No.15








 
 
 
 時は変わって、今から五分前。
 
 あれだけ恥しくなっても、戻りたくないと思っても、長坂の居る部屋に戻らなければ服はない訳で。ということで、啓一はすっかり正気に戻って困窮していた。
 喉の渇きは癒し声もそれなりに戻ったが、しかしそれでも恥しさは消えない。
 というか、全裸のままで物凄く居心地が悪かった。
 色々気まずくて部屋には戻りたくはなかったのだが、戻らなければいつまで経っても全裸な訳で。パンツすら穿く事が出来ない訳で。このままではどうしようもない訳で。
 そんなわけで散々悩んでいたのだが、結局このままでは恥しいままだ。今更後悔しても遅い。
 啓一はついに覚悟を決め、恥を忍んですごすごと部屋に戻ってきた。
 恐る恐る扉を開けて見たものは、真剣な表情で携帯電話に話しかけている長坂。もう正気に戻ったのかと驚く啓一に、開口一番長坂はこういった。
 
「エミリーから連絡が入ったぞ」
 
 
 
 
 ――――その言葉を聞いてからは、啓一も長坂も互いをどうこう思う暇はなかった。
 エミリーから連絡があったという事は、孝太郎の死に関しての何かが解ったということだ。慌てて服を着て、身なりを整え、車に乗ってアジトから出発した。
 それで車に乗っているのが今、五分後というわけである。
(…………にしても……)
 ハンドルを切る長坂の横顔を盗み見て、啓一は目を瞬かせた。
 さっきまであんなにしょぼくれていたのに、今の長坂は普段通り至って普通の長坂だ。
 最低だの何だのとは言いたくないが、正直、もうちょっと落ち込んだりしてくれてもいいんじゃないかと啓一は思った。自分から「もういいから」なんて言ったくせにとは思うが、とりあえず犯された身としては、もうちょっとこう反省を見せて欲しい……なんて不満が出てきてしまうのである。
 解ってはいるのだが、自分のバカな頭は納得してくれない。
 問うかどうか数分迷ったが耐え切れず、啓一は長坂の横顔に少し眉を顰めながら問いを放った。
「なあ、あんた反省してる?」
 言う啓一の視線に、長坂の目が一瞬泳ぐ。
 だが、何事も無かったかのように視線を前へと戻すと、長坂は口を尖らせた。
「普通の俺に戻れっつったのはおめぇだろ」
「……いや、でもさ、何かこう……もうちょっと反省の色とか見せて欲しいっていうか」
 長坂の言葉は至極尤もその通りである。が、しかしそんなに完璧に元に戻ってもらっても、啓一の男のプライドは納得できないと騒ぐワケで。
 自分でもどうしてほしいのか解らず、啓一は顔をくしゃくしゃと揉むしかなかった。
「反省しててほしいのかよ」
「んー……いや……だからさー…………」
 そんなにはっきり言われたら、ますます何もいえなくなる。
 赤信号で車を停めた長坂は、そんな啓一に怒ったような顔で振り返った。
「だーッもうテメェは俺にどうして欲しいんだよ!? 普通でいいのか落ち込んでいいのかどっちかはっきりさせろよ!! 普段どおりで落ち込むなんて器用なこと俺は出来ねぇんだよ!!」
 長坂の意気に思わず押されたが、啓一も負けるものかと言い返す。
「だっ、だから反省の色が見えないのが気になるって言ってんの! お前本当に反省してる!?」
「バカ! してなかったら落ち込んでいいのかとか言わねぇだろ!」
 その言葉に、啓一は面食らった。
「…………じゃあ、落ち込みたいんだ」
「………………」
 こちらを凝視した長坂の顔が、微妙な感じに歪む。
 何だか頬が仄かに赤くなっているような気がするが、気のせいだろうか。
 気になって更に問いかけようとする声を遮って、周囲の車がエンジンをふかす。
 対向車の発信音に長坂も気付き、慌てて顔を正面に戻すと、まるで今までの発言を誤魔化すかのように思い切りエンジンを吹かして車を急発進させた。
 ぐんとシートに叩きつけられて、啓一は思わず歯を食い縛る。
 だが、次に出てきた言葉は、罵倒ではなく笑いだった。
「っ……ぷ……くははっ、はっはっはっは! なにその行動、バカみてぇ!」
 啓一のその様子に、仏頂面で前だけを見ていた長坂も次第に顔を緩ませる。そして、我慢できなくなったのか啓一と一緒に笑い出した。
「バカはっ、お前だっつうの……!」
「うるせぇっ、バーカ!」
「お前こそバカだろ、バーカ!」
 言い合っている事も笑い所も全部下らないものなのに、何故だか笑いが止まらない。
 他人からすれば、本当に馬鹿馬鹿しいようなことなのに。
 けれど、それは二人にとっては不満や後悔を吹き飛ばす大事な笑いだった。
 
 
 
 
 
 
 
 エミリーがナンバーツーを勤めるおかまパブ『愛・爆発』は、昼間の時間ということもあってまだマネージャーも出勤していなかった。普通、店というのは店長やマネージャーなどが管理しているもので、従業員に店の鍵を渡すなんて事は殆どの場合無い事なのだが、どうやらエミリーは余程店長やマネージャーに信頼されているらしく昼間に一人で店の中に入ることを許されていた。
(やっぱ情報屋だからかな?)
 初めてエミリーにあった時もマネージャーは理解しているような感じだったし、もしかしたらこの店は情報屋のアジトとしての機能も持っているのかもしれない。
 何だかにわかに三流小説のようになってきたなと思いつつも、啓一は長坂を見上げた。
「エミリー、もういるんだよな?」
「ま、いなけりゃ鍵かかってんだろ」
 目の前の豪華なドアノブを長坂が引くと、簡単に扉は開いた。
 中は暗かったが、奥のほうにうっすらと明かりが見える。あの場所はエミリーがいつも座っている場所だ。顔を見合わせて、啓一達は明かりの方へと向かった。
「あっ、総悟、啓一ちゃん。来たわね〜おひさ〜」
 コンパクトをぱたんと小さな動作で閉めて、エミリーが手を振る。
 遠目から見たら金髪グラマー、近くで見たらナイスマッスルスポーツマン。変わらない。初対面の時と全然変わらない。日活映画俳優のような顔も相変わらずだった。
 慣れてきたとは言えこのギャップは強烈で、啓一は暫し立ち尽くす。が、長坂はいつものことと馴れているのか早速エミリーの隣に座った。
「で、どこまで掴めた」
「やっだわ〜、性急ねえ。早漏は嫌われるわよ?」
「うっせぇ!! 誰がシモの話をしろといった!」
「冗談よ。あんた最近余裕無いわね〜。あーやだやだ。折角和ませてあげようとしたのに」
 オカマジョークという奴なのだろうか。
 とりあえず長坂の横に座りつつも、啓一はエミリーのジョークに少し青ざめた。この状況では、和ませるどころか殴り合いに発展しそうなのだが。
「兎に角……冗談抜きで早く教えろよ!」
「はいはい」
 呆れ顔で肩を竦めるエミリーに啓一も問う。
「エミリー、どこまで解ったんですか?」
 年上ということで敬語を使って促してみると、彼女はむすっとしていた顔をすぐに笑ませ啓一の頭を撫でた。どうやら機嫌を直してくれたようだ。
「結構いい所まで解ったわよ〜。ウチの人優秀だから」
「のろけはいいからさっさと言え」
 横から野次が飛んでくるが、エミリーは物ともしない。
 ようやく啓一から手を離すと、彼女は安閑とした様子で女性のように足を組んだ。
「じゃあまずは、貴方たちが一番知りたいと思ってた死因について話すわね」
 死因――――孝太郎がどのようにして死んでしまったか、ということだ。
 たった一言だけで思わず固まってしまう体に、啓一は心の中で舌打ちをした。
 とっくに乗り越えられたと思っていたが、やはり「死」という言葉はまだ啓一にとっては鬼門らしい。
 だが今は変な感傷に捕らわれている暇は無いと啓一はエミリーをしっかりと見つめた。
 相手は啓一の心境の変化に気付いているのか、笑みを深めてからタバコを一本取り出す。そしてゆっくりと吹かすと、遠い場所を目で見て概要を話し始めた。
「……警察が調べた所によると、死因は首を絞められた事による窒息死。これは確定らしいわ。……周囲には首吊りをしたような痕跡が見受けられ、確かに道具も残っていた。それらの道具には…………いずれも孝太郎ちゃんの指紋が検出されたらしいわ」
 一息置いてまたタバコを呑み、紫煙をすぼめた口から吹き出す。
「まるで、死んだ後……無理に“誰か”に手を押し付けられたみたいな不自然な指紋が、べったりとね」
 沈んだ声を煙と一緒に吐き出すエミリーに長坂は静かに問う。
「他殺、だな」
「そうね。それ以外にも多々不可解な点が見受けられたって言うわ。実際、自殺にしては“部屋が荒れすぎてた”っても言うし。…………孝太郎ちゃん、相当抵抗したのね……首にもね、かなりの引っ掻き傷が付いていたらしいわ。…………多分、首を絞めた時に昏倒した彼を縄で吊り上げたんでしょう」
「そんな……」
 瞠目し思わず呟く啓一に、エミリーは目を伏せた。
「……周囲にね、涙らしき成分の水が飛び散ってたそうよ。彼の胸の辺りにも、べったり。…………悔しかったんでしょうね、孝太郎ちゃん」
 その言葉に、また勝手に涙腺が緩んで啓一は情けない顔で必死に涙をこらえた。
 殺された現場など見てもいないのに、勝手に孝太郎の最期の姿が頭の中で再生される。
 誰とも解らない人間と組み合って、「生きたい」と必死に暴れて、それでも打ち負けて。
 けれど孝太郎が最期まで心配したのは、自分――――啓一だった。
 自分の命よりも、啓一の命を孝太郎は選んだ。
(電話が出来たなら、逃げられたかもしれないのに……!!)
 逃げられないほど衰弱させられていたのか、殺されることを覚悟の上だったのか。
 今となっては、知る術もない。
 どれほど真実を知りたくても、もう孝太郎はこの世界には存在しないのだ。
 当たり前の事実が、改めて啓一の胸に鋭い矢となり突き刺さった。
「……堪えてね、二人とも。まだ話は終わってないから」
 長坂は苦い顔をして頷き、啓一も必死に激情を抑えて首を動かした。
 今は感情的になっている場合では無い。啓一も長坂も、もうそれを理解している。
 二人が怒りに混乱していない事を見取ったのか、エミリーはまた微笑んでタバコを灰皿へと預けた。そして、組んでいた足を組み替えて、二人に真剣な視線を送る。
 薄い鳶色をした瞳は、恐ろしいほどに冴えていた。
「一つ、見逃せない不自然な点があるの」
「……不自然な点……?」
 鸚鵡返しで疑問に顔を顰める長坂に、エミリーは頷いて眉根を寄せる。
 彼女も俄かには納得しがたいといった様子だった。
「普通ね、病院では細かな備品も管理されていて、その所在がハッキリしているものなんだけど…………鑑識が入ってくまなく探しても、一つだけ見つからない物があったらしいの」
「何だったんですか?」
 啓一の問いに一泊置いた後、エミリーは顔を顰めた。
「血液検査キット」
 一瞬、何かが解らずに思考が止まった啓一の代わりに、長坂が顔を歪めて首を出した。
「はぁ!? なんだってそんなもんを……」
「って思うでしょうね。普通なら。…………でも、問題はキットのほうじゃないの。そのキットにセットされていたと思われるものの方」
 理知的な声に言葉を詰まらせる長坂に、エミリーは口を閉じる。
 覚悟はいいかと問い掛けられているようなその表情に、啓一は唾を飲み込んだ。
「……何が……入ってたんですか?」
 恐る恐る訊いた啓一に帰ってきたのは、衝撃的な言葉だった。
 
 
 
「啓一ちゃんの血よ」
 
 
 
「なん、だって……?」
「ど、どうして?!」
 意味が解らず叫ぶように問い返すが、エミリーも渋い顔をして首を振る。
「解らないわ。……そもそも、何故そこに啓一ちゃんの血があったのかも謎なの。一つ試験官が割れていた事で判明したってだけで、何をしていたのかは解らない。念の為その啓一ちゃんの血を調べてみたけど、至って普通の成分でなにが特別ってわけでもなかったわ。……そこにあった“血”はね」
 ならば、残りの自分の血はどうなっているのか。
 言い知れぬ恐れを感じ縋るようにエミリーを見ると、彼女もまた不可解だと言う目で自分を見ていた。エミリーもまたこの異様な事実に不安を隠しきれないで居るのだ。
 隣に居る長坂もそうなのかと、視線を上げる。
 横顔をゆっくりと仰ぎ見て、啓一は目を丸くした。
「…………!」
 長坂は、一分たりとも動じてはいなかった。
「そういう予感はしていた」
 少し緊張したような擦れ声で呟く長坂に、エミリーは驚いたように瞬きをする。
 けれど決して長坂に何か言うような事は無く、黙って次の言葉を待っていた。
 何故そんな予感を感じたのか、と。
 エミリーのその問いに答えるように、長坂は言葉を継いだ。
「俺の所に電話があった時点で、この件は少しおかしいと思ってたんだ。…………普通、犯人の居る前で無関係なコイツの事を話そうと思うか? おかしいよな、それってワザワザ相手に自分の大切な人間を教えてるようなもんだ。……万一、孝太郎が誰かに怨まれたのが発端であそこが修羅場になってたんなら、孝太郎だってあの時電話をかけたことで啓一に被害が及ぶのは解っていたはずだ。……あいつはそんなバカな真似なんて絶対しねぇ。……絶対に、無関係なコイツのことなんか話っこねぇんだ」
 確かにそうだ、と啓一は目の覚めるような思いに襲われた。
 犯人がすぐ近くにいて、逃げられる隙が出来たと言うのに孝太郎は逃げようとはしなかった。それどころか今わの際の伝言を長坂に伝え、最後まで抵抗し続けたのだ。
 最初、それは孝太郎が「生きたい」とだけ考えて抵抗したものだと思っていたが……。
 啓一が関わっていたとなると、話は違ってくる。
 そう。つまり。
「孝太郎さんが殺されたのは…………オレが原因ってこと……?」
 愕然として声を零すように呟く啓一に、長坂は目を向け、細めた。
「断定は出来ねえ。だがこれだけははっきりしている。犯人はお前の事を知っていて、尚且つお前の血を使った何かを必死に奪おうとしていた。孝太郎を殺してでも奪いたい、何かを。アイツはそんな犯人から必死にキットを奪い返そうとしたんだ。
 ……孝太郎は……――――――
 
 お前を守る為に、犠牲になって殺された」
 
 
 
 目の前が、真っ暗になったような気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 長坂に言われた事実が、ぐるぐると頭の中で回り続けている。
 エミリーに「今回はこれだけだから」と声を掛けられるまで、啓一は完全に我を見失っていた。
 最早、階段を上った記憶すらない。
 店を出て長坂の後ろを歩く間も、ずっと頭はある言葉でいっぱいだった。
(…………孝太郎さんは……孝太郎さんは、オレのせいで…………)
 死んでしまった事実より、燃えて消え去ってしまった事実より、何より辛い真実だった。
 孝太郎は自分の為に殺されてしまったのだ、という、いい逃れようの無い実状。それ以外に説明がつかない、孝太郎が「逃げなかった」理由。
 どちらも啓一にとっては重罰のように思えて、堪えられなくて急に叫び出したくなる。
 「こんな真実なら知りたくなかった」と泣き叫ぶわがままな心が、一層啓一を苦しめた。
 孝太郎が電話しようと思わなければ、彼は逃げられたかもしれない。
 「検査をしよう」と言われた時に素直に従っていなかったのなら、全ては防げたかもしれない。
 自分が彼の心の闇に気付いてやれていたら、死ぬ事はなかったのかもしれない。
 自分が、自分が、自分が。
 因果が全て自分にあるなどとは思っていない。だが、それでも己を責めずにはいられなかった。
 出会った時から啓一を一番に思ってくれていた、孝太郎。
 自分の命を賭してまで自分を守ろうとしてくれた、唯一愛しているといえた相手。
 そんな相手を、自分は死に追い込んだ。
 いっそ出会わなければ良かったとすら思えるほどに、今生きている自分の存在が疎ましかった。
 あんなに優しかった、あんなに他人を思いやっていた、あんなに、あんなに自分を愛してくれていた孝太郎の命を…………自分が奪ってしまったなんて。
(こんなの……もう、っ……どうすればいいのか解らねぇよ……!)
 罪悪感が、自分を責め苛む心が止まらない。
 感情の堂々巡りで段々と歩みが遅くなって、いつのまにか啓一の足は立ち止まっていた。
 歩きたいのに、もう一歩も踏み出せない。自分が不甲斐ない。情けない。自分で、いたくない。
 痛いくらいに目蓋を閉じこんで、啓一は頭を垂れた。
(オレ……もう…………死にたい……)
 ――――――と、思った刹那。 
「何やってんだよ、バカ」
 小馬鹿にしたような言葉が聞こえて、頭に暖かい何かが降ってきた。
 思わず顔を上げた、そこには。
「っ…………」
 そこには、暖かい微苦笑を浮かべた長坂が居た。
「……行くぞ」
 優しく肩を抱かれて、ゆっくりと押し出される。すると何故だか足が動いて、勝手に涙が零れた。
 泣かないようにと、必死に堪えていたはずなのに。
 自分でもなにが何だか信じられず暫く歩いていると、長坂が不意に言葉を発した。
「誰も、お前のことを責める奴なんざいねぇよ」
「おっ、さん……」
 思っていたことを言い当てるかのような言葉に、思わず声が引きつる。
 だが相手も啓一の心情を解っているのか、それをからかったりする様な事は言わない。
 ただ、前を見据えてゆっくりと歩きながら、言葉を続けた。
「孝太郎はお前のことを考えた。お前も、その時の精一杯の気持ちでアイツに接してたんだろう? …………だったら、なにも悪くなんかねぇさ」
 でも、本当はそうじゃない。
 解っている。
 長坂は、自分の心を慰めてくれているだけだ。
 自分に責任が無いなんて事はないのだ。
 けれど。
「っ……ぅ…………お、れ……もう、泣かな、って……決めてたのに……っ」
 長坂に否定してもらっただけで、涙が溢れてきた。
 自分は許されたのだとでも言うように、勝手に目から涙が出てきて止まらなかった。
 何も許されてはいないのに。
 何も、解決されてはいないのに。
「……泣けよ」
 啓一の肩を抱く力が強くなる。
 水に塗れた視界の隅に、ふわりとアッシュブラウンの毛先が揺れた。
「…………我慢すんな。俺がいる時は、泣いていい」
 指で顎を掬われて、長坂の顔のある方向へと導かれる。
 陽光に輝くオリーブグリーンの瞳は、ただ真剣に啓一を見つめていた。
「おっさ……」
「長坂って呼べよ、啓一」
 自分とは違う不可思議な瞳が、近づいて来る。
 何をされるのか解っているのに、体は動かない。本当なら拒まなければいけないのに、啓一の焦りとは裏腹に心はなんの嫌悪感も催してはくれなかった。
 ただ、名前を呼ばれただけなのに。
 慰めてもらった、だけなのに。
「啓一……」
 
 なのに、どうしても体が動かない。
 
 少し低い言葉と微かなタバコの香りに目を細めて、啓一は黙って長坂を受け入れた。
 触れる唇が、自分の髪を梳くその大きく暖かい手が、涙を鎮めていく。
 人に見られるかもしれない街角でこんなことをしているのに、とめられなかった。
(なが、さか……)
 心の中で呟いて、目を細める。
 この罪悪感が消せるのなら、もう、なんだっていい。
 今はただ長坂の暖かさだけに触れていたくて、啓一は目を閉じた。
(…………最低だ、オレ……)
 自分は悪くないのだと信じたくて、長坂の優しさにつけこんでいる。
 あれだけ孝太郎だけだと自分を守っていたのに、こんなことで簡単に長坂を受け入れてしまっている。
 唯一好きだった相手を裏切るようなことで、啓一は自分を守っていた。
 孝太郎にも長坂にも、自分は不実な事をしてしまっている。
(でも、オレもう、どうしたらいいのか解んねぇよ…………)
 柔らかい長坂の唇が啄ばむように啓一の唇を食んで、またゆっくりと合わさってくる。
 恋人でも無いのに、まるで恋人同士がするような口付け。
 孝太郎との純粋なキスとは違う、熱を送り込んでくるような不可思議なキス。
 啓一はただその熱に縋りたくて、黙って長坂を受け入れていた。
 キスをされる度に、心の中の罪悪感が消えていく。不安も、苦しさも、辛いこと全てがどこかへ飛んでいくような気がした。決してそんなことなどないのに。
 けれど、この時だけは何も考えずに長坂の温度だけを感じていられた。
 ――――やがて、ゆっくりと熱が離れていく。
 薄っすらと開いた眼前には、まだ真剣な表情でこちらを見ている長坂が居た。
「……悪かったよ。お前の気持ちも考えず、言い過ぎた」
 何のことを言っているのかと惚けた頭でゆっくりと瞬きをするが、相手は表情を変えない。
 それどころか啓一の額に手をあて、前髪を後ろへと撫で付けるように優しく髪を梳いた。
「けどよ、お前が狙われてるのはきっとそれが原因なんだ。……だから、解っていて欲しかった。…………もうお前が…………」
 言いよどんで、首を振る。
 何を言いたかったのかが解らず、啓一は思わず名前を呼んでいた。
「長坂……?」
 自分でも驚くほどのか細い声に、呼ばれた相手はまた啓一をしっかりと見つめてくる。
 普通の人間とはどこか違う綺麗な瞳が、困惑している啓一を映し出す。
 だが長坂一人だけは全てを解ったような顔をして、何の迷いも無いように啓一を捉えていた。
「…………俺が、もう二度とあんなコトはさせない。俺が、守ってやる。…………だから、もう、泣くな。……俺が……ずっと傍にいるから……」
 そうしてまた、口付けを寄越す。
 暖かで情熱的なその感覚に、啓一は悲しげに眉を歪める事しか出来なかった。
(ダメだ……オレ…………ほんとに最低だ…………)
 背中に回された腕に、心が安堵する。
 大きな手が自分の横腹をやさしく包むだけで、また涙が溢れそうになった。
(オレ…………長坂のこと、拒むどころか…………もっとして欲しいって思ってる……)
 
 自分の為に、孝太郎は殺されたのに。
 
 だが拒否の言葉は終ぞ出る事は無く、啓一はただ涙を流す事しか出来なかった。
 
 
 
 











  
   





Back/Top/Next




Powered by NINJA TOOLS


感想が貰えると九十九島が嬉しさのあまり炸裂します。

レスはこちら






後書的なもの
  色んな意味で進展しました。
  実際どのように言われているかは解らなかったので
  「血液検査キット」と言いましたが、市販のやつとはちょっと違うイメージです。
  別の言い方あったら是非ご指摘下さいマジで
  
  そして、こちらもしん…てん…?
  
  本当に好きだった相手を裏切るようにして楽しいことに逃げようとするのは
  とてもいけないことですが、その相手が死んでしまっていたらとか
  精神的に追い詰められていたら…と考えると
  無碍に非難する事も出来ないよなあと思います。
  
  BL的にはとても美味しい心理状況なんだけどね!(おい

  
  

2011/08/03...       

inserted by FC2 system