Nacht vom Hexenjagd
「俺って、あなたにとって何なんですか?」
茫洋とした橙のランプの灯りに、寝台の周りだけが浮かび上がる。
古い窓枠に嵌められたガラスの奥には、小さな光がぽつぽつと輝いていた。
夜が深いのだと思いながら、アルスは枕を抱いて顔を押し付ける。その様子を見もせず、問いを向けられた相手は背を向けじっと窓の外を見ていた。
暫し沈黙が続いて、男は低い声でぼつりと呟く。
「家畜。……飼い犬。飼い猫。…………いずれにせよ、伴侶には成り得ない」
灯りに浮かび上がる、闇よりも尚黒い獅子の鬣の様な髪。逞しい体躯。ただ一つ人間と違っていたのは、その頭に生えた捻じ曲がった樹のような二つの角だった。
アルスはその姿を目を細めて見つめながら、肌触りの良い枕に頬を摺り寄せる。視界にかかる赤色を含んだ黒髪が、更に視界を狭めた。
「恋人や、愛人でもなく?」
少し寂しげに言うと、男はこちらを向いた。
野生的で、しかしどこか人間離れした美貌が光に照らされる。その顔には、何とも言えない表情が浮かんでいた。相手のそんな顔を見つめ、アルスはただ口を噤んだ。
アルスの態度に男は暫し黙っていると、そっとその節くれだった手でアルスの髪を梳く。
「お前は、恋人や愛人にはなれない」
「何故?」
優しく触れてくれるその手に陶酔しながらも、アルスはまた問う。
男は相変わらずアルスの髪を梳きながら、そのまま寝台へ体を横たえた。大きな体躯を抱えて、寝台が苦しそうに軋む。だがそれに構わずに、男はじっと緑色の瞳でアルスを見つめた。
「お前は、俺と共に長い時間を生きられないから」
無表情。しかし、その顔にはどこか悲しさが感じられる。
いや、これは「悲しい顔」だ。
何年も傍にいる相手の事が敏感に判って、アルスは優しく苦笑した。
「あなたは、千年も何年も生きる人だから?」
「……悪魔は、それぞれだ。だが、人間とは圧倒的に違う。寧ろお前らの寿命や老いは早すぎる。だからこそ、俺達の伴侶にはなれない」
突き放すような言葉。けれど、それが自分を遠ざけているもので無い事など解っている。
彼は、感情を表わすのが下手だ。悪魔だからか、それとも彼自身が表情を作る事を忘れてしまっているのか。兎に角彼は己の感情を出す事を上手くできていなかった。
しかし、アルスには彼の感情が手に取るように解る。彼の召喚者だからか、それともこうして結ばれているからか。それは今でもよく分からないが、今となってはどうでもいいことだった。
アルスは緩く穏やかに微笑みながら、目の前に有る男の顔を見る。
「だから、俺は飼い犬なんですか? 人間の飼う家畜のように、命が短いから、そう見ているんですか」
返事をせずにじっとアルスを見る男に、苦笑は深くなった。
「……だったら、お願いしていいですか?」
「……願い?」
驚いたように目を瞬かせる男に、アルスはゆっくりと頷く。そして幾分か暗い青色の瞳で、相手の輝く緑色の瞳をしっかりと見つめた。
「俺は、確かにあなたのように長くは生きていけません。あなたからすれば、猫や犬のようにすぐ死んでいく小さな命の生き物でしょう。けど、もし、俺をあなたが愛してくれたのなら」
そこで言葉を切って、男に腕を伸ばす。
弱りきって細くなった腕は、しっかりと男を掴み引き寄せようとする。
けれどアルスにはそんな力は無く、気付けばアルスは男に逆に引き寄せられていた。
自分と違う種族とは思えないほど暖かく、自分と同じ鼓動の聞こえるその躯に、自分の貧相な体を押し付ける。少し冷たい体は、相手の熱をゆっくりと伝えていった。
その感じに目を閉じて、アルスは男の胸に頭を預ける。
「もし、あなたが、少しでも俺を愛してくれてるのなら…………
俺が死んでしまう時まで、一緒にいてください」
「アルス……」
思わず驚いたように呼びかける相手の腕が、きつく自分を締め付ける。
直に感じる体温が上がるのを感じながら、アルスは続けた。
「犬でも猫でもいい。あなたが傍にいて、俺を愛してくれてるのなら、恋人になれなくても構わない。だから、俺達が犬や猫たちの死を見取るように……ずっと……ずっと、一緒にいてください」
自分達は犬を猫を、己の傍にいてくれる大切な命短きものを愛する。
己に愛を傾けてくれた小さな命たちに報いるように、ずっと愛し慈しみ続ける。
もしも、自分達が悪魔にとって家畜ならば、そうして愛してほしい。
例え一生を伴に出来なくても、相手の恋人になれないとしても、彼の悲しみを増やしてしまうとしても。
愛してくれるのならば、家畜で構わない。
だから、死ぬ時まで一緒にいて欲しい。愛して、欲しい。
「俺は多分、老いる事もなく死ぬでしょう。老いて尚健やかに生き、あなたとともに居たかったけど、それは無理だ。俺はきっと、数年の間生きて数年で死んでしまう。……けれど、一緒にいたい。俺は、
死ぬ時まであなたと一緒にいたい」
切なる願いをこめた、泣きたくなるような言葉。
けれど決意を心に秘めたアルスの中には、もう悲しみを訴えて流れる涙は無かった。
もしも彼が自分を愛してくれているのなら、死んでしまえばきっと悲しむだろう。悪魔は人の心がないと世間に言われるが、そんなことは無い。彼らも人間のように泣き、笑い、怒り、そして何かを愛する事が出来るのだ。そう、自分達を忌み嫌っている、天の神と同じように。
だからこそ、悪魔は人間に近寄り、意識を奪い、己の意のままに操ろうとしたりする。時に使い魔になったりもするのだ。それは人間とまったく一緒ではないだろうか。
自分の目の前にいるこの悪魔は、少なくともそういう悪魔だった。
だからこそ、自分は愛したのだ。この不器用な悪魔を。けれど。
「……ごめんなさい。……一緒にいることが出来なくて」
広い胸に頬を摺り寄せ、ただそう呟く。その言葉に腕が抱きしめる力を強くして、気付けば男はアルスの髪に顔を埋めていた。
「…………一緒に、いよう。……お前が望むのなら、お前が俺を愛するのなら、俺もお前と同じように愛し、お前が魂を手放す時まで共に過ごそう……」
くぐもった声に、相手が少し泣いているのが分かる。無表情で、大きい体で、まるで煉獄の大将軍のような出で立ちなのに、彼は泣き虫だ。
力の有る悪魔なのに、彼はアルスと共にいると何故かすぐに泣いてしまう。
(悪魔だって、悲しいときがある。泣いてしまう。……俺達と、一緒なんだ)
だから、彼はアルスといると泣いてしまうのだろう。
なら、もし自分が死んでしまったとき――――彼は、泣いてくれるのだろうか。
(無理かな。俺がいないと泣かないもんな、この人。……でも、泣いて欲しいなあ)
自分が犬や猫なら、泣いて欲しい。
こんなにも愛していた。こんなにも一緒にいたかった。そんな思いをこめた涙を、人間のように流して欲しい。自分達が彼らにそうして思いを知らせるように。
恋人じゃない。伴侶でもない。だから、泣いて欲しかった。
「俺がもし死んでしまったら、泣いてくださいね。……我慢せずに、泣いてください。そうしたら、俺はもう苦しくないから。きっと、どんな苦しみも消えるから。……だから、泣いてください。」
「アルス……」
抱きしめる腕が痛い。けれど、その痛みは紛れもない証だった。
アルスを相手が愛してくれているという、確かな感情のなしたものだった。
「…………お前が、俺と同じものだったら、良かったのに」
狂おしげな声が離れて、首筋に息が掛かる。熱を持ち赤くなった頬を肩に押し付ける相手に自然と笑みが浮かんで、アルスは彼を抱きしめる腕の力を強めた。
「俺も、あなたと同じ物になれたらと思いました。……でも、違うんです。俺は、人間だったから。あなたは、悪魔だったから……互いに惹かれたんです。運命的だと思える出逢いをして、恋をしたんです。……だから、俺は……人間で、よかった」
「でも、俺は……俺は…………お前が……」
肩に噛み付くように強く顔を埋める相手のその言葉に、アルスは一度目を伏せ、頭をゆるく横に振った。そうして、手を解いて男の顔を優しく引き剥がす。
目の前に現れた泣き濡れた顔は、とても格好のいい相手の顔とは思えない。
その様子に口だけを笑ませると、アルスはその熱くなった頬をすっと撫でた。
「犬は、猿にはなれません。猿は、人にはなれません。人は……悪魔には、なれないんです。その命に生まれたからには、その命を死ぬまで全うしなければなりません。だから……駄目、なんです」
「…………」
相手はその言葉に答えない。
しかし、アルスには彼が何を思っているか解っていた。
「例え近い内に俺が死んでも、俺はあなたを一生愛しています。……だから、もし泣き終わったら俺の事は忘れてください。犬や猫のように、次の愛するものを求めてください。……それで俺は……幸せです」
目の前の美しい緑の瞳が潤む。
自分と同じような歳の格好で、中身は遥か遠い年月を生きているというのに、相手は自分よりも心が弱い。これで本当に生きてきたのかと思うくらい、男は寂しがりだった。
けれど、そんな性格だからこそ、アルスは目の前の男を、いや、悪魔を好きになった。
長い時間を見、人間の愚かさをいやというほど見てきた悪魔が、こんなにも純粋で気高い生き物だと思わなかった。そして、人間を好きだとは思わなかったから。
自分だって、高々数十年しか生きていない。
人と違う力を手に入れ、違う道を歩いていても、アルスはただの人間の男だった。彼と出会うまでは悪魔は名の通りの存在と思っていたし、人間を好きな存在だとも思わなかったのだ。
けれど、彼と出逢ってからアルスは変わった。
悪魔は自分の命を共にするべき相手だと分かったのである。
彼らが人間と共にいたがる理由も、彼らが人間を操るわけも理解できた。だからこそ、悪魔は愛する事のできる存在だと思えたのだ。
だが、やはり、人間は悪魔とは共に生きては行けない。
永遠に傍にいることなど、できないのだ。
だから、悪魔は寂しさを隠すように、もうこれ以上アルスを愛さないように「人間は家畜だ」と言った。その言葉の意味が分かっていたから、アルスはその言葉を受け入れた。
そして、家畜でも良いから愛して欲しいといったのだ。
伴侶にするまで愛せば、悪魔は自分が死んだとき狂うだろう。
恋人にするまで愛せば、悪魔は枯れるまで涙を流してしまうだろう。
けれど、家畜なら。
その命の終りを知り、その時が来る事を覚悟して飼うことの出来る家畜なら。
例え愛していても、悲しみは必ず癒えるだろう。命の終りを分かっているからこそ、悲しんでばかりはいられないと思い立ち上がることが出来るに違いない。
そして、愛していた事を思い出にしてくれるだろう。
すぐにまた愛する家畜を見つけ、自分は名前だけの存在にしてくれる。
素晴しいことだ。
だとすれば、悪魔は長く悲しまずに済む。また、どこかで笑って暮らせるようになるのだ。
相手より先に死んでしまう自分にとって、それが最後の相手への贈り物だった。
(あなたには、もう悲しんで欲しくない。……俺と一緒にいると、あなたはもっと悲しくなる。これからももっと悲しみを覚えるだろう。……だから、いいんだ。俺はただの家畜で、いいんだ)
ちらりと見た窓の外には、赤く燃え上がる明かりが上がっている。
その周りに小さな赤い玉が動いて、まるで妖精が踊っているようだった。
遠くに見えるその光景を首を伸ばして見て、アルスは悲しげな笑みを浮かべる。その顔は、何かを覚っているような顔にも思えた。
「……俺、こんな力なんていらなかったなあ……」
呟いて、アルスは悪魔の胸へと潜り込んだ。そうして、黙って目を閉じる。
「…………眠れ……。もう、眠れ」
アルスの言葉に返すようにそう言う悪魔に、アルスは頷く。
単調で無表情なその言葉に幾分かの悲しみが混ざっている事を知りながら、もう何も考えたくないと頬を相手の胸へと押し付けた。
(……あと三日)
目の奥で、あの赤々と燃え上がる明かりが焼きついて闇を照らす。
(あと三日経てば、俺はもうあの中に加わるんだろう)
ただ心残りがあるとすれば、やはり自分を抱いて眠る悪魔だ。
だが、もう考えたくない。
自分は飼い犬、飼い猫なのだ。不必要な情など要らない。これ以上の愛など望んではならない。これ以上相手を愛してはならない。もう、愛されてはならないのだ。
愛してしまえば、自分は家畜ではなくなってしまうから。
(…………)
しかし、もし自分が死んでしまったら、悪魔はどうなってしまうのだろうか。
家畜でもいい。だが、願わくば、やはり愛した家畜のように自分を忘れないで欲しい。
それがわがままだと解っているが、どうしてもそう思わずにはいられなかった。そんな思いが頭を支配して、先程言ったばかりの覚った思いを壊す思いが浮かぶ。
だがアルスにはもう、その思いをもう抑える事は出来なかった。
どうして自分は、人間なのだろう。
どうして自分は、人間以外の生き物ではなかったのだろう。
(そうすれば、犬や猫のように悩まずに愛し、愛され、生きて、死ぬ事が出来たのに)
そうすれば、きっとこうして死ぬ事もなかったのだろう。
自分が本当に、家畜ならよかったのに。
アルスはそう思いながら、閉じた目から一粒だけ涙を零した。
終
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アルスさんは予知能力があります。
もしも悪魔と人間がこの時代にこうして愛し合っていたならと考えて書いて見ました。
種族を超える愛というのは、しばしばこうして悲恋が生まれるものだと思います。
2008.06.08...