、徴矢はふとそう思って眉根を寄せた。
(でも、そんなに頭良い悪魔が、卵焼きが大好きで一番見たい番組が教育番組だとか……ギャグか?)
 大人のガタイなのに子供のような趣味をしているセオが、とてもそんな高尚な存在とは思えないのだが。
「んん〜っ、やっぱり美味しい! ねえ徴矢、ショウユは日本人の大発明だと思わないかい!? 僕いつかタマゴカケ御飯のショウユも使ってみたいなあ〜。ああ、なんで卵とショウユってこんなにベストマッチなんだろうっ! これこそ人類の最大の創造物だよっ」
「あはは、バカだ……」
 ステレオタイプな日本かぶれ外人そのまんまのセオに、徴矢は何ともいえない笑みを浮かべた。
 色々思うことは有るが、とりあえず卵焼きに醤油でそこまで喜ぶのはスゴイ。というか酷い。
 弱冠引いている徴矢に気づかず、まくまくと頬を動かしながら幸せそうにする相手に幾許かの疲れを感じながら、徴矢は眉根を上に引き上げて呆れたように息を吐いたのだった。
 ――この三日間、相変わらずあの自殺の引き金に手をかける行為は続いている。
 そのことに関しては悪魔もガキのオツムというワケではなく、あの手この手で徴矢から快楽を掠め取ろうとして忘れたいような事をされ、いわゆる『言葉責め』とやらをされていた。
 ゲームや漫画の中でなら、多少のクサイ台詞や恥しい台詞などは充分においしい物であるが、現実で、それも自分の耳元であっつい息を吐かれながら言われるなんてまず耐えられない。
 羞恥と快楽は比例する、と幾ら解っていても、誰だって聴く必要がなければ聴きたくないだろう。
 何より、その言葉責めを受けているのは自分自身なのだ。
 耐えられると言える猛者は、きっと僧侶にでも成れる。悟りも開けるはずだ。
 お陰で徴矢はエロゲよろしく「悔しいっ……でも感じちゃう!」なモードに強制的に決められてしまい、男としては不甲斐ないことこの上ない思い出を胸に刻みまくってしまったのだった。
 人間は羞恥に弱い。それは解っているのに、毎度毎度こうも簡単に陥落させられると悔しいを通り越して自分が情けなくなってくる。それがセオにとって大事なことであるから、尚更。
(そりゃ、俺だって一回で腹いっぱいになってくれた方が助かるけどさ……)
 しかしそれで自分が泣かされ、恥をかかされるのはどうも納得が行かない。
(もっと効率よく、俺が恐ろしい事にならない快楽の摂取方法ってないもんかねぇ)
 本当の所を言うと、人間様にとっての普通の食事でセオを満足させてやりたいのだが、それには多大な金と労力が掛かる。昨日セオに効いたところ、徴矢の一回分の快楽はイコール卵焼き約二百人前らしい。
 お前そりゃどんなカロリーやねんと思わず突っ込みたくなったが、セオの感覚からするとそうなのだとか。
 ともかく、今のところ快楽に匹敵する食事は見つけられなかった。
 徴矢としても一日確実に二回ほど精力を奪われる生活には体が持たなくなってきたところだ。これは本当に何とかせねば、文字通り精も根も尽き果てて死ぬ。
 今のところは機嫌の良いセオに、徴矢はダメもとで聞いてみることにした。
「なあセオ、普通の食事や今の行為以外で、もっと効率よくお前が満腹になる方法って無いのか?」
 問いに、セオは箸を口に含みながら難しい顔をして空を見上げた。
「むー……そうだねえ……。……あるには、あるんだけど…………」
 言いながら、次の語を言い難そうにしてこちらを窺う。
「な、なんだよ」
「……ううん、やめとく。だって徴矢嫌がると思うし」
 どこか怪しげな光を秘めた目に、その「嫌がると思うし」という単語が本気でヤバそうな雰囲気を帯びる。じゃあ聞くのは止めておこう、と徴矢は素直に危険を回避すると、朝食を食べることに専念した。
「…………聞いてくれても良いと思うんだけどなあ」
「これ以上恐ろしいことに首突っ込んでたまるか」
「うーん……僕は今すぐにでもやりたいんだけどな……はあ」
 言いながら落ち込むセオは、何故かいつもより落ち込んでいるように見えた。






「はよー、賢吾、黒髪」
「あっ……スミ、はよっ!」
「おはよう、愛宕」
 いつもの講義室の後ろの席には、いつものようにもう賢吾と黒髪が座っていた。最近賢吾は黒髪と一緒に登校するようになったのか、先に席を取って徴矢を待っている。前は徴矢と同じくギリギリで来ていたのに、規則正しくなったものだ。
 そう思いながら席に座るなり、賢吾は悲しげに徴矢に泣きついて来た。
「す〜〜みぃい〜〜っ! どーしよ、あのさ、どうしてもダメなんだっ」
「だ、ダメって何が」
 怪訝な顔で訊き返すと、黒髪が手の甲を見せながら答えた。そこには絆創膏が張ってある。
「それがね、タトゥーがまったく落ちないんだ……。水で洗えば消えるって書いてあったのに、石鹸使っても消えなくてさ。まだ痣みたいに残ってて親に怒られるったら……」
「お前ら子供みたいなことしてっからだろー……」
 自業自得だ、と切り捨てる徴矢に、賢吾は掴みかかってうるうるとさせた目で訴えた。
「だってっ! だって買ったら貼って見たくなるじゃない魔子ちゃんの紋章っっ! それに、これは俺達と黒髪が出会ったきっかけなんだぞ、子供みたいとかいうなあああああ」
「黒髪、コイツ自分を正当化したいだけだから乗るなよ」
「うわああああん徴矢がいぢめるぅうう!」
 流石に賢吾のこのノリにはついていけないのか、黒髪も呆れたような引いたような苦笑を漏らす。
 この三日間で成果といえるものが在るなら、黒髪との新密度だった。
 魔子ちゃんを好きだ、共にエロゲエロ漫画が大好きだ、という共通点を見つけ深く話し合った三人は、今では三匹の侍、いや三匹のオタクとでも言うまでに絆を深めていた。
 最初はどこか距離を置き気味だった黒髪も徐々に心を開き、今では冗談を言い合って笑い合うくらいになっている。普通の人間には簡単なことだろうが、内向的なオタクにとっては大きな進歩だ。
 これはいわば、ゲームにおいての好感度で「仄かに恋心を抱いている」くらい高い親密度なのである。
 まあ、この例えもどうかと思うが、それほど三人は親睦を深めていた。
「とにかくさ、薄くなってるんだったらもうちょっとで消えるんじゃないのか? 高校ン時だったら焦っただろうけど、俺ら文系だしそんなに怯えることも無いだろ」
「うん、そうだね。……愛宕は本当に冷静だなあ」
 羨望の眼差しで言われて、またちょっと心の中の天狗が疼く。いやらしい意味ではない。
「違うぞ黒髪、スミは冷たいだけなんだぞ。もうスミはいっつも俺に冷たいんだ、こないだだってこないだだって俺を一人にしたしいい」
 賢吾はそう言いながら、拳でぐりぐりと徴矢の胸に攻撃を加える。少々痛い攻撃をあえて無視しながらも、徴矢は黒髪にニッコリと笑った。
「黒髪、頼むからお前はコイツみたいになってくれるなよ」
「はは……いや、多分無理っつーかなんというか……」
「今度は二人で俺をないがしろにいいいい」
 わんわんと大げさに泣く賢吾に、黒髪と徴矢は顔を見合わせて苦笑する。まったく、人が一人増えただけでこの騒ぎようだ。しかし、紛れもなく楽しい時間に徴矢は一層笑みを深めたのだった。
 それを、数人の者達が見ていたことも知らずに。



 昼休みの食堂はいつも通りに混雑し、食券を買う列も長い。それを横目で見つつ、徴矢は賢吾と共に出来るだけ人目につかない席に移動して座った。オタの習性である。
 安価のカレーを掬いながら、ふと徴矢は黒髪が居ないことに気付いて首を動かした。
「あれ、黒髪は?」
 その問いに、カツ丼のカツに噛み付きながら賢吾が答える。
「んっとなー……確か、前の友達だったヤツに呼ばれたみたいだったぞ? 多分そいつらと一緒にメシ喰ってんだとおもう。うおっ、このカツマジかてぇ」
「ふーん……そっか……」
 黒髪が自らフェードアウトして近付かないようにしていたのに、それでも誘ってくれるとは律儀な友達だ。案外非オタも心の弱い人間を慮ってくれるのかもしれない。
 偏見に満ちた考えで徴矢は暫く昼食をパクついていたが、ふと自分の考えに違和感を覚えて箸を止めた。
「……いや、おかしいぞ?」
「フガッ? はには?」
 カツと格闘していた賢吾が間抜けな顔で見上げてくるが、それに笑う気にもなれず徴矢は声を潜めた。
「いや、俺アイツと友達になってから思い出したんだが……。賢吾、お前の言ってたあいつのダチって相当チャラい奴じゃなかったか? しかもかなり遊んでます系の」
「う、ううーん……たひかそうだったおな……。ふがっ。……えっと、でもさ、そういう奴に限って友達思いとか多くね? 案外趣味合わなくても友達なら……」
 しかし段々持論に不安が出てきたのか、賢吾も箸から齧りかけのカツを離して顔を伏せた。
 徴矢も口をへの字に曲げて溜息を吐く。
「……そうだといいんだが……」
 しかし、現実問題そういう奴ばかりではない。
 自分達の趣味はどうしたって一般人には気持ち悪がられるものだ。ただのエロ本ならまだしも二次元美少女を崇拝している、なんて知れた時点でそれはもう一般人の理解の範疇を超えているだろう。女で解り易く例えるのなら、少女漫画の白馬の王子様キャラを本気で好きになり、そいつと結婚したいセックスしたいと宣言して憚らない女のようなものだ。そう、頭がおかしいと思われる。
 もしそれを黒髪の友達が知ったとして、それでも友達で居てくれるだろうか?
(かなり可能性は低いだろうな……)
 オープンで何もかも笑い飛ばせるような性格ならまだしも、黒髪は内向的で大人しい方だ。萎縮してしまう人間は、どうしても他人から嫌われたり虐げられたりする事が多くなってしまう。自分達の言いたいことをズバッと言ってしまう人間や、うじうじする奴が嫌いな人間ほど黒髪のようなタイプを嫌うのだ。
 それでもまだ、「嫌う」だけで終ってくれたら良いのだが……。
(どう考えても、黒髪が友達だった奴らはそんなに柔和な奴らには見えなかったよな……)
 一応制服規則などが決められているここで、それを物ともせずに彼らはピアスをしたり髪を染めたり、ライオンのように髪を盛り上げ特殊な髪型にしたりと色々規則を破っていた。
 要するに、彼らは自分の欲求に素直なのだ。
 そんな人間達が、もし黒髪に嫌悪を示し、呼び出したのなら――――
(あれ……マジでやばくないか、コレ)
 徴矢はようやく己の不安の核に辿り着いて、箸を置いた。
 食堂を見回してみるが、それらしい集団はどこにも無い。時間は昼休みを半分過ぎている。黒髪は確か今日は弁当を持って来ていなかったから、食事をしているなら絶対に食堂にいるはずだ。時間からしてまだどこにも行っていないだろう。なのに、どこにもいない。
 嫌な予感が頭を過ぎり、徴矢は空になった食器を盆に載せて立ち上がった。
「はぇっ!? すっ、スミどした?」
「弁当を持ってないはずの黒髪がここにいないんだ。何か嫌な予感がする……」
「……ホントだ。どこいったんだろ? もう結構時間経つぞ?」
 賢吾もようやく違和感に気付いたのか不安げに徴矢を見上げた。
「俺、探してくるわ。もし時間内に戻ってこなかったら先に行っててくれ」
「わ、わかった……。……なあスミ、無茶はすんなよ」
「俺はゲームの主人公じゃないから無茶なんて出来ねーよ。じゃなっ!」
 だがしかし、今はそんな無茶の出来る主人公になりたい気分だ。徴矢は素早く食器を戻すと、慌しく食堂を後にした。とにかく、まずは人があまり来ない場所を探してみた方が良いだろう。
 こういう場合、多くは屋上だの校舎裏だの人の少ない場所に連れて行かれる。
 多分そうそう人が来る場所にはいないはずだ。
(てか、こうやって人探しすんの二回目だよな……)
 また相手は男か、と落ち込みたくもなったが今はそんな場合ではない。
 今度は緊急事態かもしれない上、友人が危険な目に遭っているかも知れないのだ。ごちゃごちゃ文句を言っている暇なんて無い。兎に角探さねば。
 徴矢は思い当たる場所を片っ端から探すことにした。
 幾ら人の居ない場所に行ったとはいえ、まさか高等部や中等部には行かないだろう。多分大学のどこかにいるはずだ。なるべく注意深く周囲を見回しながら、徴矢は見当をつけた場所を虱潰しに当たって行った。屋上、今日は使われる予定の無い部屋、講堂、トイレ、奥まった場所。昼休み一杯その辺りを探してみたが、やはり黒髪の姿はない。もうすぐ講義が始まってしまう。
(いや、この際講義はサボってもいいわ……兎に角、無事かどうかだけ……)
 しかしこれだけ捜していないということはどこに行ったのだろうか。
「……学校裏、とかか?」
 だが、大学の裏は小さな庭のようになっており、今は弁当を広げる人間も大勢居るはずだ。
 違うだろう、と思おうとして徴矢は自分の考えに引っかかって足を止めた。
 いや、たしか裏庭は人が居るが、山に近い場所はこの時期虫が出るので近付く人間はいない。誰も好き好んで蚊に刺されに行ったり、虫にたかられたりはしたくないだろう。ここまで探していないのなら、そこに賭けるしかない。徴矢は踵を返して裏庭を目指した。
 裏庭はこの時期ライラックやポピーが咲いて、そりゃあもう乙女チックな光景になっている。辿り着いてみると、庭の周りの椅子には人がまだ大勢座っていたが、庭の中にまで入っている者は少なかった。まあそうだろう。この時期、山、花の園、とくれば蜂やアブとの遭遇が多くなる。刺される確率の高さを解っていて入るような奴は大馬鹿者である。
(いやまあ、俺も大馬鹿なんだけどな)
 縁石できっちりと仕切られた道を駆け足で辿りながら、徴矢は見知った一段が無いかと頭を動かした。背後で鐘が鳴る。ああ、やはり間に合わなかったか。
「ええいもう、ちっくしょ! おおーい! 黒髪、どこだーッ!?」
 戻れるとは思っていなかったが、実際講義に出られないと苛々してくる。これでも結構単位がやばいのだ。今出ておかないと、今後サボることが出来ないかもしれないのである。そんなことはごめんだ。
 しかしやはり友人の安全を考えると、戻る事も出来ず徴矢はヤケになって叫んだ。
 全方位に声が渡るように体を半周してみるが、呼びかけは返ってこない。
 もう一度呼ぼうかと手を口元に添えたと同時。
 向こう側の草が、大仰にガサリと鳴った。
「そこかっ!?」
 道から逸れた石造りのあずまやに、一目散に向かう。
 なるほど、ここは確かに山に近いし人が来そうな場所ではない。草を掠る度に飛び立つ虫に気を取られつつ、徴矢はようやくそのあずまやに辿り着いた。と。
「くろ、かみ……?!」
「………………」
 そこには、汚れるのも気にせず地面に蹲り、痛みに顔を歪めている黒髪がいた。
 慌てて近寄り、痛みに呻く相手をゆっくりと抱き起こす。
「おい、どうしたんだ!?」
 顔のすぐ横で問いかける徴矢に、黒髪は精気の無い顔で微かに笑った。
「な……なんでも、ないよ……。だい、じょ……っ」
 言いながら、黒髪はまた痛みに体を折り曲げる。徴矢は眉を顰めて目を見張りながら、とにかく黒髪の負担を軽くしようと体を支えた。自分同じ背丈なのに、彼の体はとても弱く軽々とした物のように思えた。
「無理するな。……どこが痛いんだ? 見せてくれ」
 これでも少々の傷なら大丈夫かどうかわかる、と真剣に言うと、黒髪は黙って体を起こして腹の辺りを擦った。一応先に謝って、制服をたくし上げる。徴矢が言うのもおかしいが、黒髪の体はオタクのソレ、とでも言いたくなるようなあばらの少し浮いた弱々しげな体だった。
 その腹に、満遍なく、まるでまだらを目指したかのように幾つもの打撲痕らしき物が残っていた。
「……!! お前っ、まさかアイツらに!?」
 瞠目した顔で見上げる黒髪は、悲しげな顔で視線を逸らす。
「た、大したことじゃないよ……もう、い、痛くない、し……大丈……」
「ちっとも大丈夫じゃねぇだろ!!」
 まだ強がろうとする黒髪を、徴矢は思わず怒鳴りつけていた。
 思わず徴矢を恐れるような表情になってしまった黒髪に、なんとか憤りを抑えながら徴矢は閉じた口を引き締めて黒髪の肩を掴む。真剣な表情で見つめると、相手は怯えながらもしっかりと徴矢を見てくれた。
「愛宕……」
「あのな、俺達友達だろ。同じ趣味の、同士だろ? 何でも話せるたった三人だけの親友だろ? お前が何されて、何言われたのかなんて、お前が言いたくない限り言わなくて良い。でも、お願いだから……お願いだから、強がるなよ……。痛いなら、辛いなら、言ってくれよ……黒髪」
 一番辛いのは黒髪自身だ。それは解っていることなのに、何かを言う度に眉がハの字に寄って行く。まるで自分が辛いようだ。だがしかし、徴矢にとってはまさにそうだった。
 今までずっと一人で、誰にも自分の好きな事を言えず、ずっと耐え抜いてきた黒髪。
 自分や賢吾と違い、いつも誰かに虐げられることに怯えて通っていた黒髪。
 そんな奴が、まだ我慢しなければいけないと言うのだろうか。
 こんな酷い目に遭って、まだ何もかもを心の中に押し込めというのだろうか。
(そんなの……酷すぎるだろうが……!)
 例え黒髪がそうしたいとしても、徴矢にはそれが我慢できなかった。
 人は、苦しいことや悲しいことを我慢すればするほど疲れ、壊れていく。その上それらはいつまでも心の中に残って、延々と嫌な記憶を呼び覚まし苦しめてくるのである。もしそれを続けて行ったならば、やがては誰にも理解されず、理解してもらえず、ずっと一人殻に篭って泣いていくしかなくなるのだ。
 それがどんなに辛いことか、徴矢には解っていた。
 だからこそ、自分達がいる今、黒髪にはその苦しさを吐き出して欲しかった。
 言葉になっていなくても良い。醜い罵りでも、泣き言でも、情けない独りよがりの思いでも、自分達に打ち明けて楽になってほしかった。
 友達、だから。
「だから、黒髪……もう、堪えんの止めろ。恥しいことじゃないんだ。痛いなら、痛いっていえよ」
 な、と微笑んでやると、黒髪は目を丸くしたあと、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。
「……ご、めん、愛宕…………」
「気にすんなよ。……泣きたい時は泣きゃあいいさ」
 言いながら、肩を優しく叩いてやる。
 黒髪はそれに心が揺らいだのか、一層涙を零しながら俯いた。
「あ、あいつ、ら…………本当は、俺のこと……っ、最初から、友達なんて、思ってなかったんだ」
「黒髪……」
「解ってた、全部、ぜんぶっ、わか、てたんだ……。俺、パシリでっ……財布、で…………バカにされてるって……嘲笑われて、る、って……解ってたんだ……!」
 ズボンに幾つもの丸い染みを零す黒髪に、徴矢は何も言えずにただ背中を擦る。
 黒髪は嗚咽を必死に押さえようとしながら、己のズボンを握り締めた。
「で、も、話しかけて、くれるのも……相手して、くれるのも、あいつらっ、だけっ、だった……だか、ら……俺……ずっと、ずっと、バカやってて、ニコニコして、必死に隠してっ……」
 気持ちは、良く解った。
 徴矢だって引っ込み思案で独りだったなら、友達をなくして孤独になるのは嫌だと思ったはずだ。だからこそ話しかけてくれる人間に必死に縋りついて、何を言われても道化の振りをしていたかもしれない。黒髪も必死に外の世界で生きて生きたいと思っていたからこそ、何を言われても耐えたのだろう。
 そうでなければ、ここまで馬鹿にされていて付き合えるはずが無い。
 黒髪は、強い人間だと徴矢は心の底から思った。
「……辛かったな」
 ぽん、と軽く頭に手を載せると、黒髪は鼻を啜って小さく頷く。
「でも、俺……もう、財布なんて金、なかったし……あいつら、どんどん酷いこと平気で言うようになって来て……耐えられなくて、あの日とうとう逃げ出したんだ…………」
「そっか……それであんなに暗い顔してたんだな」
 大分落ち着いてきたのか、黒髪は思い切り深呼吸をして顔を上げる。
 まだ声は震えていたが、もう涙は零れていなかった。
「うん…………。そしたら、今日ここに連れて来られて、生意気だとかふざけんなって怒鳴られて、金くれって言われたんだ。でも、俺今日本当に金無くて……その、ほら、愛宕達と友達になったから、ちょっと気持ちも大きくなってて、無いからやれないって言ったら…………服の上から、殴られたり蹴られたりされた」
「だから顔や手にはなんも無かったんだな」
 こちらに顔を向けさせてまじまじと見やると、黒髪は少し照れくさそうにして目を逸らす。
「う、うん……そ、その、立てなくなるくらいまではやらなかったみたい。……多分、俺が来なくなったらヤバくなるかもって思ったんじゃないかな」
 黒髪の“元”・友人らの考えに、徴矢は思い切り顔を歪めて奥歯をぎりりと噛締めた。
 正義漢ぶるつもりは無いが、どうもそういう輩は虫が好かない。それどころか吐き気すら覚える。
「ゲスもそういう所だけには頭が回るんだな……。まあ、お前が血を吐くほどじゃないのは良かったけどさ……」
 必要なら医務室に行こうか、と問う徴矢に、黒髪は緩く首を振った。
「いいよ。俺もあんまり騒がれたくないし、それにだいぶん楽になってきたから」
 気丈に振舞い微笑む黒髪に、徴矢は憐憫が湧いて肩を掴んでこちらを振り向かせた。
 目を瞬かせる相手に、真剣な顔で言う。
「黒髪、お前がソレで良いならいいんだが……一つだけ覚えておいてくれ」
「……?」
 不思議そうに首を傾げる黒髪に、笑みが浮かんだ。
「……お前は、もう独りじゃない。俺達がいる。……まあ、オタクの力なんて非力なもんだけどな……でも、お前の話を聞いてやることは出来る。もうお前は、一人で悩まなくて良い。辛いことも、苦しいことも全部、何もかも話すことが出来るんだ。俺達は、友達だ。エロゲだって何だって、お前と同じ趣味のものをなんでも話せる“仲間”なんだ。…………だからもう、強がるなよ」
「あた、ご…………」
 眼鏡の奥の気弱そうな目が、丸くなってまた潤み出す。
 徴矢はそれに微苦笑して、両手を広げた。
「ま、俺は女じゃないからボインでギュって慰めるわけにもいかんが、いつでも胸は貸してやるぞ。遠慮はいらんぜ! あ、いやでも汗掻いた時はちょっと無理って言うか……」
 と御託を並べてあはは、と誤魔化し笑いをする徴矢に、黒髪は涙目で顔を真っ赤にしながら、笑みになってない顔で笑った。そうして、唐突に徴矢に抱きつく。
「わっ、わっ、い、言っといてなんだが、ちょっとこれ驚くな……」
 ここで誰かが自分達を見ていたら、きっとゲイカップル認定まっしぐらだろう。
 そんな恐ろしい事を思いながら焦り顔で黒髪を見下ろすと、相手は本当に子供のように顔を歪めて、徴矢に安堵を見出したかのように必死にしがみ付いていた。徴矢はそれをみて、小さく溜息を吐いた。
 まあ、この際ゲイに見えるだとかそういうのは関係ない。
 友を救えればそれで良いのだ。
 こういう時は頭を撫でてやるものだよな、とずれた事を思いつつ微笑んで黒髪を受け止める徴矢に、黒髪はすすり泣きながら呟いた。
「愛宕……俺、俺……本当に、愛宕に出会えてよかった……」
 まるで子供のように舌っ足らずな台詞。
 案外黒髪が可愛く思えて、徴矢は忍び笑いを漏らした。
「俺達がついてるから、あんな奴らに負けんなよ。黒髪。嫌なコトされたらいつでも言ってきて良いから。……とりあえず、オタクなりに頑張るから。な」
 そんな気弱な励ましに、黒髪は頬を染めた顔を上げて、満面の笑みで頷いたのだった。




 裏庭を見下ろす小さな窓。
 講義も始まったというのに、その場所でじっと徴矢達を見つめる影があった。
 黒い翼に、捻じ曲がった角。いつも徴矢の傍に居た、その姿。
 徴矢の前ではいつも笑顔だった悪魔は、別人のように冷たい顔であずまやを睨んでいた。
「…………ふうん」
 たった一言、低く空気の漏れ出たような声。
 窓に映ったセオのその顔は、本来の質その物を滲ませるような顔だった。
 ……勿論、徴矢はソレに気付いているはずもなく。







    

   





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後書的なもの
 
黒髪はオタの弱い部分を詰め込んだ青年です。
  そして徴矢はオタのくせに芯は強いです。←こっちは友達にいた。
  明るい性格は何処でも好まれるものですが、暗いと難しいっすよね。
  さて次回は皆さんの読み通り、爆発します。色々と。
  

2009/05/08...       

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