深夜の庭園。
 星と月しか照らす物のないその場所に、たった一人誰かが立っていた。

(……今夜も来ていたか)
 ルッドはかちりと鳴らした剣をまた鞘に収めると、花と草木に囲まれた東屋に足を進めた。
 静かに歩いているはずなのだが、纏っている漆黒の鎧はかしゃかしゃと煩わしい音を立てる。こんな音など戦闘になれば気にもならない程度の些細な音なのだが、虫の声と草木の動く音しかしないこの場所では酷く煩わしい音のように思えた。
 けれどそれを消す事など出来ず、仕方なくルッドはそのまま東屋へ近付く。
 やがてその場所にぼうっと影が浮かび上がった。
 その影は近付くたびに明確さと色を増して行き、東屋に辿り着いた時にはしっかりとした人間になる。ルッドはその人間を見おろしながらも、ぶっきらぼうな声で呟いた。
「……また来てたのか」
 その声に、古びた大理石に座り込んでいた人間はゆっくりと振り向く。
 こちらを向いた顔は、やはり見知った顔だった。
 漆黒の髪、金の髪飾り、緑翠の瞳。
 布に薄いヴェールを纏っただけの酷く寒そうな軽装は、いつもと変わらない。
 しかし彼はそんな事など気にしていないのか、まだ幼さを残したその顔をふっと微笑ませた。
「あんたこそ、また来たんだ」
 大人になりきれていない、話す調子の狂う幼い声。けれどしっかりとしたその物言いにルッドは片眉を顰めると、罅の入った白亜の柱に背を預けた。
「来ては悪いか」
 不機嫌な声で返すと、相手は忍び笑いをしながら口を弧に歪ませる。
「ううん。そんなことないよ。……ただ、いつも飽きないなと思って」
 どこかこちらを面白がっている声に、少しイラつく。だが子供相手にムキになるのもどうかと考えて、ルッドは己を制した。相手はそんなルッドを更に面白そうに見つめ、そうして姿勢を元に戻す。
 遥か遠くにある月を見上げて、そうしてまた微笑んだ。
「俺の歌を聴きに来てくれるの、あんただけだから。……でも、いっつも同じ歌ばっかだろ? ……だから、飽きないのかなって思って」
 言って黙る相手の表情に、ルッドは眉を寄せた。
 顔は、笑っている。だが、目は笑ってはいない。どこか遠くを見つめて悲しそうに潤んでいた。
 けれどその悲しみをルッドが慰めてやれるわけも無い。それを解っていて、ルッドはあえてその目に気付かないふりをした。もし下手に慰めでもしたなら、少年である彼のこと、きっと怒ってもうここへは来なくなってしまうだろう。ルッドは慰める事が苦手だった。
(それに……俺には、こいつの苦しみは解らない)
 目を細めて見やる相手の姿は、自分と変わりない。ただ一部分を除いては。
 ただ一部分――――羊のようにぐるりと曲がった、その厳つい一対の角以外は。
 月の明かりにぼんやりと照らされたそれを見ながら、ルッドは変わらない調子で言葉を返した。
「お前こそ、俺しかいないというのによくも現れて同じ歌ばかり歌えるな。いい加減この状況に飽きないのか」
 そう言うと、相手は面白そうに笑って体を軽く曲げた。
「ははっ。まあ、それもそうだけどさ。……言っただろ、俺の歌を聴いてくれるのは、あんただけだって。……だから、俺はここに来るんだよ」
 まるで、行き場の無い者のような発言だ。
 けれどこの少年にはこの表現しかし得ないのだとすぐに解り、ルッドは目を伏せた。
 ルッドのその気配に気付いたのか、少年はまたこちらを向くとニッと明るい笑顔を見せる。
「なあ! そんなことどうでもいいからさ、聴いてくれよ。今日もその為に来てくれたんだろ?」
 明るいその声が弾む。けれどその声がどうしても心の底から楽しそうにしているとは思えずに、ルッドは眉を顰めた。そうしては行けないと解っているのに、彼がどうして真夜中のこの朽ちた庭園にいるのかを考えるとそうせずにはいられない。相手もルッドのそんな気持ちを解っているのか、少し困ったような顔をするとまた口元を吊り上げた。
「俺さ、ホントに嬉しいよ? あんたが来てくれる事だけは、本当に嬉しいんだ。……だから、そんな顔しないで。俺の歌、聴いてよ」
 月の明かりに仄かに煌めく緑翠の瞳が、じっとこちらを見つめる。
 その目が懇願しているように思えて、ルッドは軽くうなづいた。
「歌いたいなら、歌え」
 酷く簡潔で思いやりの無い言葉だと自分でも思う。
 けれど彼が喜ぶ言葉は、それ以上のものでもそれ以下のものでもなかった。
 その言葉こそが、少年にとってはとても嬉しい言葉なのだ。
 悲しいことだが。
「……ありがと。ルッド」
 今夜は初めて自分の名を相手から聞いたなと思いつつ、ルッドはそのままの姿勢で少年を見つめた。相手はそんなルッドに微笑むと、またこちらに背を向け月に向かって口を開く。
 そうして、彼は静かに歌い始めた。
 最初は、潜めたような声。けれどそれはやがて弾むような音に変わって行き、旋律を奏でた。
 彼の口から紡がれる音は、耳慣れないがとても懐かしい思いのする音。望郷の念さえ思い浮かぶような、優しい歌。けれどもどこか悲しみを内包した、どこか切ない歌だった。
(この歌が何を意味するのかは、俺には解らん。……だが、解る事はある)
 少年がこの歌しか教えられず、これまでこれ以上の歌を知らずに独りで生きてきたということ。そして、彼は今この歌を大いに歌う事のできるこの時間が、本当に大好きなのだということだ。
 その時間を作ってやっているのが自分だと思うと、ルッドは何故か心を引き絞られる感じを覚えた。
 彼にこの優しい時間を提供してやれるのは、自分だけ。彼の「歌いたい」という願いをかなえてやれるのは自分だけなのだ。
 ルッドにとっては、その事実がどんな勲章よりも誇らしい物だった。
 彼をこうして癒してやれるのは、自分だけなのである。
 いつの間にか緩んできた頬をそのままにしながらも、ルッドは静かに少年の歌が終るのを待った。
「…………はぁ。ありがとな。今日も聴いてくれて」
 その台詞を聞いたのは何度目だろうかと思いながら、ルッドは頷く。
 感想すら言わない自分に腹が立つだろうとは思うが、少年はそんなことなどおくびにも出さずにただこちらに向かってニコニコと笑っていた。満面の笑みだ。
 月の明かりに照らされるその顔がどうしてか夢の中の物のように思えて、ルッドは目を少し見開いた。何故か儚げに思えるその顔が、一層胸を引き絞る。
 ルッドはその思いに気付きながらも、冷静を装って少年を見続けた。
「別に礼を言うほどのことでもないだろう」
 言うと、少年は意外そうな顔をして首を横に振る。
「そんなことないよ。……あんた、解ってるようで解ってないんだなあ。」
「ガキにそんなこと言われたくないな」
 ルッドの言葉に、相手はムッとして口を尖らせる。そんな様もまた幼く可愛らしい物だと心の中で思いながら、ルッドはその顔を見つめた。
「あのなあっ! …………はあ。もういいや。あんた結構鈍いもんな」
 少年はどこかがっかりしたように肩を落とすと、首を左右に降ってまたこちらに背を向けた。
 そんな拗ねた姿に薄ら笑いを浮かべながら、ルッドは内心笑う。
 ――――「にぶい」のではない。
 ただ、その表情が面白いから、いろんな顔を見せてくれる事が愛おしいから、あえて気持ちに気付かない振りをしているのだ。
 意地が悪いといわれようとも、ルッドは素直に愛を囁くより、相手の心を焦がしこうして焼き餅を焼かせる事の方が好きだった。言葉で愛を囁くのもいい。すぐに交わる事も手段の一つだろう。
 けれど、彼とそれを行う気など無い。
 それは彼が自分を本当に頼っているからでもあり、互いに――

 互いに、互いを愛しているのだと解っているからだった。

 真夜中、朽ちた庭園。それだけの接点。だがそれで何度逢瀬を果たしたか知れない。種族も生き方も性格も、人生さえも違う二人が、こうしていつもと同じ軽口を叩きながら、この時間を惜しむように夜が明けるまでここで二人っきりで過ごす。
 誰かにとっては「何気ない日常」だと思われるだろう。
 けれど、ルッドと少年にとってはこの「何気ない日常」がなによりも大事な時間だった。
 何よりも心を癒し、そして今まで失っていた大事な何かを取り戻させてくれるような時間だったのだ。
 何故そう思うのかと問われれば、ルッド自身もここ以外では心の癒しようがなかったから。
 何処へ行っても、ここ以外――――どこも、心を癒せる場所はなかったからだった。
(戦、戦、戦……ここを離れれば、俺には安息の時間など無い。どこへ逃げても剣士は戦へ借り出される。俺と同じ人間がいる限り、俺が戦わない日など無い)
 夜が明け人里へ戻った時の事を考えて、ルッドは目を伏せた。
 戦うことに理由があれば、まだ自分は疑問を持たずに戦えるのだと思う。けれど今借り出される戦は、ルッドに納得する理由を与えてくれなかった。ただ強い駒として扱われ、同じ駒になってしまった人間と切り結び、同じ種族同士で残忍に殺しあう。
 死ねば、腕も、足も、首も全て引き千切られ、飛び、蹴られ、人間だと解らない姿になるまで死体は捨て置かれただ土に帰るしか無い。同じ人間だったものは、最早腐ったものでしかない。それを目の当たりにして恐怖を覚えても、逃げ出すことなど出来ずただ命令されて死ぬまで動いているしか無いのだ。なんの戦う理由も与えられないまま、ただ、使い捨ての駒として。
(国はどこも『国の平和のため』という。全ての民のためという)
 しかし、それが理由になるだろうか?
 それが、死んでもいい理由になるのだろうか?
 ただ駒として借り出され、不必要に他人を殺し、生き延びるための理由になるのだろうか?
(同じ民は死に、平和は訪れず、同じ事を言われて向かって来た敵の駒を切り捨てる。それが本当に平和へと向かう道なのだろうか?)
 ルッドには解らない。
 解らないからこそ、納得が出来なかった。酷く憂鬱だった。そして、疑問を感じていた。
 国に忠誠を誓ったはずだったのに、疑問で頭が狂いそうだった。
 だからこそ、人里にいられなかったのだ。
(だからこそ……俺は……ここに来た)
 自分が能弁だとは思わない。だがこの言葉だけで全てが理解されたような気がして、ルッドは心の中で頷いた。そうしてまたこちらに背を向ける相手を見やる。
 自分よりも細く、まだ成長途中の頼りない姿。
 揺れる金の髪飾りは、男だというのに何故だか似合っているように思える。乱雑に切り揃えられた髪も、所々長くて彼の不器用さが知れた。一目見ただけで、ルッドには彼の何もかもが理解できたような気がして、なぜだか心が暖かくなる。
 ここでこの少年と出会うだけで、全てが忘れられるような気がした。
「…………レイディン」
 ふと、自分でも気付かずに相手の名前を呼ぶ。
 するとレイディンと呼ばれた少年は振り返り、にこりと笑った。
 本当に綺麗な顔で、笑った。
「やっと、名前呼んだな」
 その嬉しそうな声が、優しげに笑ってくれる顔が、自分自身だけを見てくれる心が、全てが愛おしい。
 この荒んで狂った心を癒してくれるその笑顔が、何よりも心を揺さぶってくれる。
 荒んで狂い始めたルッドの心に、その何気ない仕草は何よりも大きな暖かさを与えてくれた。
 誰でもない。今ここにいる、たった一人の少年が、与えてくれたのだ。
「……レイディン。俺は、お前に何か与えてやれているか?」
 不意に口から出た問いに自分で驚くが、レイディンは別段そうするでもなく、不思議そうに首を傾げた。そうして、暫くしてまた笑う。
「あんたは本当に鈍いなあ」
 そうして、レイディンは見惚れるような顔でこう言った。

「あんたは、俺に生きる意味を与えてくれてるんだよ」



 心を深く突き刺し、包み込むような、はっきりした言葉。

 

 その言葉に、ルッドは何故自分が彼を好きなのか、はっきりとわかったのだった。















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 書いた本人も未だによく解らない話だという逸品(……)。
 本当は色々とレイディンの背景とかルッドの事とかも入れ込んできっちりと話を作りたかったんですが、如何せんこれ以上中編以上のものを作ったら行かんと思いまして短編でこのような結果になりました。
 あえてカプ表記がされてないのは、どっちでもいけそうだと思ったからです。少年攻めか受けか……どちらも素敵ですよね。
 心のよりどころの意味や何故相手をこう思うのか、ということを再認識した時のハッとするような心地は、とても素晴しいものだと思います。恋って良いよね!かしのきおじさん!(誰だ)
 とりあえずこういう話を書いて今一番恥ずかしいのは自分です。



2008.08.31...
 
   
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