九回目








  
 そんなこんなで、結局徴矢はまたもや快楽に負けてしまった。
「う……うう……死にたい…………」
 ズボンのジッパーを閉めながらがくりと項垂れるが、誰も慰めてなんてくれやしない。唯一同じ部屋にいる悪魔は、慰めるどころか満足げにニコニコと笑っていた。文字通り悪魔だ。
「えへへっ、飲んじゃった!」
「お前に言われても嬉しくねええええええええええ」
 周囲に音符を飛ばすなと威嚇して、徴矢は何度目かの自己嫌悪に溜息を吐いた。
 セオに対しては色々と言いたい事があるが、今のこの状態では何も言い返せる気がしない。その上自分の弱さに打ちのめされていて、もう怒る気力も無かった。
「今回はいつも以上に美味しかったよ、徴矢。やっぱり徴矢ってこういうの好きなのかい?」
 相手はそんな徴矢に気付きもしないで相変わらずの笑顔で聞いてくる。
 首を絞めてやりたい気持ちを抑えながら、徴矢は今の精一杯である引き攣った笑みを返した。
「今度そういうこと聞いたら首吊って死ぬぞ俺は」
 相手を刺し殺せないのなら自殺しか悪魔を困らせる手はない。
 結構本気を込めて言った言葉にセオは目を丸くしたが、徴矢の言わんとする事は分かったようで頷いた。未だに笑んだままというのがムカつくが、解ってくれたのなら今はそれでいいとする。
 徴矢は気持ちを切り替える為に大きな溜息を吐いて、重い腰を上げた。
「とにかく……これで満足か?」
「うんっ。お腹も大分膨れたし、満足だよ」
 やたらと機嫌の良いセオにぶすっとした顔でそうかと返して、徴矢は首を鳴らす。
 愚痴の一つでも言ってやりたいが、今言えばまたさっきの二の舞になってしまうだろう。もうここでは何も起こしたくないと思いながら、徴矢は溜息を吐いて冷静にセオを見つめた。
「はぁ……。とりあえず、なるべく相手はしてやるから学校では大人しくしてくれ。その代わりこういう場所じゃなかったらいつでもメシはくれてやるし、俺もお前のいう事には最低限従うから」
 本当の所はもう快楽も与えたくないしこんなことをやるのも御免だが、セオの機嫌を損ねて大変なことをさせられる位ならば、この際このような恥しい行為もやろう。
 今はただ譲歩して、セオに大人しくしてもらうしか無い。
 徴矢の言葉を理解してくれたのか、相手は軽く頷いた。
「わかった。じゃあ、僕も徴矢の都合に従うね。でも、学園にいる時は誰の邪魔もしないから、自由に動き回って良いかな?」
 譲歩に更なる条件を乗せるセオに、徴矢は片眉を寄せる。
「なんでだ?」
 訊くと、セオは嬉しそうに口を歪める。
「ここって面白そうだから! 色んな本も有るし、僕が知らない今のこの世界の事とかもよく解りそうだなって。勿論誰にも見つからないようにするし、徴矢が帰る時には戻ってくるから」
「それはいいけど……動き回って変に腹減らすなよ」
 忙しい時に色々と質問される苦労が無くなるのは嬉しい事だし、大学を見て回れば少しは常識がつくだろうから徴矢的には大賛成だが、その後にがっつかれるのは困る。
 訝しげな顔をする徴矢に、セオは大丈夫と目を弧に歪めた。
「努力する。……じゃあ、僕はまだココで本を読んでるよ。三回目の鐘が鳴ったら門の所にいれば良いんだよね?」
「ああ」
 これでようやく大きな子供のお守から解放される、と気が抜けて徴矢は半笑いで頷く。
 自発的に離れてくれれば自分にはなんの咎も無いし、己の行動に色々とケチをつけられなくてすむ。束の間の解放だ。今なら講義すらもありがたく聴けるだろう。
 そう感動していると、鐘の音が据え付けのスピーカーから流れてきた。
「あ、この音だよね」
 暢気に言うセオに一瞬素直に頷きそうになったが、ある事に気付いて徴矢は目を向いた。
「げっ……もう昼終わりかよ!?」
 昼飯を食い忘れた、と青ざめるが、セオは頭上に疑問符を浮かべ不思議そうにしている。そりゃそうだろう。セオは徴矢の昼休みを削って昼食を頂いたのだから。
 理不尽な怒りに体が震えるが、残念ながら今は構っていられない。昼休みの後すぐに講義があるのだ。ゆっくりしていたら欠席扱いになってしまう。
 徴矢は慌てて扉を開け、もう一度セオを振り返って念を押した。
「とっ、兎に角俺は授業行って来っから、みつかるなよ!」
「はーい」
 気の抜けた返事に少々イラッとしたが、それどころではない。
 徴矢は縺れそうになる足で廊下を走り、講義室へと急いだのだった。







「すーみー! こっちこっち」
 開始ギリギリで滑り込んだ部屋には、既に席に着いた賢吾がいた。隣の空席を叩きながらこっちへ来いと手を上げている。その好意を素直にありがたいと思いながら、徴矢は肩で息をしながら賢吾の隣へと座った。
「えらい遅かったけど、なんか重要な用事?」
 心配そうにこちらを覗き込む賢吾に、徴矢は愛想笑いで首を振る。
「いや……ちょっとした野暮用だったんだが、長引いてな……」
 まさか、悪魔を探しててそのまま喧嘩になってしまいなし崩しにフェラされてました、なんて思わず屋上から飛び降りそうになる事を言えるわけが無い。
 背筋が寒くなりながら賢吾に嘘を吐いてみたが、相手は素直に騙されてふーんと頷いていた。
 少し罪悪感が湧くが、流石にこんなこと打ち明けられる訳がない。
 曖昧な笑みで笑いながら、徴矢は心の中で溜息を吐いた。
「それはまあ、個人様の事情ってヤツだから俺は聞かないけーどー……俺はオタ一人寂しくメシ食ってたんだぜ? それもまるまる昼休みやる事が無くて、ぼーっと座ったまんまだったんだぜ? 俺正直すっげー寂しかったんだぜ? オタって一人でいるとニートに進化しちゃうんだぜ?」
 ここぞとばかりに賢吾は恨めしげな目で徴矢にすりついて低い声で責める。
「だぜ口調やめれ」
 ウザイ、と切り捨てながらも、徴矢も一人にしたのは悪かったかなと反省して謝った。
 他の知り合いと話したりもするが、今の所腹を割って話せるのも、長い時間一緒にいたいと思えるのも徴矢には賢吾しかいなかった。勿論、賢吾にとってもそんな友達は自分しかいないのだと徴矢には充分解っていた。なにせ、この学園にはオタクが少なすぎる。
 もしいたとしても完全に隠れていて、自分達には判断しきれなかった。
 だからこそ、長年の友達でありオタクという同士でもある賢吾の気持ちはよく分かるつもりだ。
 自分が賢吾の立場なら、飯を食べ終わった後の孤独には耐えがたい物がある。
 賢吾を宥めながら引き剥がして、徴矢は笑った。
「今度はちゃんと戻ってくるからニートにはなるなよ。まあ……今後はこういうことも無さそうだから安心しろって」
「それならいいけどさー」
 言いながら、賢吾は安心したように柔らかく笑ったが、しかしすぐ何かを思い出したのか顔を変える。
「あ、そういや俺、もう一人寂しい人見たわ」
「寂しい人?」
 なんだそれは、と聞き返すと賢吾は頷く。
「俺と同じ空気漂わせて、ずーっとぼそぼそメシ喰ってたぜ? えーと……ほら、あそこにいるヤツ」
 二段下の机についている男を指さして、賢吾は見ろ見ろとせかす。
 暫くは後頭部しか見えず詳細が解らなかったが、男が不意に横を向いたことで徴矢にもそれがどんな人物なのかを把握できた。短髪で細身、大きな眼鏡をかけている細目の気弱そうな顔。相手の姿を一頻り見た後で、徴矢はその容姿に該当する人物を思い出してあっと声を出した。
「何? 知ってるの?」
「アイツ、アニマニアでかなり見たことある。俺と同じ時間帯に来てるヤツだ……。てっきり近くの高校生かなって思ってたんだが……まさか大学生だったとは」
 それを聞いて驚いたのは賢吾だった。
「ええっ!? あいつもオタ!!? いや、だってアイツ、いっつも非オタの奴らとつるんでたよ? それに、全然オタ臭とか出してなかったし、その、ちょっと根暗っぽいとは思ったけど……」
 大声で話しそうになる賢吾の口を押さえて、賢吾の証言を聞きながら徴矢は拍子抜けした。
「それなら俺らだって人の事言えんだろ……。俺は賢吾みたいなオタ友がいるから隠れなくて済んだが、あいつ……」
「確か、黒髪 健太」
「そう、その黒髪ってヤツはきっと、周りに同類がいなかったんだろ。だから多分今までずっと隠れて非オタとつるんでたんじゃないか?」
 オタクというのは肩身が狭い。同類と一緒にいれば周りのことなど関係ないと思えるのだが、独りだとかなり辛い境遇へと追い込まれてしまう。本当に自分の大好きな事を語れず、ただ一般人のお洒落な話に頷くだけしかできない。髪染めやエクステやブランドの話題なんか、自分達には全く解らない世界の事だ。言わば、農家が宇宙開発の用語を捲くし立てられていると言う状況に等しい。
 自分達の知っている知識と、彼らの知識は全く違うのだ。
 だからこそ孤独という感覚が加速していき、誰にも自分を曝け出せなくなる。
 いつもつるんでいる、とされている友達がいないのは、多分彼が自発的に離れたからだろう。
「そっかー……俺幸せモンだったんだなー。…………なんか、色々考えると黒髪って可哀相だな」
 賢吾も徴矢の言う台詞の意味が解ったのか、悲しげに眉を寄せて口を曲げた。
「なあ、俺達がアイツの友達になってやれないかな」
「俺もそう思ってた。……しかし、何かきっかけが無いとな。下手に切り出すと、それ以降話も聞いてくれないだろうしな」
 自分達オタクの心には、かなり頑丈な鍵が掛かっている。
 好みの話題と優しさが無ければ決して開きはしない、まさに鋼鉄の南京錠だ。しかし、相手の喜ぶ条件を出せばそれは鋼鉄ではなく粘土と化す。けれどもその条件というのが兎角見分けにくい。
 オタクにも色々な種類がいるからして、相性があるのだ。
 例えば自分達二次元オタを三次元アイドルオタと引き合わせても、交流が深まる事はあまり無い。
 なんだかゲームによくある属性のようだと思いながら、徴矢は頭を掻いた。
「とりあえず、アイツが何オタか解らなけりゃなあ」
「スミはアニマニアで黒髪が何買ったか見てないの?」
「見たときには全部袋の中。俺だって注意してみてる訳じゃないしな」
 手も足も出ないとはこのことだ。
 出来れば友達になりたいが、と悩んでいると黒髪は自分の手を気にしだした。
 何をするのかと首を傾げていると、痒いのか右手を必死に掻きだす。春先だから熱くて皮膚がむずむずしているのだろうか。
「あっ、スミっ、徴矢! アイツの手、よく見て!」
 賢吾が慌てたように小さく黒髪を指さして徴矢の服を掴む。
 掻きすぎて赤くなったのかと意味不明な事を思いながらも、徴矢は未だに不可解だと言う顔で黒髪の手の甲をじっと見つめた。――と……。
「…………あ」
「ね?」
 にんまりと笑った賢吾に向き直って、徴矢も同じようににんまりと笑った。





 講義が終って、室内の人影は大分疎らになっていた。
 次の講義が無く帰宅するだけの徴矢と賢吾はそのまま残り、件の相手がどうするのかをひっそりと見守りずっと残っている。ずっと居座っているにも関わらず、黒髪はこちらに気付くこともなくただ黙々と自分のカバンに物を詰め込んでいた。
 どうやら帰宅するらしい。
 徴矢は賢吾と見つめ合い合図のようにニヤリと笑うと、そのまま黒髪へと近付いた。
「黒髪健太、だよな、君」
 近付いて開口一番でそういうと、黒髪はようやく気付いたのかひどく驚いた様子でこちらを見返す。
「そ、そう……です、けど……」
 細い目が限界まで丸々と見開かれているのを見て、なんだか可笑しくて顔が綻ぶ。
「なあ、俺、みたことない?」
 自分でも破格だと思うほどの笑顔で聞いてみるが、相手は「何を言ってるんだこいつ」という訝しげな顔しか示さない。まあ、こうなるとは思っていたが、正直はっきり顔で示されると落ち込みたくなるものがある。
 そこに賢吾が割って入った。
「じゃあじゃあじゃあさ、これは……っどう!?」
 勢い良く捲くし立てながら、賢吾が腕をまくる。某奉行の桜吹雪お披露目の如く、効果音が付きそうなほどの格好良いポーズで賢吾は椅子にダンと乗り上げた。
 おどおどとしていた黒髪は、賢吾が強調した腕を見てあっと驚く。
「そっ……それ……魔子ちゃんの……」
 三人きりになった部屋に、静かな驚きが響く。
 やはりそうだったかと徴矢と賢吾はにんまりと笑い、黒髪の肩を叩いた。
「やっぱお前も魔子ちゃん知ってたのか!」
「えっ……あ、じゃあ、君達も……?」
 にわかに話題に乗り出した黒髪にしめたと思いながら、徴矢と賢吾は肩を組む。
「そう、俺達もオタ。 いや実はさ、掌のそれが目に入って、同士かなーっと思って声かけたんだけど……良かったら、これからは俺達と一緒に行動しないか?」
 嫌なら無理に付き合わなくてもいいんだよ、というと、黒髪はとんでもないと首を大きく振ってこちらの手を握ってきた。あれだけ訝しげな目をしていた黒髪の目は、これまで見たことも無いくらいに輝いている。顔も遠くからは無表情しか見取れなかったのに、今は賢吾のような明るすぎる笑顔だ。
 必死に肯定する相手を見て、徴矢は何故だか悲しくなった。
(やっぱ、独りは嫌だもんな……)
 言い様のない寂しさを思い知りながら感傷に浸る徴矢を横目に、賢吾は黒髪に切り出した。
「じゃあさ、これからアニマニアいかね!? スミも限定ファンディスク欲しいんだよなっ」
「え?」
 賢吾の聞き捨てなら無い勝手な言葉に、思わず口が開く。
 いつ誰が今日行きたいと言ったと言おうと思ったが、目が輝いた黒髪の言葉に遮られる。
「ほっ、ホントかい?! 俺もきょ、今日買いに行こうと思ってて……」
 一生懸命に嬉しそうに話す黒髪を見て、文句がどんどん押し込まれていく。
「なっ、スミ、行くよな!」
 笑顔の賢吾がこれ見よがしに自分の紋章タトゥーと、黒髪の手の甲のタトゥーを見せてくる。黒髪はされるがままだが、これからやっと自分の領域の話を他人と語り合えるという喜びで舞い上がっていて、それどころでは無さそうだった。
 もしも、今、この場で断ったら。
(…………俺、完璧に悪者だな……)
 喜びに舞い上がっている人間を失望に突き落とす事ほど、悪人だと思われることは無い。
(セオ、すまん……)
 もう門の前で待っているだろう悪魔に心の中で謝りながら、徴矢は素直に首を縦に振ったのだった。









  
   





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後書的なもの
 
いつも以上に内容が無いですね……
  しかし仲間が見つかるという事はカンダタの蜘蛛の糸に等しいと思います。
  

2009/04/04...       

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