僕には、一つ困った事がある。
 


「良輝(よしてる)ー」
 午後三時の生温い空気。初夏にしては早めに訪れたこの空気に眉を顰めながら、僕は声に反応せずにノートに目を向けていた。
 それを声は快く思わなかったのか、低い唸り声を上げてどたんどたんと暴れ出す。
 しかし僕にとってはいつものことだ。気にしたら負けである。
 後ろで騒ぎまくる煩い物体を放っておいて、僕は早めにこの宿題を終らせようとシャーペンを走らせた。
 明日提出というこの宿題は、内容こそ簡単なものの量が多い。そのため、普段はこんなコトにならないのに今日までずれ込んでしまったのだ。これはなんというか、不覚だ。
 いままできっちり計画を立てて、宿題はいつも楽に終らせてきた筈なのに、こんなにまでずれ込んでしまうだなんて。僕は完璧主義者ではないけれど、この事実はとても反省すべき物だった。
 しかし、それにも理由というモノがあるワケで。
「よおおおお、しいぃいい、てぇえええ、るぅうううう」
 語尾を延ばす傍線が付けにくい発音で、後ろの低くてうざったい声が僕を呼ぶ。
 ああ、構ってられない。忙しい。
 とりあえず、また無視だ。無視。
「べっつにこんな昼日中の暑い時間からこんな事しなくていいだろー。夜にやれよ夜にー」
 子供のようにそういうが、こっちはそうも言ってられないんだってば!
 お前のせいで、お前のせいでこんなにずれ込んじまったんだからな!!
 と言ってやりたいが、その時間が惜しい。
 夜には別のことをしようと思っていたのだ。その優雅な時間を食ってこの後ろの迷惑な物と遊ぶ気にはなれない。断じてなるわけが無い。
 そんな僕の態度がお気に召さなかったのか、ついに後ろの声はなにか小さな音を立てて、立ち上がった。見えなくても音でわかる。なにせ相手は大きいからな。
 ようやく別の部屋に行ってくれる気になったのだろうかと安心していると、目を向けているノートに黒い影がかかった。……頭の天辺に三角の物が二つ付いていて、大きくて、人間のような……
「みっ、みはた……?」
 僕は後ろに仁王立ちしているであろうその名を呼んで、そろり、と目を動かした。
「…………良輝はそーんなに、宿題の方がすきなのか」
 見上げた相手は、黒髪が肩まで有る斬ばらのうざったそうな髪。僕よりも少し大きな体。そして……


 不自然に頭と臀部から、黒く艶やかな毛をした
 ネコの耳と尻尾を……生やしていた。


 見慣れてはいるが、やはりみはたの顔は少し怖い。
 通常だともうちょっとだらしないんだが、こういう時は獣のようで本当に恐ろしいんだ。
 そんなみはたを見やって、僕は何とか冷静を装おうとぐっと唇を閉めた。
「俺がこんなに可愛ーく頼んでるのに、聞いてくれないんだー……」
 肌着にジーンズという姿は少々ラフすぎるが、(悔しいが)僕よりも逞しい体つきはそんな事を感じさせない。まあ、それは耳と尻尾が無い状態だったら、だけど。
 言っておくが、僕にはコスプレという趣味は無い。
 ならば何故、みはたがこのような格好をしているのかというと、深からず浅からずの微妙な理由があり、それは僕と彼との出会いから説明しないといけないのだが、まあ簡潔に言ってしまうとすると、
 『彼が妖怪』だから。なのである。
 ――凄く浅いじゃないかという突っ込みは、無い事にしてくれるとありがたい。
 兎も角、同居人がそんな珍妙なものだから耳やら尻尾やらが生えているのだ。もう一度言うが、僕はコスプレしたくもないし好きでもないからな。
 それは兎も角。先程から怖い顔でこちらを睨んでくるみはたに、僕は努めて冷静に振舞いながら言葉を返した。ここでビビッていると思われたら終わりだ。
「あのな、僕にも用事というモノが有るんだ。大体お前が大人しくしててくれてたら、僕は今日まで宿題を残さずに、お前と遊んでやれてたかもしれないんだぞ」
 悪いのはお前だ。
 そういって睨むが、みはたに全く効果はないらしく。
 みはたは怯えるどころかにやにやと笑い、意地悪げな鳴声を出した。この仕草は、多分、なにか悪い事を思いついた時のものだ。こういう顔の時はろくなことがない。それはいつもみはたに酷い目にあわされている僕が一番良く解っていた。
 もう何回泣かされたことか……ううう。
 しかし、みはたはそんな僕の気持ちなどまったく量れないらしく、その意地悪い顔のままで首を傾げた。
「へぇー。俺を悪者にすんのか? 俺がぜんぶ悪いのか? へー、ふーん、ほーぉ。」
「な……なんだよ」
「……じゃあ、俺、悲しいからもう散歩とか行って来ちゃおっかなぁー。このままで」
 言いつつ、くるりと踵を返すみはたのその言葉に僕の目が飛び出そうになる。
 慌てて動こうとする足にしがみ付いて止めると、僕は考えの無い言葉を吐き出していた。
「だ、ダメダメダメだっ!! お前が外に出たら僕が恥しいって言うかそれどころじゃなくてもし人に見られたらお前は研究対象の人体実験の天然記念物という憂き目にっっ!!」
 我ながらどうしてこうも妄想狂でトンでもない言葉が出てくるのかと呆れたくなるが、言ってしまうものは仕方が無い。第一、間違ってはいない事だった。
 みはたは自分が妖怪であるという事に危機感を持っておらず、見られることに何の抵抗も感じていないためか、出逢った頃は昼間に堂々とこの格好で歩いていたのだ。
 僕が見つけて匿って、その姿の危険性を説かなかったら、絶対にみはたは人体実験行きだっただろう。僕の大事な、夜に飲むはずの缶チューハイをかけてもいい。
 そんな感じだから、みはたが外出する際には僕が気を払って隠し通さなきゃいけないし、いちいち行動を注意しなくちゃいけないし、トンでもない苦労を背負わされている。
 僕のそんな苦労を泡にしてくれるようなマネは、絶対に許せない!
 というか、許してなるものか。
「だったら遊べよ。」
 僕の気持ちも知らないこのバカ男は、またそんな事を言ってくる。
 だが、ココできっぱり断ってしまえば、みはたは僕を引き摺ってずるずると散歩に出かけてしまうだろう。それもいやだ。日差しの強い昼に連れ出されるのは御免だった。
 なんとかして穏便に済ませられるように、僕は言葉を選んだ。
「わ、解った、遊んでやる。遊んでやるが、もうちょっと待ってくれ。宿題が終らない事にはなにもできない」
 なるべく早く終らせるから、と念を押して、僕はそのまま机に素早く向き直った。
 と、思ったのだが。
「……え?」
 いつの間にか僕は、シャーペンを右手で握ったまま、空中に浮いていた。
 ――のではなくて、みはたに抱えられていたのだ。言うなればお姫様ダッコだ。
 驚いて、顔に熱が上る。慌てて降りようとするが、腰などをガッチリ抑えられていて降りる事が出来ない。というか、このまま降りようとしたら、多分顔から地面に激突する羽目になるだろうな……。
 そんなことを思っている間に、みはたは僕をベッドへ乱暴に落とした。
 ……うん、降ろしたんじゃない。落とした。もんのすごい乱暴に落とした。
「それじゃ、いやだ。遊べ、今すぐ遊べ。」
 聞ききゃあしないよこのバカ猫。
 尻尾を不機嫌そうに揺らしているが、こっちも不機嫌なのは一緒である。耳だって動いてるけど……いや、こっちも不機嫌なのだ。怒っていいのだ。
 とりあえず、怒っている態度を見せる為にそっぽを向くことにした。
「だ、だから、宿題がだな……」
「宿題なんてやんなくても、良輝は頭いーだろ。大丈夫だって」
 いや、そういう問題ではないのだが。
「だから、俺と遊べよ」
 言われて、顎を指で捕られる。そのまま僕は何の抵抗も出来ないまま、顔を正面へと持っていかれた。
 端整で、非の言いようが無いほどの綺麗な顔が、間近に有る。
 文句を言おうとして口を開いたが、みはたはことも有ろうか、そのまま噛み付くように僕にキスをした。結果、何も言う事ができずに、声が消える。角度を変えて舌を侵入させてきたが、悔しい事にそれを拒めるほど僕は非情じゃなかった。
 滑った舌が、口腔を犯す。息をも奪い、まるで自分の体を溶かしてしまうようなその感覚に、ただひたすら酔った。抵抗できるわけが無い。
 やっと離れていった唇に、自分の口が苦しげに息を求める。
 言葉なんてとても思いつくことが出来なかった。
「なあ、良輝……俺と、遊ぼう?」
 虚ろな視界を映す目で相手を見れば、みはたも少し潤んだ瞳で僕を見つめていた。
 耳は気持ちよさげに少し垂れて、尻尾は喜んでいたのかぴんと立っている。解り易いくらいに、この状況を楽しんでいた。
 本当なら、怒らなきゃいけないんだけれど。
「…………」
「なあ、良輝」


 そんなみはたは、とっても可愛くて。


「…………ちょっとだけだからな」
 僕は、嘆息して、そう呟いた。
 すると、みはたは嬉しそうに耳を立てて、尻尾の先を振る。勿論顔はとっても嬉しそうで。まるで幸せがいっぺんに来たみたいな、思わずこっちまで笑ってしまうような笑顔を浮かべていた。
 だらしないったらありゃしない。
 黙ってれば、いい男なのに。
 こんな風な性格じゃなきゃホントいい奴なのに。
 でも、そう思っても、僕はやはり何もいえなくて。
「やったぁーっ! なあなあ良輝、いつものやろーぜ、いつもの!! 今日はぜってぇに俺が勝つからな!」
 体はでかいくせに、なんとも子供っぽい。
 でも。
「………………煩い。今日も僕が勝つからな」
 何故か頬は熱くて、体は火照ってたまらない。
 みはたがそんな性格だからこそ、微かな動悸は止まらなかった。
 いつもこうだ。
 いつもいつもいつも、僕はこうして押し切られて、キスされて、喜んでいるみはたにほだされて結局一緒に遊んでしまう。何もかも放り出して、みはたのやりたいと思うことをやらせてあげてしまう。
 もう、何度目かと自分に呆れる事も出来ない。そのことにすら呆れていた。
「良輝っ、行こうぜ!」
 ベッドを降りて手招きをするその様に、思わず苦笑が浮かぶ。
 こいつも変わりようが無いな。
「解った解った。さっさと遊んで宿題に戻らせてもらうぞ」
 でも結局は、夜までたっぷり遊んでしまうんだろう。
 解り切った結論と、それでも一応抗ってみる台詞に笑い顔が止まらなかった。
 僕は本当にみはたに甘い。
 すでに部屋から飛び出して行ってしまったみはたを気にかけながら、僕は開けっ放しのドアを越えて外へ出たのだった。




 僕には、一つ困った事がある。


 それは、僕がみはたを甘やかしすぎているということ

 を、理解しているのに……





 危機感がもてないことである。



 

 
 
 誰か、解決方法を教えてくれ。







  
   終


***********************

 俺様猫妖怪×真面目青年でした。
 短編BLというのはあまり書いた事が無くて、コレでいいのかとちと不安。
 みはたは黒猫のイメージで書いていたのですが、黒猫って意外に甘えん坊なんですよね。昔猫を飼っていた事があるんですが、黒猫は大分甘えん坊な部類でした。でも猫全員甘えん坊だったから比較にはならないかもしれないんですがorz
 良輝は常識があるのかないのか解らないキャラです。とりあえずみはたが喜んでくれればなんでもしてあげる、甘やかしなお坊ちゃん。困ったものです。
 「僕」という一人称小説はあまり書かない……というか全く書かないんですが、今回は上手くできたのかどうか不安です。ボクっ子は可愛いと思います。でも、多分これからも主役の受けが「僕」ってのはあまりないだろうな……。
 でも、「僕」なのに可愛げがない受けですね、良輝。なんか悔しい気分です。
 「僕」とくれば可愛い男の子が思い浮かぶんですが、病院行った方がいいですかね。



2007.12.06...
 
   
inserted by FC2 system